第22話 禁断の遊び(続きの続き)
☆
芽依は白いテーブルチェアに座ったままだった。話し相手はもう去った。逃げるように消えていった。まだ雨も降らないうちに。
しかし、雨は確実にすぐ傍まできていた。ゴロゴロと、舌舐めずりする音が空からは聞こえていた。だが芽依はそこから動かなかった。今日はツイてる、芽依は思った。暇を持て余さなくていい。話し相手はすぐに見つかった。
「ゆ、ら」
その名を、じっくりと噛みしめるようにして呼んだ。
「なんだよ、芽依。お前とはもう話さないよ。明日が終われば、もう一生会うつもりもない」
由良は、離れから本邸へ行く途中、といったところだった。
「お茶しましょうよ。彼、全然飲んでくれなかったんだもの。一口もね。まだ温かいんじゃないかしら」
芽依は何も聞こえていなかったように由良に言った。由良は芽依を見据えた後、言葉の通り、「話す気はない」態度を守り、そのままその場を通りすぎようとした。
「ゆら、ゆりの秘密をね、なつきに話したの」
芽依は、由良のその態度を見ても気にせずに話を続けた。そう、『百合の秘密』にはみんな勝てずに立ち止まることしかできない。夏樹も、由良も。
「ふざけるな……。それはもういいと、言っただろ……」
噛み殺すように、滲みだした声。由良は自分に言い聞かせているだけだった。
「ゆら、どうしてみんなゆりを愛すのよ」
「何……!」
「あんな人殺し」と芽依は軽く言ってのけた。止めることはできなかった。
「……」、由良は絶句した。
「あたし、見たのよ、由良。かよ子おばあ様が死んだ日、あたし、見たの。もう、見たのよ。それは一瞬、ほんの一瞬かもね。だけど確かに見たわ。そしてね、かよ子おばあ様がこう言ったの。『許して、ゆ……』」
その時の雷鳴には、芽依も思わず笑ってしまった。最後の一言が、光と共に響いた雷鳴に邪魔をされ、おそらくは由良の耳に入っていないと思った。
「あははっ、だから秘密の話ってのは最高だわっ!」
その雷鳴を合図に一気に豪雨となる。芽依はそんな雨を気にもとめず、本当に面白いことがあったかのように笑っていた。由良はそんな芽依を見て、湧きあがる感情を上手く表現することができなかった。由良にはハッキリと聞こえていた。いや、実際には聞こえていなかったのかもしれない。しかし、由良にはわかっていた。最後の一文字が。
もう、どうでもいい。芽依が百合を見ていたのなら、もう終わりだ、由良は思った。見て見ぬふりをしてきたが、ハッキリと言葉に出されると逆に力が抜けてしまった。
「どうするの? ゆら。ゆり、警察に捕まっちゃうわよ。私はもちろん言わないわ。でもね、あの子、全て見透かしてるもの」
「あの子? あぁ、あいつ?」
由良は上の空で答える。由良の全身はびしょ濡れだった。それは当然芽依も同じだったが、芽依はまるで、気持ちのよい晴れた日の午後であるかのように、優雅にそこにいた。たいそう満足気だった。
「芽依、一つお前について言いたい」と由良は言うと、芽依と目を合わせた。芽依はその目がまたしても、いや、最近はいつもだけれど、怖かった。昔は……、芽依はふと昔を思い出す。昔は、優しいのはこの目じゃなかったかしら?
「正気なんだろ?」と由良は言った。
「……もちろん」と芽依は慎重に答える。何か危険な雰囲気を察知していた。
「ははっ……無駄なことをしたもんだな、芽依」
由良は笑っていた。芽依にはそれが「おかしな人」に見えてならなかった。あれ? 私もあんな風だったってこと? 芽依は急に自分を客観的に見れるようになった。そして由良を見て思った。由良、正気なフリをしていたの?
