3

 そして翌日。部活が終わるやいなや、私はダッシュで部室に戻り、急いで身支度を整える。脱いだ練習着をとっちらかし、畳みもせずに袋にぶち込む。同じく気が逸っているはずの恵はしかし、練習着は畳むし服を投げ捨てもしない。これが育ちの差か! と要らないダメージを受ける。がさつな私とてきぱきとした恵の準備速度はほぼ変わらず、二人揃って部室を飛び出す。今日は我が家で私のささやかな誕生会。恵が料理を作りに来てくれるのだ。

「あ! 鈴さんもう帰るんですか! さては愛子に黙って何かするんですね! ずるいです!」

 コート整備をしている愛子が私たちを目ざとく見つける。別に報告する義務なんてない。質問には答えず、じゃあねまた明日、と愛子たち一年生に手を振る。

「今何時?」

 聞くと、恵は鞄から腕時計を取り出す。

「六時半。四十五分の電車、乗れるかな」

 かちり、と腕時計を留めて答える。駅までは普通に歩いて二十分。早足で行けば恐らく間に合うだろう。私は母さんに、今から帰るとメッセージを送る。

「ところで、今日は何作ってくれるの? 楽しみだなあ」

「うーん、これから一緒に買い物するわけだし、何買うか見てたらだいたい分かるんじゃない?」

「分かんないから聞くの!」

 料理スキルが皆無の私に、食材だけで料理を特定さするなんて芸当は不可能だ。恵はあちゃー、と頭を掻く。

「じゃあまあ、できてからのお楽しみってことで」

 恵はいたずらっぽく笑う。その笑顔から、恵も今日を楽しみにしてくれていたのが伝わる。それはもちろん嬉しいが、教えてくれないのは悔しい。

「あ、でもさ、調理器具の用意とかあるしさ、先に教えてくれなくちゃ」

 先に用意しとくものがあったら教えてと、母さんに言われていたことを思い出す。

「大丈夫。特に必要なものはないからさ。それにスズんちならどこに何があるか、大概分かるし」

 聞き出そうとしたって無駄だ、と恵の顔が言っている。時に思惑が全部筒抜けになってしまうことが、幼馴染兼親友の欠点だ。ため息をつきながら私は、準備するものはないって、と母さんにメッセージを送る。いつもはすぐに返事をくれる母さんだが、今日はまだ前のメッセージを見てすらいないようだ。どうしたのだろう。少し怪訝に思う。

「スズの食べれないものは作らないから安心してよ。それより、最近安達くんとはどうなの?」

 転換が急すぎて思考が弾け飛んだ。私は分かりやすく言葉に詰まる。

「い、いや、何、急に」

「昨日自転車二人乗りしてたって噂聞いたけど?」

「何で知ってるの……」

 知り合いとはすれ違わなかったし、学校が近づく前に下ろされた。誰にも見られてないと思っていたのに。顔が赤くなっているのを自覚しつつ、それを隠すように俯く。

「本当にそうだったんだ。やるじゃんスズ」

「え、もしかして鎌かけられた?」

「だって、朝先行っといてって言ってきたのに、一本後の電車にしては早い時間に教室来たから。教室の前まで安達くんと一緒だったし、もしかして乗せてもらったのかな、と思って。まさか本当とはね」

 ニヤニヤと笑う恵が恐ろしい。頭の回る親友もまた時に、隠し事ができなくなって困ることがある。中学時代の成績だけならまだ比べられる程度ではあったのに、一体いつの間に差がついてしまったのか。

「まあ事実だけどさ、別に何もないって。たまたま会っただけだし」

 誤解されるのはごめんだ。認めるところは認めることにした。

「ふーん? で、告白はいつするの?」

 このモードの恵はとにかく急。

「いや待って、告白ってそんなのできるわけないじゃん! 無理だって!」

「でも、当たって砕けろって言葉もあるよ?」

「砕ける前提で話をしないで!」

 残念ながらそこは共通認識のようだ。

「冗談。でも、意外と脈あると思うよ。で、そう言えば例の話って、安達くんには言ってないの?」

 意外とって言う時点でどうなのか。からかわれているのを自覚しながら話に乗る。

「例のって、これ?」

 左手を振ってみる。

「そう」

「言ってないけど」

「話しちゃえば?」

 また言葉に詰まる。恵の意図することは瞬時に分かってしまった。信頼できる人にしか言ってないんだけど。そう前置きしてあの話をすれば間違いなく距離が縮まる。恵はそう言いたいのだろう。実際に、今この話を知っているのは恵と、この前話したあすかまり・由美だけだ。確かに効果的ではあるだろう。しかし私は首を振る。

