2

 呆然と立ち尽くしていた私だが、そのままでいるわけにもいかないと気を取り直す。不安や疑問は残ったままだが、恵にはいつだって会える。ちゃんと話を聞くこともできるはずだ。首を振って嫌な思考を振り払うと、一人自宅へ歩いていく。大丈夫。辺りが静かなのも薄暗いのもいつも通りだ。今日だからそう感じるわけじゃない。

 家に着く。母さんのご飯を食べれば少しは気分が晴れるだろう。私は半ば無理矢理に気を取り直し、鞄から鍵を取り出し、左手で回す。

「ただいまー!」

 勢いよく扉を開けると、中からはむわっとした熱気が押し出されてきた。私は戸惑う。

「母さん?」

 家の中も暗い。確信する。いつもと、違う。

「ただいま! 母さん!?」

 礼儀には厳しい母さんが、おかえりと返事さえしないなんてありえない。出かけているのか。滅多に外出なんてしない母さんが? おかしい。それとも、返事ができない状態ということ? つまり――。私は左腕を見つめる。まさか。まさかまさかまさか。

「母さん!? どこ?」

 嫌な想像が頭を駆け巡る。妄想が具体化する前に思考を放棄し、靴を脱ぎ捨てると家中を探し回った。靴はちゃんと揃える。少しは女の子らしくなさい。ああ、いつもならそう言われるはずなのに。

「いるなら返事してよ!」

 母さんの寝室。いない。応接。いない。片っ端から電気をつけて探し回る。風呂場。いない。使った形跡もない。私の部屋。いない。ここにはいてほしくもない。元父の書斎。いない。人が入った様子もない。リビングとキッチン。いない。ラップされたお皿だけが置かれている。……ん?

 記憶に何かが引っかかった。恐る恐る、そのお皿に近づく。中身は焼きそば。添えられたメモ。読む。思い出した。ため息。安堵と深い脱力。そうだ。

 今日、母さんは出張だ。


 ☆


 当たり前と思いこんでいるものは、失って初めてありがたみに気づく、とよく聞く。私たちの人生は数多くの当然に支えられて成り立っている。だが、その当然は永遠に当然ではありえない。当然に麻痺しているとそれが分からなくなる。だから、当然が崩れた時のダメージが大きくなってしまうのだ。生きていく上では、当然に甘えず常に不測の事態に備える、そんな心構えが必要なのだ。

 そして私には、それが足りていなかった。

 気づいた時には、もう遅かったのだ。――文字通り。

 要するに私は、寝坊をしたのだ。


 私だって毎日母さんに起こしてもらっているわけではないし、一人で起きる日だってたくさんある。いや、たくさんは少し盛っているかもしれない。いや、とにかく。

 敗因は昨日長電話をしたことだ。帰宅後のドタバタを誰かに話したくて、でも恵がいるグループで話すのも躊躇われ、結局明日香に電話した。その後、あすかまりの片方だけを贔屓するのも、と麻里にもかけた。ずいぶん話し込んでしまい、おかげでアラームをセットし忘れてしまったのだ。

 いつも一緒に登校している恵に、先に行っててとメッセージを送る。今日が朝練の日じゃなくてよかった。

「と言うか、アラーム無しでもぎりぎり間に合いそうな時間に起きれたの凄くない?」

 テンションを上げながら用意を進める。一つのアンラッキーに二つのラッキーが付いてきたわけだ、むしろ差し引きはプラスだろう、なんて。こういう考え方ばかりしているから馬鹿だと言われるのだろうか。

 身だしなみを整え、菓子パンをジュースで流し込んで家を出る。駅まで走って、何とかぎりぎりの電車に間に合った。さすがに暑い。額や首元の汗を拭いながら、私は息を落ち着かせる。この電車だと、駅からも早歩きしないと間に合わない。今のうちに体力と気力を補充しておかなければ。改札に一番近い車両に移動すると、同じ制服の割合が一気に高くなる。考えることは皆同じ。仲間の存在に安心する。

 最寄り駅に着くと、私は早足で改札を出る。諦めたように歩く制服もちらほらと見える。ゆっくり行けば楽だよな、と一瞬惹かれたが、私は早足で歩く。影一つ無い田舎道、途端に汗が吹き出てきた。まだ梅雨にも入っていない時期なのにこれでは。夏が思いやられる。

「おーい! シノー!」

 突然名前を呼ばれ振り返ると、見知った顔が二つ、自転車に乗って近づいてきた。肘までまくり上げられたカッターシャツからは、程よく膨らんだ筋肉質な腕が伸びている。片方は日焼けした黒い腕、もう一方はさほど焼けていない、健康的な色の腕。

「おはよ」

「おはよう、シノ」

 二人は片手を上げて挨拶してくる。私もそれに倣い左手を上げる。

「おはよう、安達、直くん。二人とも、今日は朝練じゃないんだ」

 私の隣に並ぶと、二人は自転車を降りた。私に近い方、黒い腕の安達翔がスマホを取り出して時間を見た。

「偶然な。それよりシノ、遅刻じゃねえの?」

 安達がにやにやと笑いながら言う。彼はそこまで背は高くないが、細身でスタイルが良く、身長よりもすらっとした印象を受ける。二年生ながらサッカー部のレギュラーとして活躍していて、次期エースとの噂だ。その上に顔も良く、女子からの人気はすこぶる高い、とか。あすかまりとは同じ中学の出身で、「あすかまり」の名付け親でもあるらしい。

