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 控え目なノックの音で目が覚めた。「スズ、開けるよ」言うが早いかドアが開いて、恵が覗き込んでくる。

「今日、学校どうする?」

 その言葉に、もう朝か、とやっと気づく。眠った気がしないくらいの深い眠りだった。昨日はいろんなことがありすぎて、今になっても全身の疲労感は全く取れていない。だけどそれは嫌な疲れではなかった。

 軽い口調を装う彼女だが、その口端に隠しきれない緊張が読み取れてしまう。伝わっていることに恵自身も気づいたのか、すぐに不安げな顔を見せる。お互い分かり合っているからこそ、繕わない方が気持ちは伝わる。

 まだ行くつもりはなかった。少し怖かった。だけど、恵のそんな様子に少し揺らぐ。

「どうしよう、かな」

 ベッドから出ると、体がいつもより重かった。対応しきれずバランスを崩す。支えにしようと机へ手を伸ばした拍子に、鞄を机から落としてしまった。

「大丈夫!?」

 慌てて近寄ってくる恵、体を支えてくれるその手がとても優しい。

「もう、大げさだよ。大丈夫」

 立ち上がると、恵が拾ってくれた鞄を手に取る。

「あれ、そのお守りどうしたの? 可愛い」

 何のことかと思えば、愛子からもらったお守りのことだった。そう言えば鞄に付けたんだった。

「ああ、愛子にもらった。手作りってすごくない?」

「さすが。愛子ちゃん、ほんとスズのこと好きよね」

「それ笑えないんだって……」

 毎日家に来てくれていた彼女。顔を合わせたらどうなるんだろう。どんなに喜んでくれるだろう。それとも怒るだろうか。

「その花、何だろうね」

 お守りを手に取って、恵は首を傾げる。お守りの中心に書かれた私の名前、その周りを彩る花々。

「私も分かんないなあ。けど可愛い、これ好きかも」

 恵が私と目を合わせた。

「どこかで見たことあるような気がするんだけど……」

 しばらく考えていた恵だったが、思い出せなかったようだ。駄目だ分かんない、と首を傾げる。

「学校、今日は、やめとくよ。昨日で体疲れちゃって」

 タイミングを見計らって、私は恵に言う。少し申し訳なくて真っすぐ顔も見れなかった。

「そっか」

 そういう彼女の声には、落胆が多く含まれていて。思っていた以上の反応に少し焦る。

「ごめん。週明けはきっと行くから。月曜日、一緒に行ってくれる?」

「本当!? ……分かった。でも、無理はしないでね」

 ちょっと不自然に笑う。だけどすぐにいつもの恵に戻り、私に手を振った。まるでかつての学校帰りと同じような様子で、かつての別れと変わらないように、じゃあね、と扉を閉めた。じゃあ、と後ろ姿を見送る。

 最後まで彼女の顔をちゃんと見れなかったことを、私は一生後悔することになる。


 ☆


 元気なノックの音で目が覚めた。どうやらまた眠っていたらしい。ここしばらくは昼夜を問わず寝ていたため生活リズムはめちゃくちゃで、今日も朝恵を見送った後、眠気の赴くままにベッドに入ったところまでは覚えていたのだが。

 恵が帰ってきたのかな。未だはっきりしない頭のままふらつく足取りでドアを開けると、その先にいたのは、大きな目をこれでもかと見開いて驚いている愛子だった。

「あれ、愛子、どうしたの?」

 愛子は目をいっぱいに見開いたまま口をぱくぱくとさせている。いつも自分のペースを崩さない彼女にしては珍しい。

「どうしたって、いや、だって、鈴さんこそ、え、大丈夫なんですか、って言うか、え、あの、えと」

 愛子の言葉は、次第に意味をなさないものに変わっていく。そうか、そりゃあびっくりするか。つい昨日まで部屋から出てくる気配も見せなかった私が、今日は簡単にドアを開けたのだから。

 どこから説明すればと考え始めたところで、愛子が勢い良く抱きついてきていた。受け止めきれず数歩後ろに下がる。ベッドに手をつき支えにし、倒れないようにするので精一杯だった。