「この話を道具にはしたくないかな」

 一度、ちょっぴり痛い目を見ているから。

「まあ、気持ちはすごく分かるけど」

 恵が少し違う表情を見せる。

「けど、手段を選んでちゃいけないこともあると思うよ。それに実際、安達くんは信頼できるでしょ?」

「そう、だけど……」

 どうにも踏ん切りが付かないのは、自ら距離を詰めようと踏み出すのが怖いからか。

「ま、無理にとは言わないけどね。……あ、電車来てる」

 言うが早いか、恵は改札に向かって駆け出した。

「ちょっと、待ってよ!」

一方的に話を引き出された挙句唐突に終わらされた。電車の中では恵の話も聞き出してやると決意しその背中を追いかける。そんな時間はとても楽しくて、微かに抱いていた懸念はすっかり忘れ去ってしまっていた。

 

 家の最寄り駅に着くと、近くのスーパーで食材を買い込む。腐っても女子、買い物は楽しくてついつい長引いてしまう。家で母さんが待っているのは分かりつつ、買いもしないスイーツについつい引き寄せられる。

 スイーツの誘惑に耐えて店を出ると、袋をぶら下げて家へ向かう。袋は三つできた。じゃんけんで負けた私が両手に持つ。袋から飛び出たネギが邪魔だ。一応主賓の私が荷物を持っていることに疑問を覚えつつ、足早に家へ向かう。

 家に着くと恵に袋を片方預け、鞄の鍵を探る。扉の前に立っていると、急に不快な感情に襲われたことに気づく。その原因は臭いだったのだと、後で分かった。

 いつもは左手で鍵を開けて空いた右手で扉を開く。だが片手がレジ袋で埋まっている今日は、鍵も扉も左手で開けなければならない。恵が斜め後ろにいるのを感じながら扉を開く。

 途端、襲ってくるのはいつも以上のむわっとした熱気、そして、とてつもない、異臭。何かがおかしい。私は扉から手を離し、ドアを足で抑えてその中を視界に入れる。

 すっかり暗くなった外に比べ、幾分明るい玄関。その明かりが人の形に遮られていた。照明は壁から枝のように伸びて設置されているが、その枝部分に紐がかかっている。その紐で人間が、首を引っ掛けられて吊るされていた。その首は長く伸び、顔が丸く膨れている。飛び出た目からは何の感情も読み取れず、ただただ猛烈に気味の悪い印象だけしか受けとれない。咄嗟に目を逸らすと、今度は茶色く汚れた下半身が目に入る。ぽた、ぽたと地面に落ち流れを作っているそれが排泄物だと気付き、そこで胃の内容物が一気に逆流してくるのを感じた。悲鳴を上げることもできなかった。もう一度顔を見る。余りにも汚いその死に顔が、それが私のよく知っている人だとは、――私の母さんだとは、どうしても、どうしても、思いたくはなかった。

「どうしたの?」

「恵は見ちゃだめ!」

 恵の声で現実に引き戻された。急に固まった私を不思議に思ったのか、彼女は隣に並んで中を覗こうとしていた。私は買い物袋ごと右手で恵を突き飛ばし、同時に扉を閉める。

 だけどそれは遅かった。突き飛ばされた彼女の顔が、見たことないほどの驚愕と怯えに満ちていく。その表情に寸前の光景を思い返してしまい、今度こそ耐えきれず這いつくばって嘔吐する。思い出したように恵が悲鳴を上げた。

 状態は恵の方が深刻だった。ホラー映画にさえ耐性のない彼女は過呼吸に陥ってしまい、吐いて落ち着くこともできず、怯えとともに苦悶の表情で喘いでいた。私はハンカチで自分の口を拭うと彼女の元に駆け寄って、震える彼女を抱き締める。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 恵にきつく抱き返され、怯えと不安が伝染してきた。それ以上言葉を発することができなくなり、ただただ涙だけが止まらなかった。我慢しきれずまた胃の内容物をぶちまける。恵が腕を緩めてくれず、それは二人に直接かかることになって、その不快さと臭いにまた嘔吐感がこみ上げてくる。まるで体中のあらゆる物が、大事な物も含めて、次々に引きずり出されていくような感覚。このままじゃ私が私でいられなくなるような気さえする。唐突すぎる非日常。残酷すぎる非日常。これは何。本当に現実? 何も分からなくなる。口から苦しい喘ぎ声が漏れる。漏れたのは声だけか。これは私の口か。もう何も分からない。

