第75話
・・太陽の塔の暗い裏側をらせん状に上っては下りているを繰り返す。結果の見えない自分のシルエット、動くたびに暗渠の遠い先まで連動する。木枯らしと不協和音の奥、名古屋駅前の地下、プロムナードで迷い込んでいた自分。
「だってしょうがないじゃない、わたしたち、しんわのせかいなのだから」
あの時俺は、遮二無二走りながら出口を探していた。そして行きついたのが高層ビルてっぺんの一室だった。初めて出会ったアメノウズメさんが口にした言葉。なつかしくも愛おしい、今思えばたわいもない会話だった。
わたしたち しんわのせかい・・
もう一度その言葉をかみしめた。見落としてた重大なことが俺のど真ん中を貫き、全身から血の気が引いた。天空からオモイカネさんが言ってたことが脳裏を駆け巡ったのだ。「アメノウズメさまは古事記のなかでしか、ご活躍できない宿命だったのです。そんな宿命のなかでも、辛うじて葛城の叡智の、微かなりともその片りんを携えて、アメノウズメさまは古事記におられるのですぞ」
それって、古事記が塗り替えられたら、アメノウズメさんは必然的に神話から消えるということ?葛城の叡智をアジスキノタカヒコにゆだねて、そのあとアメノウズメさんはあの真っ暗な暗闇の奥に自らを消し去っていった・・
・・なんで俺はそれに気づかなかったのか!
もはやあの笑顔はこの世になかったし、会話もなかったということ?アメノウズメという記憶そのものが、この世から消え去った、ねえ、そうなの?アメノウズメさんよう、あなたは初めからそれを知っていたのですか?なのになぜ自分が消えてしまうことを選ばれた?すこしくらい俺に相談してくれてもよさそうじゃなかったですか!ねえ、アメノウズメさんよう、いるのならこたえてください、黙ってないでこたえてくださいよ!
木枯らしが吹きすさび、他には物音ひとつ動く気配のない古代葛城高天原の境内。葛城山はここ高天山の、神体山白雲峯を後背にいただくあの岩窟。俺は走り寄る。分厚い岩石の塊がその岩窟を天井いっぱいに塞ぐ。俺は手に拳をつくって、ごつごつ硬くとがった石(いわ)戸の表面を叩く。
「おうい、アメノウズさん、出てきておくれ」
俺は声に出した。この声は岩の向こうの岩窟の中に届いているのだろうか。しかし岩窟の奥、アメノウズメさんはすでに塵となって地殻の奥深くに溶けてしまっているのだろうか。巨岩はびくともせず、黙ったままだ。頑是ない子供のように、俺は無茶なことを言い続けているのだろうか。拳が岩肌をむなしく叩き続けている。一筋の涙が頬を伝わると、堰を切ってぼろぼろ落ちてきた。
あめのうずめさんよう、出てきておくれ。
・・・・
あめのうずめさんよう。
なんで、おれのところになんかに、あらわれたんだよう。
手のひらに伝わる石(いわ)戸は冷たくて、固い。46億年もの地球のいとなみは泰然自若として、びくとも動かない。それはわかってる・・
風がさらっていく。漆黒の空にうかぶ、ざらついた真砂の襞の彼方に吸い込まれていく。俺の開いた手の平が黄色く、薄い。桂の敷き詰められた枯れ葉なのかしらん。ひらひらと1枚ずつはがれては遠くへ飛んでいく。ああ、おれの手の平が、からだが、ここの地からひらひらと消えていくとでもいうのか。これからいくつも夜が来て、そしていくつも朝がきて、だけども俺は、この記憶の場所から決して一歩たりとも動くことはしない。
・・・
何十年と走り続けながら、この齢(よわい)になるまで、涙と鼻水がぐちゃぐちゃ。そんなことはわかってる。天井を見上げて、燦然と輝くLEDに向かって、ハンカチでその顔を拭け!
