ゴッホの値段

「ゴッホの絵がどうして高く買われるか、知ってる?」


 放課後の美術室、美濱みはまさんは絵筆を動かしながら僕に問いかけた。

 正確には、問いかける形でいつもの講釈を始めた。

 高校最後の文化祭、美術部員で展示作品を仕上げていないのは僕と美濱さんの二人だけだった。

 僕はとにかく筆が遅いせいで、美濱さんは取りかかるのが遅すぎたせいで。


 美濱さんは言語野と視覚野が切り分けられているのか、会話をしながら絵が描けるタイプだ。僕は一方に集中するともう一方がまるでだめになるから、こうして作業しているときはたいてい美濱さんの話を生返事で聞き続けることになる。


「あれは、ゴッホの人生の値段なんだよ。私の偏見じゃない。NHKでも言ってたんだから」


「人生?」


「そう。ゴッホという物語の値段、と言い換えてもいい。フィンセント・ファン・ゴッホ。芸術と狂気に愛された天才。類稀な情熱で絵を描き続けたが、生前それはたった一枚しか売れず、不遇の内に自ら命を絶った。悲劇の画家。絵なんて分からない人々も、そんな物語に魅了される。実際に生きて死んだ一人の画家を、キャラクターとして愛して、消費している。分かるね」


「それで?」


 生返事で続きを促す。目と手と脳の大部分は作業に集中していたから、靴紐を結ぶみたいな無意識の言葉だ。


「つまり、ゴッホの絵は物語に囚われている。人々は、絵を見るふりをして物語しか見ちゃいない、ということ。これはゴッホだけじゃない。全ての画家に言えることだし、画家以外の全てにも当てはまる」


「はぁ」


 聴衆もいないのに、演説のような物言いだ。もっとも、美濱さんがこんな話をするのはたいてい二人きりのときだから、聴衆がいないからこそ、なのかもしれない。


「苦境の中で書かれた詩、自分の子供が弾くピアノ、劣等生が努力して得た及第点。およそあらゆるものを『物語』は色づけして、生の真実を塗り潰してしまう。誰も『絵そのもの』を見ることがない。見ているのは『絵を描いた人間』だけだ。分かるね?」


「ああ、まぁ」


 僕は気の抜けた返事をして、絵を描き続ける。文化祭直前に作品を仕上げていない文化部員は、雑談に振り分けるリソースなんて持っちゃいない。


 少しして、演説が止まっていることに気づく。

 美濱さんは、作業の手を止めてまっすぐ僕を見ていた。その頬が妙に上気している。


「怒ってるの?」


「当たり前だ」


 生返事はまずかったかな、と思ったが、美濱さんの怒りは僕に向いてはいなかった。


「創った者の人生が芸術の価値を決めるなら、どんな美の探究も無意味ってことだろう。私は腹立たしいし、誰だって腹を立てるべきだよ。理想を望んで生み出したものフィクションが、まるで理想とは程遠い現実ノンフィクションの自分に劣るなんてあり得ない」


「ええっと……」


 なんだか突飛な話になってきた。美濱さんは何が言いたいんだ?

 正直ちょっと面倒くさい。


「じゃあ、知り合いに褒められても腹が立つってこと? 知り合いの作ったものなら、見ず知らずの作者のものより興味を持って当然だし、いいものに見えることもあるだろうけど……、作者と自分は知り合いっていうのも『物語』だよね、美濱さんの言い分だと」


「それはまた別。褒められたら嬉しいに決まってるだろ」


 美濱さんは平然と首を振る。面の皮が厚い芸術家だ。


「ただね、褒め言葉で『世界一』なんて言おうもんならカチンだよ。そんなこと言える奴は世界を知らないか恥を知らないか、二つに一つだ」


「ほんとに世界一って思ってるのかも」


「それこそ!」


 持っていた絵筆が音を立てて床に叩きつけられる。ああ、部の備品なのに。


「それこそ物語の着色だよ! 不愉快! 極まる! こんな未熟者の作品が世界一? 眼球がビー玉か? マジで! マジでそういう奴いるからな! 『文脈』でしか世界を見ようとしない奴! 眼前の美しさに価値を見い出せない奴! そういう――」


「美濱さん、声がでかい」


 僕は両手を上げて、今にも食いついてきそうな美濱さんを制止する。言いたいことは分からなくもないけど、ここまでキレる理由には思えない。しかも僕に向かって。


 正直だいぶ面倒くさい。


 美濱さんは深呼吸して手近な椅子に座り直す。曖昧な声でもにょもにょ謝ったので、過熱していた自覚はあるんだろう。その後しばらくは、身を縮こまらせて大人しくしていた。


「――とにかく」


 僕の意識が作業に戻りかけた頃、ほとぼりが冷めたと思ったのか、ぼそりとつぶやく。


「私はそういう物語ノンフィクションが大嫌いなんだ。だから今回の作品は、展示に少し趣向を凝らしてみることにした」


「……さっきの続き?」


「これが本題。どんな作品も物語で色づけられる宿命なら、絵画を包摂する物語を私の作品にしようってこと」


「はあ……、要するに、展示をストーリー仕立てにするとか、作者をキャラクターとして演出するとか?」


「そういうこと。そしてそこからが重要なポイントで、作品を物語にすること自体は物語の効用の肯定であり、言ってしまえば『物語主義』の立場なんだけど」


 美濱さんが椅子ごとこちらに身体を寄せる。


「この作品を私のような人間が―― つまり、物語に否定的な人間が仕掛けた、ということは物語を台無しにする事実で、それを知る人にだけは、これは『反・物語主義』の作品になるんだ。物語が受け入れられれば受け入れられるほど」


「具体的に、どういうこと?」


「君を信頼してる、ってこと。私はこの学校にゴッホを創るよ」




 これが、美濱さんとの最後の会話だ。


 結論から言うと美濱さんのおかげで文化祭は中止になり、僕たちの作品も展示されずじまいだったけど、美濱さんはそれも見越して自分の絵をネットに公開していた。

 おかげでそれは尾ひれのついた噂とともに日本中に広まり、美濱さんの名前も少しだけ有名になった。ゴッホには程遠いけど物語はそれなりに効いたみたいだ。


 僕は噂がどれもこれも的外れだと知っている。美濱さんは天才じゃないし、社会で孤立していたわけでもない、ただ少し思い込みの激しいだけの高校生だった。そう知った上で噂を眺める人間の存在で、多分、美濱さんの言った『反・物語主義』は完成するんだろう。

 そんな思い込みで、よく突っ走ったものだ。ある意味芸術的かもしれない。


 ただ。


 物語を否定するために命をかけるのは、肯定するためにそれをするのと同じぐらい強く物語に囚われている人間だ。

 美濱さんは、そうしなければならないくらい、追い詰められていたんだろう。物語に。


 僕はそう思う。

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