 折れ曲がったネギが袋から飛び出し、吐瀉物にまみれて転がっていた。


「スズおはよう。今日は、どうする?」

 固く閉め切ったドアの向こう、聞き慣れた声が問いかけてくる。どうやらもう朝らしい。見慣れてきてしまった暗い部屋の中、時間の感覚はもうとっくに失っていた。

「ねえ、スズ? 一緒に学校行こうよ」

 私が黙りこくっていると、声の主、恵はさらに声を重ねてきた。

「みんな心配してるよ。会いたがってたよ。スズに」

 なおも返事をしないでいると、沈黙を怖がるように恵は続ける。

「駄目だったら途中で帰ったらいいし。ずっと私が一緒にいるから」

「……行かない。ごめん」

 必死な恵の声を無視し続ける罪悪感に耐えきれず、小さく呟く。

「そっか」

 力ない彼女の声が胸に刺さる。

「ごめんね、無理言って。また明日、声かけるね。行けそうなら一緒に行こ。明日も駄目ならその次の日でもいいし、……いつかは、一緒に行こうね」

 恵が無理して明るい声を出していることが、私には分かる。

「あと今日、放課後安達くんたちが来てくれるって。焦らせるつもりはないけど、でも早く元気になってくれたらみんな嬉しいから。もちろん、私も」

 そこで一息つく。

「じゃあ、行ってきます。ごはんはまたここに置いてるから。食べれるだけ食べてねってママが」

 喋る恵が、少し泣きそうになっているのが分かった。だけど私は何も言えない。しばらくすると扉から離れていく足音がし、少しして玄関の扉を開け閉めする音がした。この家の中、私は一人きりになる。

 唯一の家族を失った私は、今は恵の家に住まわせてもらっている。だが、私は部屋に引きこもったまま外に出ることができなかった。ドアを開けるのは、恵の母親が作ってくれた食事を部屋に持ち込む時と、食器を外に出す時くらい。お風呂やトイレさえたまにしか行っていない。

 あれから半月以上が経ったが、私はショックから立ち直れないでいた。あれ以降の記憶は曖昧で、恵の悲鳴を聞きつけた近所の人が色々と助けてくれたらしいことを後から聞いた。

 自殺だった。そう聞いても私は何の心当たりも見つけることができなかった。だけどそれは、母さんが私にだけは徹底的に隠していただけだった。私が気づけていなかっただけだった。これも後から知ったこと。

 四之宮家に嫁入りする形になった母さんは、夫を亡くしてしまった後、親戚達の中で厳しい立場にいたらしい。所謂デキ婚だった母さんは元々四之宮側には覚えが悪く、それを挽回する前に夫が亡くなり、親戚にはまるで財産を乗っ取ったかのような扱いまでされていた。四之宮側からすると、四之宮のお金で建てた家にどこの馬の骨か分からない女が住んでいることが面白くない。母さんは引っ越すことも考えたが、シングルマザーにそんなお金はなく、それに引っ越したとして家を捨てるのか、と文句を言われることは明々白々。その上娘は「左利き」。遠ざけられる一方で立場はどんどん悪くなっていた。父さんの死後親戚づきあいが減ったのも、私にそうした立場を知られたくなかったからだったのだろう。そしてそのことが余計に彼女の立場を悪くしただろうことは、想像に難くない。

 そして仕事。一度は寿退社した会社に再度雇い直してもらったのだが、その特別扱いが同僚の気に食わなかったらしい。元々仕事のできる人だった彼女は相応に評価され仕事を任されるようになっていったのだが、それも嫉妬の原因となった。同僚に嫌われ、上に気に入られてるのは上司と寝たからだと、そんな噂まで立てられていたとか。いくら有能でも一人で仕事はできない。孤立した彼女はたちまち立場を失った。上司だけは彼女を認めていたが、その事実は彼女の立場をより悪くするだけだった。