「私の足なら余裕よ」

 とは言え、どこかで走らないと間に合わなさそうだ。川端にも見捨てられたのか、と安達が笑う。私が恵と登下校を共にしていることは、どうやら周知の事実のようだ。

「いやいや、厳しくね?」

 安達はニヤニヤと笑う。くそ、他人事だからって。

「だとしても、ここで会ったからには二人は巻き添えだけどね」

「いや、俺たちはシノ、見捨てるけど? なあ直」

「もちろん」

 屈託なく笑って稲倉直が頷いた。小さな反撃は不発に終わる。

「え、ひどい」

 私は大げさに顔をしかめる。直は安達に比べれば童顔で、背が低いことも相まってどこか可愛い印象を受ける。だけど見た目ほど可愛くないよ、とは恵談。思ったことを遠慮せず言うし、誤解を恐れない強さがある。由美と同じ中学で仲がよく、涼太先輩を紹介したのも彼らしい。なんとも侮れない。

 二人は去年恵と同じクラスで、その時は私とも恵ともさほど仲良くもなかった。今年私も安達と同じクラスになって、それから皆でよく話すようになった。

「まあ、どうしてもって言うなら、近くまで後ろ乗せてあげてもいいけど? 安達が」

 直はひょうひょうと言う。

「俺が乗せるのかよ」

「僕の貧弱な身体じゃあシノを支えきれないからね」

「貧弱な身体のバスケ部レギュラーがどこの世界にいるの。そんなに私を乗せたくない?」

 我らが紅高のバスケ部は去年インターハイ直前まで勝ち抜いている。直は去年も一年生で唯一ベンチ入りし、インターハイ懸けの決勝でも活躍したとか。貧弱なんて言葉似つかわしくない。

「まあでも分かる。シノ、重そうだしな」

「失礼な」

 安達が無礼の上塗りをした。体重が重いのは自覚しているけど断じて太っているわけではない。筋肉だ筋肉。部活頑張ってるし。

「それにほら翔、この前女の子とニケツしたいって言ってたじゃん」

「言ったけど」

 安達は言葉を切って私の顔を見つめる。

「シノはなあ……」

「ほんっと失礼ね! 私も一応女の子なんだけど!」

「自分で一応とか言っちゃう辺り悲しいよね」

「うるさい!」

 いたずらっぽく笑う直を軽く睨む。

「そりゃあ安達だって直くんだってモテるんだろうし、いつもかっわいい女の子たちに囲まれてるなら私なんて女のうちに入らないよね」

「そうやってすぐ拗ねるところは可愛いと思うよ」

 直に不意打ちを食らって赤面する。

「確かにな」

 安達にも追い打ちを食らう。

「……何なのよ」

 顔を見られたくなくて、私は俯いたまま安達の後ろに回ると自転車の後ろに跨った。少し戸惑ったような間の後、二人がくすりと笑うのが聞こえた。

「しゃあねえな」

 安達はそう言うと、サドルに腰を下ろしてペダルを漕ぐ。

「シノ落ちんなよ。あ、重さがあるから安定してるか?」

「……うるさい」

 余計なことばっか言いやがって。

 高校までの道中、私はまともに会話することができなかった。


 ☆


 六時間目の授業が終わり、私は恵を伴って教室を飛び出す。来年は受験生になるのだからしっかり勉強しなさい。要約すればそれだけのことを長々と話し続けた担任にはいい加減焦らされた。二日ぶりの部活をいつもより楽しみに感じていることもあって、無意識に早まる足は恵を置いてきぼりにしつつある。

「ほんとアイツ話長いよね、去年の担任の方がよっぽどマシだったくない?」

 ついてくる恵を振り返ると、うんざりした顔で恵は頷く。だいたい、私みたいな不真面目は言われたって勉強しないし、恵みたいな優等生は言われなくても勉強する。つまりあんな言葉は言うだけ無駄ということで、結局は教師の自己満足に過ぎないのだ。そんなことも分からない教師を信頼できるはずもなく、さらに言葉は意味をなくしていくという悪循環。

「スズ、危ないよ後ろ」

 恵に言われ、後ろ向きのまま歩いていた私は立ち止まる。後ろを向くと、目と鼻の先に男の体があって驚く。近すぎて顔が視界に入らないほど。

「うわっ」

 危うくぶつかるところだった。数歩後ずさって見上げると、見覚えのある端正な顔が両手を広げて笑っていた。校則ぎりぎりを攻めた茶髪とおしゃれパーマ、高身長の優男。うっとりしてしまいそうな完璧男子。縞田涼太先輩がそこにはいた。

