雪景抄

 明け方から、ずいぶん長く歩いた気がする。

 こんな時間に外に出たのはほんの思いつきで、分厚く着込んだ防寒具とステンレスの水筒の他には何の用意もしていなかったから、防水していない靴に溶けた雪がしみ込んで気持ち悪い。体はうっすら汗ばんでいるのに、大気に晒される顔は痛いほどの寒さを感じている。

 それでも足元から伸びる長い長い自分の影で、太陽が上り始めてからまだそれほど経ってはいないと分かる。

 その影を追うように顔を上げ、改めて周囲の景色を眺める。

 視界は、青と白の二色に塗り分けられていた。

 半分は雲一つない晴天、もう半分はそれを反射する、刺すような眩しさの雪。

 その白はただひたすら均質に、彼方の地平線まで敷き詰められている。私の前には誰一人いないし、何一つ余計なものもない。足跡、轍、そのわずかな痕跡さえ見つからない。

 ゆっくり、深く、息を吸い込む。冷えて乾いた空気が鼻腔を通って、胸の奥をチリチリと刺す。この景色を構成する空気が私の中に混じり込む。

 限界まで肺を膨らませて、一気に吐き出す。思い切り上げた大声は空と雪に拡散して溶け、神様にしか聞こえない。

 私だけの景色。


 気分に任せて何度か同じことを繰り返してから、尻餅をつくように腰を下ろした。

 体重に押し潰された雪がザクリと音を立てる。

 少しの間地平線を眺めて、水筒の蓋をコップ代わりに熱いコーヒーを注ぐ。湯気を通して、また地平線を眺める。

 呼吸の度に湯気が揺れ、洞窟を通る風のような音が響く。

 そっと息を止めると、今度は心臓の拍動が聞こえ始める。テンポが速い。私は興奮しているみたいだ。

 それを知るのも、この世界で私一人。

 なんていう孤独。なんていう専横!

 きっとこれが欲しくて、私はこんなところまで歩いてきたんだろう。コーヒーの香りと、肺を刺す空気と、一面の青と白。そして何一つない時間と空間。


 コーヒー二杯をゆっくり飲み終えたあと、冷え切った尻をさすって立ち上がる。

 振り向けば太陽はずいぶん力を増して、雪上についた一条の足跡を照らしていた。

 均質な白を乱す人の痕跡。私の背後にずっとあったもの。これを逆向きに辿って帰るのだ。

 少しだけ気が重いけれど、私は家路へ踏み出した。

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超短編の掃き溜め @yakiniku_tabetai

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