 だが母さんはそんな毎日に耐えてきた。なのにどうして突然こんなことになってしまったのか。それはきっと私のせい、かもしれない。彼女が死ぬ前の日。唐突に聞かれた。「母さんのこと、どう思う?」私はこう答えた。「私には分からないけど」母さんは辛い毎日を私に隠し続けてきた。だけど限界だったのだろう。私に気づいてほしかった。守るべき子どもだから弱い姿を見せないでいたが、同じ人間として、家族として、悩みを聞いてほしいと思ったのかもしれない。だけど私は言った。分からない、と。私の、誰よりも母さんの近くにいたはずの私の言葉は、きっと彼女にとどめを刺した。死にたいと思うほど辛い現実を耐えてきたのはただ私のためだけだったのに、その人当人には微塵も伝わっていなかった。そう思わせてしまった。それこそが、最後に彼女の背中を押した要因だったのかもしれない。母さんを殺したのは私だ。私がこの手で母さんを殺したようなものだ。ドアを開けた私の左手。呪われた左手。全部呪いのせいだったならいいのに。母さんが首を吊ったのも。それだけじゃない。私が母さんにあんなことを言ってしまったのも、母さんがあんなに苦しまなくちゃいけなかったのも。何もかも。全部全部最初から。

 分かっている。そんな訳はない。呪いなんてあるわけない。こんな時にだけ信じるなんて、あまりにも都合が良すぎる。じゃあ。だとすれば。私のせいということになってしまう。だが、それが、現実だ。

 このあまりにも取り返しのつかない現実に押しつぶされ、私は歩き出せなくなっていた。どうして私は何も知らなかったのだろう。どうして知ろうとしなかったんだろう。気付けなかったんだろう。どうして母さんの話を聞こうと思わなかったんだろう。後悔は後から後から出てきて、行き場もなくただ溜まっていく。

 それでも、恵がいてくれて助かった。私を引き取ろうとしてくれる親戚はおらず、身寄りのなくなった私がどうしようもなくなったところで両親を説得し、家に呼んでくれた。恵だってあの場に居合わせたのだ。母さんとも仲が良かった。だから当然、とてつもないショックを受けたはずだ。なのに。すぐ立ち直って私を励ましてくれた。彼女自身多少の無理はしているのだろう。「私がふさぎ込んでたら、もっときつい思いしてるスズはいつまで経っても立ち直れないでしょ。だから、私は大丈夫って、スズに見せてあげなきゃ」いつだったか、固く閉じた扉の向こう、母親と話している恵のそんな声が聞こえてきた。彼女の優しさは、本当に、本当に嬉しくて、応えられない自分が情けなかった。

 恵の両親も赤の他人である私にとても良くしてくれている。空いている部屋を丸々与えてくれたばかりか、毎食ご飯を作ってくれ、部屋から一歩も出ようとしない私にも根気強く接してくれている。恵も含め決して無理強いしてこないのがありがたく、彼女らの優しさに何度も泣きそうになった。だけどあれ以来私は泣き方を忘れてしまったかのようで、気持ちとは裏腹に目は乾いたままだった。それがまた辛く、自分の中に良くない何かがどんどん溜まっているような気さえする。何かを返さなきゃいけないと思いつつ、何もできない自分に嫌気が差す。いつか私は元に戻れるのだろうか。また今までみたいに笑えるようになるのだろうか。


 気づかないうちに微睡んでいたらしい。玄関のドアが開く音で目が覚めた。恵の母親と誰かの話し声、一組の足音が部屋の前までやってきて立ち止まる。

「鈴さん」

 愛子の声だった。愛子はあれから毎日ここに来て、私に話しかけてくれている。部活のある日もない日も、一日たりとも欠かすことなく。もう三週間近くも。私は体を起こすと、足を下ろしてベッドに腰掛ける恰好になる。

「気分はどうですか? 今日は部活が休みだったので、愛子早く来ちゃいました。一番乗りですね、えへへ」

 部活の仲間と一緒のこともあるのだが、今日は愛子一人のようだ。彼女の家がどこにあるのかは知らないが、毎日来るなんて少なからず負担になっているだろう。だけど彼女からは無理している様子が全く伝わってこない。私のためというのは二の次で、純粋に来たいから、会いたいから来てくれているようにさえ感じる。だから私もそういった意味では彼女を負担に感じないし、ありがたくも思える。

 一方で何が彼女をそこまで掻き立てるのか理解が及ばず、気味が悪く感じているのも事実。私のことを好きだ好きだと言ってくれる愛子だが、私が彼女について知っていることは思いの外少ない。