「鈴さん、久しぶりですう……。よかった、また会えました……。嬉しいです。鈴さん、鈴さん」

 愛子は私の名前を呼んで、声を上げて泣き始めた。彼女の小さな頭をぎゅっと抱きしめ撫でてやる。ごめんね、お待たせ。そう言いながら、私の方ももらい泣きしそうになった。彼女の体全身から私への思いが伝わってきて、その思いの大きさに改めて気付かされて、そんなにも心配してくれる彼女は、やっぱりいい子だ、と思う。応えられなくてごめん。ありがとう、愛子。声には出さず、そう思う。

 落ち着くまでしばらくずっとそのままでいた。やっと離れた愛子は恥ずかしそうに目を伏せる。

「ごめんなさい。取り乱しすぎました」

 ハンカチでは足りないと判断したのか、部活用のタオルを顔に当てて涙を拭う。タイミングを見計らっていたのか、ここで恵の母親がお茶を持ってきてくれた。机の上にグラスが二つ置かれる。

 ……というか、恵の母親も先に言っておいてくれればよかったのに。

「ありがとうございます」

 礼儀正しく頭を下げた愛子は私を制して机に向かい、二人分のお茶を取ってくれた。私は愛子に椅子を勧め、ベッドに腰掛ける。

「あ、鈴さん、愛子のお守り付けてくれてるんですね、嬉しいです」

 その過程で私の鞄が目に入ったのだろう。本当に嬉しそうな顔でこちらを見る。

「うん、可愛いから。わざわざ作ってくれてありがとう」

「いえいえ、とんでもないです。ふふふ、これで愛子とお揃いですね」

 言って、愛子は制服の隙間から似た形のお守りを取り出した。自分の分も作ってたのか。

「え、それ、私の名前?」

 てっきり自分の名前をつけているのかと思いきや、愛子のお守りにも私の名前が入っていた。

「そうなんですよ。だから、愛子と鈴さんは一心同体みたいなもんです! 嬉しいです」

 可愛いとしか思っていなかったお守りが、急に薄気味悪く感じ始めた。しかし一度付けているところを見せてしまった以上、もう外すわけにもいかない。

 話は変わりますが、とお守りをしまった愛子がこちらを向く。

「鈴さん、もしかして今恵さんはお出かけ中ですか? もしかしてこれは、密室で二人っきりってやつですか?」

「いや、恵の母さんはいるし密室でもなんでもないけどね」

「まあまあ細かいことはいいじゃないですか」

 よくない。私は無言で少し遠くに座り直す。それにどうせ。

「急いで恵より早く来たんでしょ。偶然ぶらないでよね」

 二人が同じ部活である以上、そういうことだろう。しかし愛子は腑に落ちないという顔で可愛く首を傾げた。

「もしかして、まだ恵さん帰ってきてないんですか」

 急に真面目な顔つきになる愛子に少し驚きながら頷く。

「おかしいですね。だって恵さん、今日は部活を休んで先に帰ってましたよ」

「そうなの?」

 確かにそれはおかしい。真面目な恵が部活を休むなんて。それに、学校から出ているのに家にいないなんてどういうことだろう。どこかに行きたくて部活をサボった、という解釈が真っ先に浮かぶが、それはどう考えたって恵らしくない。

「そうだ、私ついさっきまで寝てたからさ、気づかなかっただけかも」

 そう思って恵の部屋を覗いてみるが、帰ってきた形跡はない。念のためと恵の母親に聞いても答えは一緒だった。まだ帰ってきていない。母親に礼を言うと部屋に戻る。

「今何時?」

「七時半くらいです」

 部活終わりで直行してきた、という時間。もうすぐ梅雨の季節で随分日も長くなったが、この時間にはさすがにもう暗い。一体どこにいるんだろう。

「何か嫌な予感がします」

「やめてよ。縁起でもない」

 そう言ったが、私も同様に不吉な感覚を味わっていた。恵に電話をしても応答はなく、メッセージを送っても未読のまま。恵はいつもスマホを見てるわけじゃないから、それ自体は不自然ではないが……。

