mutate―ミューテイト―
渡良瀬りお
第1話
人間という生き物は果てしなく面白く且つ謎が多い。
それ故に個々の差があるというその一点に不安や恐怖を感じ得ない。
『学ぶ』という行為は人間の専売特許であり、生物的に生き抜くための術である。生身の人間が熊や象に勝つことなど到底不可能だ。
だから嘗ての先人は木を削り石を穿ち、火をくべ意思を疎通させた。
その行為が習慣になり、産んだ子にそれを受け継ぐ。これが学習という物である。
しかし現代の人間という生き物は呆れるほどつまらなく且つ下らない。
先人が受け継いできたその知恵を放棄し、積み上げられた技術に甘んじて成すべき事を成さずに日々を怠惰に過ごしている。
進化と言う物は学び、そこから派生させた何かによってようやく創造される。
ああ。確かに生きやすい世の中になった。
今時鶏肉が食べたいからと言って弓矢を作り狩りに出る人間などいない。
だって飼育されてるし。
ていうかそんな事したら動物虐待で逮捕だし。
そうさ。学ばなくたって今は色んな物で守られているから安全なんだ。
熊と異種格闘技をしなくたっていい。
だからといって、だ。
「・・・授業、始めたいんだけど」
「見て!超激レア!当たった!」
「え、すご!」
わざわざ重たい荷物を持って講義をしに馳せ参じたと言うのに、だ。
「・・・あの」
「え、今日あのバンドNステに出るの?予約してないんだけど」
「あ、やば。つけま取れた。見てこれゲジみたい」
「・・・あんた目ちっちゃいね」
この無法地帯はないんじゃないか。
「ワークの27ページをめくって下さい・・・」
「なー、カラオケいかね?」
「悪い、これからバイトなんだわ」
「はー、まだ午前じゃん。張り切りすぎじゃねお前」
「来月彼女の誕生日なんだわ」
「リア充爆発しろ」
「無差別爆破しないでくださーい」
「いえ。特定の場所へのホーミングなので」
「爆弾とは一体」
もういい。こいつらに単位なんてくれてやんねえからっ!
あーでも佐々木さんだけには上げとこう。
いつも佐々木さんだけは俺の授業をちゃんと聞いてくれてるから。
彼女は俺にとってのオアシスだ・・・。
「それでは、第三類危険物の――」
・・・疲れた。
何なの。何で聞いてくれないんだよ。
俺の90分間ってそんなにつまらないの。
個室のトイレに入り、首に下げた『水流誠司』のプレートを逆さに見ながら、深く溜息を吐いた。
准教授になり一年。
はじめは黙って聞いていた生徒も今となっては見る影は何処にもない。
当然、まじめな生徒が減る度、反比例する様に酒の量だけ増えていく。
誰かに何かを教えるってのは学ぶことの数倍は疲れる。覚えの悪い新人社員を抱えるリーマンの皆々様にはご苦労とねぎらって差し上げたい。
そんな体力勝負のお仕事が俺のような一日部屋に籠もって実験ばかりしている人間に勤まるわけが無かった、んだろうか。
・・・情けないな。何を弱気になってやがる。そんな気持ちで誰かに何かを教えるだなんてそれこそ失礼じゃないか。
気をしっかりと持て水流誠司。お前ならやれる。そう信じろ。
そんな自己暗示や自己憐憫を並べ立てた挙げ句、トイレの癖に出す物を出さずに重たい腰をひんやりとした便座からゆっくりと上げたのだった。
あれ、水が黄色い。
なんだ、出てんじゃねえか。
窓のふちにぽつんと置かれ、
まるで水中に居るかのような美しい輝きだ。
お前の居る場所がトイレなんかじゃ無く音楽室とか美術室なら雰囲気は抜群だったんだろうな。
・・・お互い、場所を間違えちまったのかもな。
花のある窓まで歩き、瓶の縁を指で弾く。キンっと高い音が響き、共鳴するように右ポケットに入れていたスマホが震える。
ああ、もう正午か。
反映されたギルド戦の呼びかけをそっと閉じ、トイレを出た。
嫁が欲しいな。
例えば今。昼休憩に職員室へ戻った俺を手拭の纏った白銀の弁当箱が待っていたりしたらどれだけの幸福指数だろうか。
現実は隣接したコンビニで黒いプラの手作り風弁当を食べるだけ、なんだけども。
愛が足りてないのかも知れない。
もし愛が足りていれば生徒も俺の話に耳を傾けるかも知れない。
そうすればこんな息苦しさからも解放されるのかも知れない。
それならまずは俺の口説きテクでバーに行こう。
・・・まあ、そんなものは知らない。
はぁ、はぁ。
どうしたのだろうか。
息苦しさ、というのは比喩的な表現だった訳だが、それがどうも具現化してしまっているらしい。
ズキンっと脳に衝撃の様な物が走り、少し前が暗くなる。
どうした。俺の小便はそんなにアンモニアが入っていたか?
バカ言うな。アンモニア過多の小便で脳に衝撃が走るとか今日日聞かねえぞ。
今日日どころかそもそも聞かねえか。
はは、軽口叩ける割には冗談じゃ無い程目眩がする。
やばいな、まだ昼飯も食ってないってのに戻してしまいそうだ。どこのどいつだ。そんな軽口が叩けるなら大丈夫だな、とか言いだした奴は。
ああ、ちげえか。こちとら軽口でも吐いてないと辛すぎてどうにかなりそうだからごまかしてんのか。
そっか、そう言う事だったのか。でもよ、もう相当我慢したぞ。良いだろ、少しくらい戻したって。
胃酸が逆流したがってパーリーピーポーしてやがるんだよ。いいよ。この辛さが少しでも軽減出来るなら胃ごと吐き出してやるから。だから、そろそろ勘弁してくれないですかね、トイレの神様さんよ。
あ、トイレ。わざわざ廊下でぶちまけて他人に迷惑掛けることなんて無いだろうに。
ほら、幸いトイレなんて今出たばっかなんだからすぐそこ・・・。
あれ、俺、いつの間にこんな進んでたっけ。
ああ、遠いな。あれ、足にあんま力入んねえや。どうしたんだよ二十代。世間的にはまだまだ現役だぞおい。こんなちょっとの体調不良如きで音を上げてたらきりが無いってもんだ。
やばい、また大きな波が来た。出る、流石に吹き出る。
今朝食べたもので始まる噴水ショーが開幕する。それだけは阻止しないとまずいだろ。
おし、あと少しだ。届け、間に合え。この戸を開けば錆納戸の小瓶が待つトイレがすぐそこだ。
あれ。
花は、何処だ?
あ、足に力が・・・。
吐き気が。
目眩が・・・。
あ。
消えた。
真っ暗だ。
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