「早く来れると思ってたので、今日は差し入れを持ってきたんです。もしよかったら、ドア、開けてくれませんか」

 少し、心が揺らぐ。だが私は視線を扉に向けるのが精いっぱいで、そこに近づくこともできなかった。声を発することもできず、気まずい沈黙が満ちていく。

「まだ、駄目ですか」

 ため息混じりの声。彼女にとっては珍しい負の感情。

「分かってます。一番辛いのは鈴さんだって。だけど、愛子だってしんどいです。大好きな先輩がこんなに近くにいるのに、できる限りのことをしてるつもりなのに、全然届かないんですもん」

 扉の向こう、愛子はどんな顔をしているのだろう。想像もつかないのが少し悲しい。

「ねえ、鈴さん、愛子は何をすればいいですか。どうしてほしいですか。どうしたらまた会えますか。元気になってくれますか。笑ってくれますか。それとも愛子じゃ駄目ですか。どうして愛子には声も聞かせてくれないんですか。教えてください。ねえ鈴さん。何か言ってください」

 静かな、だけど感情のこもったその声が心に刺さる。 私がこうしていること自体が周りの人を傷つける。そんなことを改めて確認させられ、自己嫌悪に陥り、ますます気持ちが後ろを向く悪循環。そして、こんな時でさえ自分のことを考えている自分にまた嫌気が差す。終わりの見えない負のループ。

「……ごめんなさい。忘れてください。愛子、どうかしてました。でも、愛子だけじゃないです。みんなみんな鈴さんのこと待ってます。待ちくたびれてます」

 待ちくたびれている。その言葉に、今まで見えないでいた、見ないようにしていたプレッシャーが乗せられていることを実感する。私は良くも悪くも私だけのものではない。

「今日は、もう帰ります。差し入れ、置いていきますね。昨日クッキー焼いたんです。甘いほうがいいかなって、バターたっぷり使いました。無理にとは言えないですけど、食べてもらえたら嬉しいです。ドアの外に置いときますね。あと、」

 少し逡巡するような間。

「これ、お守りです。裁縫下手くそだから不細工ですけど、気持ちは込めたつもりです。早くもとに戻れるといいなって。きっと神様が守ってくれます。もうきっと、嫌なことは起きないって、そう願って、作りました」

 愛子はそう言いながら、真っ白な紙をドアの下の隙間から通してきた。ポチ袋のようなその紙の中にお守りが入っているのだろう。震えながら差し込まれてきたそれは、先だけを見せて動きを止めた。

「これも、嫌なら、突き返してもらっていいです。明日も来るので、その時にでも。だけどもしよかったら、ずっと持ち歩いてくれたら嬉しいです。きっと鈴さんを守ってくれます。……じゃあ鈴さん、また明日、です」

 来たときよりも沈んだ様子の足音が去っていき、恵の母と一言二言会話を交わし、玄関が閉まると部屋に静寂が訪れた。お守りの袋が光っているかのようにに眩しく目立つ。

 しばらくそこから目が離せないでいた私は、気がつけば引き寄せられるように近づいていた。重い体を引きずって、四つん這いで進む。ドアの前まで着くとゆっくりと手を伸ばしていくが、受け取ってもいいものか決めかね躊躇う。そうしていると、急にチャイムの音が静寂を切り開いた。驚いた私は思わず手を引っ込める。

 すぐに鍵の開く音がした。遅れて届くのはがやがやとした話し声。恵の声に混ざって何人かの声が聞こえる。声は複数の足音を伴って近づいてくる。

 私は咄嗟にお守りの入った袋を掴み、引っこ抜くようにして胸に抱いた。どうしてかは分からないが、見つかってはいけないような気がしたのだ。隠すようにポケットに入れる。その勢いのまま扉から離れると、少ししてノックが響いた。

「スズ? 今、大丈夫?」

 聞き慣れた恵の声。私は壁に背中を預けて体育座りをすると、うん、と頷きを返す。声を発さなくてもきっと恵には伝わっている。

「今、明日香と麻里と由美が来てくれてるよ。安達くんと直くんは部活の後で来るって」

 由美が、明日香が麻里が、私に声をかけてくれる。彼女たちとは恵ほどの長い付き合いはないけど、それでも気持ちは伝わってくる。見捨てられてもおかしくないのに、私は彼女たちに気遣ってもらえている。それはきっと恵まれたこと。だけどそれでは、それでさえ、私のショックを埋めるには足りない。