「どこにいるんだろう」

 これは根拠のない不安なんだ。だからちゃんと分かれば解消できるはず。きっとそうだと自分に言い聞かせ、無理矢理に頭を回す。

「恵、部活を休んでるんだよね、何か理由とか知らない?」

「いえ、知りません。愛子は鈴さんにしか興味が無いので……」

 この期に及んでふざけないでほしい。私は愛子を軽く睨む。

「恵が部活を休んでまで行くところ、か。どこだろう」

「どうでしょう。場所で思いつかないなら、理由とかはないですか。恵さんがしようとしてたこととか」

 多少反省したのか、愛子も協力してくれる。

「そっか、うーん」

 ただ、その考え方の方が近い気がした。部活を休んでまで恵がすること。

「私のためかもしれない」

 恵なら有り得る。自分のためじゃなく私のためになら、特に今みたいな状況なら。

「鈴さんのため、ですか。嫉妬しますね。……いえ、すみません。さておき鈴さん、何か心当たりってありますか。今日いきなりって言うのもヒントになりそうですね。部活が休みだった昨日じゃなく、わざわざ今日ってところが不思議です」

「なるほど、となると、恵が昨日帰ってから今日行くまでにあった出来事がヒントになるわけか」

 秀才だけあって、上手く思考の流れを整えてくれる。昨日から今日。かなり限定されたが、それでも昨日は色々ありすぎた。由美たちを連れてきて、その後安達と三人で話して、ご飯も食べて、その後は疲れてほとんど何も話していない。そして今日は学校の誘いを断って、見送って、それだけだ。

「駄目だ、分かんない」

 私のため、と考えるなら。私は何を望んだだろう。いや、恵から見て、私に対して何をしてあげたいと思ったのだろう。

「恵さんのことを一番よく知ってるのは鈴さんです。だから鈴さんなら、恵さんの考え、きっと何か分かるはずです」

 私がよく知っている恵。恵の考えること。私のために。恵はどんな人だろう。私のために色々してくれる、世話を焼いてくれるような存在だった。してほしいことを言えば、ちゃんと真面目に向き合ってくれた。

 してほしいことを言えば。言えば? ……そうだ。恵はサプライズが苦手だった。言わなくちゃいけなかったんだ。誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも、恵はいつも何が欲しいか私に聞いてきた。

 じゃあ今も、私が恵に何かを求めて、恵はそれをしてくれている? 私が恵に求めたもの? 何だろう。安達? まさか。思い出せ。恵との会話。何を話した。昨日の夜は。泣いてばかりでちゃんと喋っていない気がするし、そもそも覚えていない。だけど恵だってそうかもしれない。じゃあ今日の朝は。たった数分話しただけ、だけど。何の話をした。学校に行くか聞かれた。断った。来週は行くと約束した。それだけだ。

「何か、ないですか?」

 愛子の声に、いつの間にか抱え込んでいた頭を上げる。すると即座に目が合った。答えへの期待だけではないくらいの強い視線が向けられていて、思わず目を逸らしてしまう。

 そうだ、今日も愛子の話をした。どうしてだったか……。

「お守り……花」

「どうしました?」

 突然声を上げた私に近寄ってくる。鞄のお守りを掴み、愛子に見せる。よく分からない可愛い花があしらわれたお守り。

「朝これの話をして、えっと、恵はどこかでこの花見たことあるって言ってて、私は分かんないけどこの花好きだって言った」

 だから。

「恵さんはこの花を探しに行っている?」

 愛子は察しが早い。

「かもしれない。ねえ愛子、この花は何?」

 一瞬考える愛子。だけどそれは迷っているようにも見えた。

「私も名前は知りません。だけど、咲いている場所なら心当たりがあります」

「どこ? 案内して!」

 居ても立ってもいられなくなっていた。私は外出できる恰好に着替えると、恵の母親には散歩に行くと嘘をつき外に出た。生ぬるい空気が私たちを覆う。もう夜も涼しくない季節。

 恵の先導に従い、駅とは反対の方向に走る。昔この辺りに遊びに来たことがあって、あの花見つけたんです。ずっと可愛いなって覚えてて。あ、鈴さんと感性一緒ですね! 愛子たちきっと相性抜群ですよ! 愛子はいつもと変わらない調子でそう言いながら、暗い道を迷うことなく駆けていく。