「ほらほら、強がりがまた出たぞ。じゃあ、何か変わったか?何か進展したか?」
「それは俺にもよくわからん」
「いい年こいて、ひとりで勝手に炎上してよおぅ。おまえ見てると逆上というよりもその前に、ひとりで炎上しちまってる。無駄な独り相撲としか見えんがな」
「そんなつもりないし」
「なんだ?そのポケットティッシュは?」
「キャバクラの宣伝がのってる」
「はあ?おまえ、まさか今夜、そこへ行くわけじゃあねえだろな」
「行く。初めてだし、勇気ねえし、おまえらを誘うつもりだったけど、俺ひとりで行く」
ちぇっ、突然のように便意が襲ってきやがるし。しかし、トイレはどこにもないのだから。我慢すればそのうちおさまるだろが。
「だってしょうがないじゃない、わたしたち、しんわのせかいなのだから」
暗くて長い地下道。暗渠の出口はどこだ?おう吐しそうな昇降機、高層ビルの一室、そして高い天井を仰ぎながら「カラカラ」の擬態語で上品に笑うあなたに初めて出会った。おもむろにスカートをたくしあげるや、俺の上半身をすっぽり覆ってきた。スカートの中の天井、そっと手を伸ばしたら「やめてください!」と外から声がした。「どうして」と俺は聞いた。
「だってしょうがないじゃない、わたしたち、しんわのせかいなのだから」
・・そう、神話の世界だったのだからしょうがないのだよ。なりふり構わず階段を駆け上った出口、ふいに俺のからだが地上へと躍り出た。雑踏の街角、人混みに夜の冷たい空気が澄んでる。胸いっぱい吸い込んだら、愛しい男やら女やらが俺の中になだれ込んできた。見上げると、舗道の並木にサンタやソリ、長ぐつの輪郭をなぞった電飾がいくつも浮かんでいた。名古屋駅のロータリーを見遣ると、パープルのグラデーションで着飾ったツリーがビルの高くまで瞬いていた。時刻はどこをさしたのだろうか、帰宅ラッシュの金色の時計台からはディスクオルゴールが円盤の爪をゆっくり噛みながらも、ジングルベルの音階をたどりだしていた。舗道の縁石にかんかん響く靴音はどれも急ぎ足だ。それぞれの手にぶら下げてるのはクリスマスケーキの箱なんだろう。誰もが浮足立っている。そうか、今日はクリスマスの日だったんだ。俺も浮足立って、同じように雑踏に紛れ込む・・・
「なあ、俺とじゃんけんしよう」
「なぜ?あなた、なんかわるいことを、たくらんでいる」
「そんなことないし。俺、じゃんけんが冗談みたいに弱いから。あなたと試したくなってな」
ふたりして上高地へ行く途上、そうだった、高山駅で路線バスに乗り換えるのに停留所の前でバスを待ってた時のことだった。
「いや!だってわたし、ぜったいに、まけるもん」
「いやあ、それはやってみないとわからないよ」
じゃあ、と言ってあなたは、手のひらをつぼめて、はあと息をふきかけて呪文をかけた。ちらりといたずら顔を俺に投げて。
「さいしょはぐー。じゃんけん・・」
にぎったこぶしを空高くあげて、オーバースローの変化球を俺は投げようとしたところに、バスがやってきたのだった。仕方なくじゃんけんを中止して、ふたりは列のうしろに続きながら口約束した。
「じゃんけんは、またいつかにしてね」
「いつ?」
「わからないわ」
「あ、おれ、いいことを思いついたぞ。今年のクリスマスがいい」
「どうして?」
「3回勝負のじゃんけんをしてな、それで負けた方が勝った方の要求を必ず聞くというプレゼントをするんだよ」
「ええー?・・いいわよ」
「ほんと?いいの?これって、大人の約束なんだから、覚悟をしときなよ」
「どういういみ?」
「大人の事情だよ」
・・粉雪、か。こんなクリスマスの日にぴったりのシチュエーションじゃあないか!俺はおもむろに上着のポケットに手を突っ込み、リボンでラッピングされたプレゼントを出して見せる。するとあなたはキャァーと笑顔でプレゼントを受け取ってくれる。冬空の下、「はぁー」と白い息を手のひらに吐きかけて、「じゃあだすわよ」と、クリスマスソング賑やかなショウウインドウの舗道で、「じゃんけん・・」とあなたは言って、むきになった子供顔を見せてくるのだろうか。「きゃあ、わたしのまけだわ」そう言うとあなたは頬をマフラーに埋めながらも、舞い落ちてきた粉雪の中を跳びあがって、はしゃぐのだろうか。
・・おやっ?どこからか、甘い匂いがするぞ。おっと、この匂い、天津甘栗ではないか。もう何年も食べてないよな。ああ、なんていい香りなんだ。よし、今日はクリスマスだし、焼き立ての天津甘栗を買って帰ろう。
俺は上着のポケットに両手を突っ込んで、「おお、さむい、さむい」と独り言ちた。そして甘い匂いのする舗道の向こうへと、雑踏の中を小走りによこぎった。
完
逆上 ダリダ石川 @soramamekun
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