「すずちゃん、調子はどう?」

 由美の優しい声。

「ところでシノ、少し聞きたいことがある」

 珍しく真面目じみた口調の明日香と、

「このクッキーは何? 食べても?」

 息ぴったりの麻里。

「開けてみてから考えよう」

「食べてみたら分かるかしら」

「あすかちゃん、まりちゃん、勝手に触らないほうが……」

「はいはいストップストップ。ああ、これ愛子ちゃんから? もう来てくれてたんだ」

「愛子」

「誰?」

「確か、すずちゃんの……」

「女か」

「女?」

「あたしという女がいながら」

「うちという存在がいながら」

「どういうことだ」

「説明してもらわないとね」

「……そろそろ、止めていい?」

 困りきった恵の声。

「何だ、シノの味方をするのか?」

「怪しいわね。恵、まさか貴方まで」

「え、何言ってるの?」

「シノは恵のものじゃない」

「ましてや、愛子なんてどこの馬の骨か分からないようなやつのものでもない」

「シノはあたしのもの」

「正確に言えばうちのもの」

「いやあたしだ」

「いいえ、うちよ」

 雲行きが怪しくなってきた。恵のため息が響く。

「あーもう収拾つかない……」

 言葉の間から、由美の笑い声が聞こえてくる。

「すずちゃんがいないと大変だね」

「由美、他人事じゃないよ! こいつら止めるの手伝ってよ!」

 あはは、と笑って誤魔化す由美。明日香と麻里の、言い合いと言うか掛け合いと言うか、二人の会話はまだ終わらない。あの日までは当たり前にあったこんな空気。私がこうなってもまだそのままでいてくれることが嬉しかった。あれから私や私の周りはとてつもなく変わってしまったから、変わらないでいるものが、とても愛おしい。

 一通り話し終わると恵たちは宿題を広げ、部屋の前で勉強を始めた。扉の下からプリントとノートのコピーを私にも渡してくれ、私に教えるような形式で、宿題の問題を解いていく。私はドアの隣の壁にもたれて、シャーペンの走る音だけでも伝えられればと、プリントの空欄を埋めていく。

 すっかり日も暮れた頃に宿題を終え、それを期に由美たち三人は帰っていった。夕食の準備が着々と進んでいるのだろう。いい香りが漂っている。由美たちに合わせて恵も買い物に出かけ、しばらく私は一人になる。ゆらゆらとベッドに登って、下半身を布団に潜り込ませる。

 チャイムが鳴ったのはそんな時分だった。ドアが開く音と、恵の母親と話す、何人かの男の話し声。しばらくして、どんどん、と少し乱暴なノック音。

「シノ、元気か? 来てやったぞ」

 安達の声だ。すぐに分かった自分と、少し高揚した自分に辟易する。いくらなんでも不謹慎だ。

「僕も、稲倉もいるよ。シノ、まだしんどい?」

 直も優しく声をかけてくれた。

「部活後だから汗臭いかもしれないけど勘弁な」

 安達は間を置いて、

「直と一緒に、シノが好きそうなお菓子買ってきたから、置いとく。よかったら食ってくれ」

 照れ隠しか、少し上ずった声で言う。気持ちは嬉しい。声の代わりに、私は小さく頷く。

「臭いのは翔だけで、お菓子も僕も臭くないから大丈夫だよ」

 おどけて言う直。

「いや、直も十分臭いから。逃げてんじゃねーよ」

「ちょっと翔、レディの前で、大声で臭いだなんて言うのやめなよ」

「どこにレディがいるんだって? シノは違うし……」

 いつものやりとり。いつもだったなら、私がここで突っ込みに入るはず。だけど。今はぽっかりと空いた空白に気まずい沈黙が流れるだけ。

「シノがいないと張り合いがないね」

「全くだ。なあ、早く出てこいよ」

 彼らの言葉は嬉しい。だけど。嫌な沈黙。少しして、直がそっか、と呟く。

「もしかしたら顔見れるかもって思ったんだけど。無理させるわけにもいかないしね、また今度で。じゃあ僕、用事あるから帰るね」

 まだ十分と経っていないのに。そんな中来てもらったのに申し訳ない。また自己嫌悪が貯まっていく。

「そうか。忙しいのについてこさせて悪かったな」

「翔のためじゃないから安心して。……翔はまだいるの?」

「ああ」

「じゃあ、シノによろしく」

 それだけ言うと、直はあっさり帰っていってしまった。急に安達と二人きりにされた気がして落ち着かない。恵の母親もいるはずだが、料理中だからか存在を感じない。

 直がドアを閉めると、しばらくまた静かになった。私はベッドの端にもぞもぞと移動し、壁に背を預ける。

「なあ、シノ」

 いつもより低い声で私を呼ぶ。

「シノがしんどいのはもちろん分かってる。俺らなんかが想像できないくらい、ずっとずっと辛いんだと思う。だけど、俺たちだって辛いんだ」

 いつもより乱暴に。

「あんなことがあって、忘れるべきじゃあないんだろうけど、でもいつまでも引きずってくわけにはいかない。もういい加減、前みたいに戻りたい。前までみたいに楽しく生きたい」