「この奥の、山の中です」

 辿り着いたのは大きな公園。そこそこ広い芝生広場と、山道の方にはたくさんのアスレチックがある。良く言えば自然と触れ合える、悪く言えば土地を持て余した田舎の、よくあるような公園だ。

 愛子は広場を横切ると山道の方へ進んでいく。アスレチックのあるコースからそれた小道で立ち止まる。山に入ると本当に暗い。懐中電灯を持ってこなかったことを後悔した。

「二手に分かれましょう」

 スマホのライトをつけて愛子が言った。

「花はこの辺り、少し入ればいっぱい咲いています。私は右側に行くので、鈴さんは左側を探してください」

「う、うん」

 では、と愛子は先に行ってしまう。私も戸惑いながらライトを付け、頼りない光を頼みに細い道を進んでいく。なんだか薄気味悪い。急に足元で何か動いた気がした。ひっ、と声にならない悲鳴を上げて立ち止まる。ライトで照らすと、それは自分で踏んだ草だった。虫の鳴き声に驚き、そよ風に身を震わせる。そんなことを繰り返し怯えながら進んでいくと、ライトの中に鮮やかなオレンジの何かが浮かび上がってきた。近づいてよく見ると、それは花の蕾で、開いてはいないので断言はできないが、どうやら愛子がくれたお守りにある花のようだった。その周りを照らしていくと、他にも似たような蕾が見つかる。その密度は、奥に行くほど大きくなっているように見える。

「恵、いるの?」

 だめもとで名前を呼んでみる。さほど大きな声ではなかったが思いの外大きく響き、静かな山の中を不気味に音が反響した。

「恵さーん!」

 少し遠くから愛子の声も聞こえてきた。そのことに少し安心する。

「恵ー!」

 声を出していると少しは気も紛れる。今までよりも少し早いペースで先に進む。蕾がますます増えてきたと思ったその時、ライトの隅に今までよりも大きなオレンジが映された。

 不思議に思い、その方向にライトを向けた。そこにあったのは、今までにはなかった、開いている状態の花だった。それに違和感を覚える。

 開いていることに対してだけではない。花の位置が低いのだ。今まで見た花は、例えばタンポポのように、地面の高さから茎が生え、その先に蕾を付けていた。だけどこの花は、まるで茎が一切ないかのように地面すれすれにあるのだ。

 今思うと、この時点でもう感じ取っていたのかもしれない。無理に頭を働かせて、どうでもいいことを考えるふりをして、その先を、現実を見るのを遅らせようとしていた。無意識に。

 ライトでよく照らすと、花にはちゃんと茎がついていた。だけどそれは地面と平行に伸びている。私はライトで茎を辿っていく。その先にあったのは、手だった。人間の、手だった。

「ひっ」

 声にならない声を上げ、数歩後ずさる。ライトで照らされる範囲が広がった。

 細く白い手首、腕。私はこの腕を知っている。そう直感する。だけどそれは傷だらけで見たこともない方向に曲がっていた。二の腕から先を包む服は、私たちの高校の制服だ。ああ、もう夏服になっているんだな。どうでもいいことを考える。

 ささやかな胸の膨らみ。そして暴力的なまでに主張する、赤、赤、赤。血の色だと気づくまでにそう時間はかからなかった。

 驚きのあまり、手からスマホを取り落としてしまう。ライトがあらぬ方向に向けられた。その方向に、私は無意識に目を向けてしまう。そして見た。見てしまった。

「あ」

 それは。私の目に飛び込んできたものは。

 思い出す。「私、二番目くらいに、誰の記憶にも残らずにひっそりと死んじゃうんだろうなって」確か彼女はそう言った。こんなことあっていいはずがない。嘘だ、と思った。

 私が今見たものは。

 それは。小さい頃からずっと、何年もずっと一緒にいた親友の。

 誰よりも近くにいて、誰よりも信頼していた親友の。

 ――あまりにも汚い、死に顔だった。

 何がひっそりだ。

 私はそれを、もう一生忘れられない。

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左利きの呪い 秋梨冬雪 @hakinashi

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