「皆芝居してんだぜ、芽依。なんでそいつが百合だってわかるんだ?」
何を言いだすのかしら? 芽依は首を傾げてしまう。「見たからよ、ゆりを」
「……いや違うね、お前が見たのは……」
タイミングよく、また雷鳴が由良の言葉をかき消してしまった。今度は由良がそれに笑った。芽依は死ぬほど悔しかった。
「何? 何よっ!」と芽依は繰り返す。芽依は由良に掴みかかろうとしたが、由良は強くその手を払いのけた。そして、芽依を深く見つめると、芽依はまるで裸を見られているかのように恥ずかしくなった。その様子を見ると、由良は満足気に笑みを浮かべ、離れへと引き返していった。
「な……、なんなのよ」
芽依は唇を強く噛んだ。雨と秘密の話……。なんて相性の悪い! そしてそう思った。肝心なところを全部持っていってしまう……。芽依は浅はかにもそう思った。
やはり、雨は秘密の話と相性がいいのに。芽依の持論でいけば。
「百合ちゃん、おいで」
かよ子は小さいその手を引っ張る。きしむ音が鳴る。大きいのと、小さいの。
「おばあちゃんの部屋でお遊びするのよ」
その顔はとても優しかった。迷ってしまう、信じてしまう。それは、善なるものを掲げた宗教勧誘のような笑みだった。
少女は手を引かれてかよ子の部屋に入る。
「さ、ここで一緒におねんねしましょう、私のかわいい百合ちゃん」
かよ子は優しく少女を見つめるが、少女はそれがとてつもなく恐ろしかった。これはいけないことだ、間違っている。幼い頭でもそれだけは理解することができた。少女には、本当の「優しい顔」がどんな顔なのか、一生理解できそうにない。少女は声を出すこともできない。助けを呼ぶ? いや、ここの人間は助けてくれない。そもそも何も起こってはいない。これはおばあ様にとって、ただの孫との戯れに他ならないのだろうから。
だけど……、なぜ……僕のことを百合って呼ぶの? あれ? 僕が百合だっけ。
あ……。
かよ子は少女の長い髪を優しく触る。「なんて若い髪の毛、きれい」
髪が……長い。あぁ、そうね、私は女なんだわ。だって女だもの。女として生きていかなくちゃ。ねぇ、正しいかよ子おばあ様、私は本当は女だって見抜いてたのね。
「ねぇ、百合ちゃん、私はねぇ、皆から気違いだって、おかしい女だって、思われてるのよ。陰で『兄弟食い』だなんて言われたりしてるの。だけど私は本当に愛してるの、愛してるのよ。とても強く、深く、綾北家の男を! その血を! そう、綾北家の男の血を、深く深く、愛しているの」
綾北家の、『男』? 少女はその言葉にひっかかる。
「登一郎も清次も愛しているのよ。だって、その血が好きなんですもの。二人とも同じものなの」
かよ子は小さな少女の耳をかじった。
「いたいっ!」と少女は叫ぶ。
「あぁ、ごめんなさい! 本当に許して! 可愛い血が……。私はね、純血が大好きなの。純血の子が欲しい。雪成……あの子のことも愛した。だだっこで困るのよ……」
ゆきなり? お父さんのこと? 少女は思う。
「ねぇ……私が好きなのはね……、男なのよ」
男? 何言ってるの? 私は女なのに。
かよ子は少女を強く抱きしめ体を触る。嫌だ! 少女のその声はどうしても発されない。
「あの女……私を騙そうとしたのね。でも残念、私には雪成がいるんだから。流也、あいつは落ちなかったけど」
かよ子は顔をひどく歪ませた。鬼だ! 少女は思った。鬼だ!
「百合ちゃん、かわいい百合ちゃん、私はちゃあんとわかってるんだからね。かわいそうな由良。売られちゃったのね。でもね、わかっているのよ」
由良? 由良ってあたし? いや、私は百合だわ。少女の頭はひどく混乱していた。
「圭一のとこは女を産むし、本当役立たずな女ね……。ふふ」
かよ子の目の焦点はふらふらと揺れ、どこを見ているのかいまいちわからない。
「百合ちゃん……、あんたが由良だって、私は知ってるんだから!」
いえ、私は由良じゃない。百合よ。だって女の子よ。おばあ様、私は女よ。残念だったわね。少女はその時そう心に思った。残念だったわね、やっぱり出しぬくのは私よ、おばあ様。そのいかれた頭で勝手に楽しむといいわ。汚らわしい趣味。そして、汚らわしい血。何を愛しているのかしら。好きなだけ楽しむといいわ。私は女なのに。
憐れなおばあ様。私は女なのに。
浮遊アイデンティティ 真山あやめ @ayamemayama
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