 いつもより早口で。

「だけどシノがいなかったら、やっぱり思い出しちまう。いつもに戻るにはやっぱり、いつもみたいにシノがいなくちゃ駄目なんだ。シノがいるのが当たり前だったから。それが日常だったから」

 いつもより弱気に。

「皆そう思ってるし、俺は、俺は、特にそうだ」

 しかし、はっきりと。

「シノ。俺にできることはないか。何でもしてやるから、シノのためなら何だってやるから。俺を頼ってくれたっていいんだ。川端には言えないことだって、もしあったら、俺が聞くから、俺でよければ」

 頼もしい口調で。

「無理にとは言わないけどさ。俺が邪魔って言うならすぐ出てくし。とにかく、シノがやりたいようにするのが一番だから」

 嬉しかった。安達がそんな風に言ってくれるのが。こうなった私ですら必要としてくれて、気にかけてくれて、それがこの上なく嬉しかった。

「俺は、シノを待ってる」

 私の目から、涙が一滴、ぽとりと溢れた。私の中に溜まっていたよくないものが、安達の言葉をきっかけに流れ出す。

「あり、……がと、う」

 私が久しぶりに発した声は、あまりにも久しぶりすぎて、ひどくかすれた汚い声になってしまった。それでも、緩んだ私の心の栓を抜き取るには十分だった。

 涙が次から次へと溢れ出した。まずはそのことに驚いた。遅れて感情が伴う。安達が、恵が、友達が、恵の両親が向けてくれる愛が嬉しくて。それに応えられない自分が悔しくて。ふがいなくて。そして何より、もう母さんがいないのだと、そのことを実感として理解して、悲しくて、淋しくて。ずっと引きこもって向き合わないでいた分衝撃は大きくて、一度流れ出るものは止まらない。次から次へと涙が出てきた。ぎゅっと布団を抱きしめる。こらえきれず声を上げて泣いた。今まで溜め込んできたものを全て吐き出すように、赤ちゃんのように大声を上げて、全力で泣いた。その間ずっと、ドアの向こうの優しい気配は消えなかった。


 どれくらい時間が経っただろうか。私は泣き止んだ。それは感情が収まったからというよりも、体中の水分が失われて出すものがなくなったからのように感じられた。ぐしょぐしょでしわくちゃになった布団を手離し、天井を見上げ、はあ、と息を吐いた。と同時にどっと疲労感が押し寄せてきた。泣くことは、とても疲れる。

 だがすっきりした気分もあった。何もできなくなった私の、何かを変えるならもう今しかないと感じた。

 よろよろとベッドを下りる。足取りがふらつくのを自覚しながら、ドアへ向かって歩いていく。自分の足を見つめながら一歩を踏み出すと、不安と怖れが私を覆ってきた。体も心も重い。だけど歩みは止めない。ここで諦めたらもう二度と歩き出せない気がするから。

 四歩でドアの前に立った。顔を上げる。レバーに左手をかける。力を入れようとするが上手くいかない。自分の手が震えていることに気づいた。外の世界は、もう母さんのいない世界なのだ。私はそれに向き合うのが怖い。

 レバーに右手も添える。だけど外にはみんながいる。母さんのいない世界は、みんなのいる世界でもある。そちらに目を向ければいい。きっとみんな助けてくれる。

 両目を瞑って手に力を込めると、驚くほどあっさりとレバーが下がった。そのまま手前に引き、内開きのドアを開ける。私の体が通るくらいに開き、そして私はゆっくりと、固く閉じた目から力を抜く。久しぶりにちゃんと見る外の世界。よし。こわごわと、だけど確かに私は外へ踏み出す。

 外に出れた。そのことに安心した私の視界が急に揺れた。全身から力が抜けたと気づいた時には、何かに体を支えられていた。すらりと長い、日焼けした腕。頼もしい腕。

 顔を上げる。安達と目が合った。少し彫りが深くて整った顔立ち。だけどその目は赤く腫れ上がっていた。安達の腕を支えに、私は自分の足で立つ。そして、少し離れて彼を見上げる。

「何で安達が泣いてんのよ」

 もう泣けない私は、そんな言葉を口にする。

「うるさい。もらい泣き、ってやつだ。シノが泣きすぎなんだよ」

 そう言いながら、新しい涙が頬を辿る。

「ああ、でもよかった。シノ、もう一生会えないのかと思って、俺、」

 彼は言葉を詰まらせる。私は無理矢理に笑顔を作る。化粧どころか洗顔すらろくにしていない。加えて泣いた後だ、酷い顔だとは思うが、それでも、精一杯に笑う。

「安達のおかげ。ありがとう」

 見つめ合う。安達のいつもは一重できりっとした目が、涙のせいか腫れているせいか、重たく丸く見えるのがおかしかった。ああ、なんか、今ならどんな感情も素直に出せそうな気がして、私は安達に特別伝えたいことがあると自覚して、今なら言えると決心して、

「スズ!」

 第三者の声に妨げられた。

「恵、いつの間に」

「ずっと前からいたわよ。ばーか」

 言うが早いか思い切り抱きつかれた。あまりの勢いに倒れそうになる。

「遅いよスズ」

 ぎゅっと強く抱きしめられ、息が詰まりそうになる。だけど私が声を出せなかったのはそれだけが理由ではなかった。

「うん」

 辛うじて頷く。ごめん、と続けようとして、言葉を選んだ。

「ただいま、恵」

 恵の答えは、ほとんどが声にならなかった。さっきの私に負けないくらいの大声で恵は泣いた。だが、何度も名前を呼んでくれて、おかえり、と何度も言ってくれているのはこれ以上なく伝わってくる。

 ぽんぽん、と背中を強く叩かれた。それを合図に恵が体を離す。私を真っすぐに見つめて、うん、と頷く。

「よかった」

 顔をぐしゃぐしゃにした彼女は、それでもいい笑顔だった。今更顔を見るのが恥ずかしくて、同じ顔を見られるのが照れくさくて、もう一度恵を抱きしめる。その時だった。

 ぐうと、私のお腹が鳴った。一瞬の静寂を挟んで、こらえきれなくなった私たちは笑う。

「おなかすいちゃった」

 そういえば、と安達が足元を探る。

「これ、ずっと気になってたんだけど」

「あ、愛子ちゃんのクッキー」

 恵が拾い上げる。存在を忘れていたが、意識した途端に食べたくなった。

「食べ、よっか。恵も、安達も、食べる?」

 口が上手く動かない。ぎこちない発声。

「ん、食べよ」

 言うと、恵が袋を開く。一つずつ手に取り、口に入れる。

「げ、髪の毛混じってる」

 一足早く食べた安達が顔をしかめる。私たちは笑う。もう久しく失っていた、かつては当たり前だった、この感覚が懐かしい。

 愛子のクッキーは、とても甘くて、だけど少ししょっぱかった。


 もう遅いからと言う恵の母親の言葉に甘えた安達も含め、四人で夜ご飯を食べた後。帰る安達を見送ったところで私の体力は限界を迎えた。部屋に戻るとベッドの上に倒れ込む。お風呂入らなきゃ。そう思っても、体が言うことを聞いてくれない。

 うつ伏せの体制から、愛子にもらった白い袋が目に入った。そうだ、鞄の中に入れておいたんだ。寝転がったまま手を伸ばすと、辛うじて指先で掴むことができた。袋からお守りを取り出す。それはなんと手作りのお守り。既成品ほど綺麗なものではないが、その分努力と温かみが伝ってくる。真ん中には私の名前が、その周りには見たことのない花の模様が入っていて可愛らしい。どうしようと少し迷って、いつも使っている鞄に付けた。次に会った時愛子に見せよう。きっと喜ぶに違いない。なんだかんだ彼女は可愛い後輩だ、喜んでくれれば私だって嬉しい。

 お守りに少し元気をもらえたのか、私はなんとか起き上がって風呂場へ向かうことができた。心地よい疲労を癒やし、心身ともにリフレッシュできた気がした。髪を乾かし着替えると、今度こそベッドに倒れ込む。その瞬間に意識は途切れ、私は泥のように眠った。

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