「前見て歩かないと危ないよ。いつも俺が受け止めてあげられるとは限らないからね」

 わざとらしいくらいキザなセリフも彼ならば似合ってしまうから不思議だ。あのまま進んでいれば抱き止められていたのかもと思うと、不覚にも少しどきどきしてしまう。

「涼太先輩。お久しぶりです」

「恵ちゃんも久しぶり。いつも由美と仲良くしてくれてありがとね」

 彼女の友達にすぎない恵にも、彼は完璧な笑顔を惜しまない。

「ええと、由美なら教室ですよ」

 何とか平静を取り戻し言う。三年生の教室は一つ下の階だ。わざわざ来るということは、きっと由美に用事でもあるのだろう。

「ありがとう鈴菜ちゃん。今日も可愛いね」

 脈絡もなく褒められる。涼太先輩はいつもこうしてからかってくる。冗談のつもりだろうが、心臓にはよくない。

「止めてください。下手くそなお世辞はいいです」

「お世辞じゃないよ。俺は本気だぜ?」

「由美が聞いたら泣きますよ」

 涼太先輩のことをどれだけ好きなのかは、仲良くなって一ヶ月そこらの私でも十分に聞かされて分かっている。

「そうなんだよねえ。由美さえ良ければ俺は鈴菜ちゃんも彼女にしたいんだけどな」

「笑えない冗談は止めてくださいってば」

 間髪入れず返すと、涼太先輩は大げさに肩をすくめる。

「冗談じゃないんだけどね。何とも伝わらないなあ」

 よく言う。由美というこの上ない彼女がいながら。

「じゃ、じゃあ、私たち部活なんで、また!」

 話が一段落したところで、恵を連れて逃げるようにその場を去る。後ろからの視線には気づかないふり、早足で階段へ向かう。


 廊下から見えない位置まで来ると、私は足を止めて一息つく。

「はあ。本当あの先輩、何考えてるか分かんない」

「うーん、割と本心そのまんま言ってるだけな気がするけど」

「んなわけないでしょ。恵までからかわないでよもう」

 親友にまで馬鹿にされた。半ばふてくされながら階段を降りる。と、

「鈴さーん!」

 背後から名前を呼ばれた。振り向くまでもなく相手が分かってしまい、そのこと自体にもため息が出る。少し面倒な後輩。一難去ってまた一難というやつか。踊り場で声に追いつかれ、後ろから飛びかかるように抱きつかれる。雑な抱擁に髪の毛が引っ張られ、頭皮がちくりと痛んだ。

「愛子ちゃん」

 追いついた恵が、先に名前を呼ぶ。柿原愛子は私たちの一年後輩で、同じソフトテニス部に所属している。愛子は私から離れると、そこで初めて恵に気づいたように顔をしかめる。

「なんだ、恵さんも一緒なんですね。せっかく鈴さんと二人きりかと思ったのに」

「そりゃあ、恵とはクラス一緒だしね」

 なんだと言われた恵は呆れ顔。

「でも、こんなところで会うなんて偶然ですね! あ、もしかして運命ですかね!?」

 聞いているのかいないのか、愛子はぴょん、と階段を飛ぶように下りて私たちに先行した。上目遣いの表情には同姓ながら小悪魔的な魅力を感じる。愛子の頭は、決して背の高い方ではない私の、その肩くらいに来る。小柄な体とそれに見合った小さな顔、その大部分を占めるかのような丸く大きな目。ぱっつんの前髪。細い手脚。運動部とは思えない真っ白な肌。総じてアイドルのような女の子で、見た目に関しては欠点の付けようがない。

 ただ彼女は、何故か私に、ちょっと笑い話にならないくらい執着している。今もきっと、上の階段で待ち伏せしていたのだろう。慕われるのは嬉しいが、ちょっとどころじゃなく度を超えているように感じるのだ。

「ずいぶん仕組まれた運命だね」

「でもいいなあ。愛子も鈴さんと同じクラスになりたかったです。そしたらもっと一緒にいれるのに」

 恵の突っ込みを無視し、肩にかけた鞄にそっと手を入れて愛子は唇を尖らせた。

「そればっかりはどうしようもないでしょ。恨むなら、一年早く生まれなかった自分を恨みな」

「高校に飛び級制度があったらいいのに。一年分くらいぜーんぜん追いつく自信あります」

「愛子ちゃんが言うと洒落にならないよね……」

 入学式で新入生代表を務めた愛子は、成績超優秀ともっぱらの噂だ。入試の点数は合格ラインを遥かに上回っていたとか、歴代最高得点だったとか、全教科満点だったとか、間違いはあったがそれはむしろ出題側に責任があったとか。一体どこからが尾ひれかは分からないが、ともかく頭がいいのだけは確かだ。

「本当。ねえ、何で紅高なんか来たの? なんか、なんて私は言えた立場じゃないけど、とにかくもっと賢い学校だっていっぱいあるし。立地だって悪いしさ」

 そんなに勉強ができるのに、何でうちの高校に。皆不思議に思っているが誰もはっきりした答えを知らない。愛子はきゅっと鞄を閉めると、真剣な顔で私を見上げてきた。

「そんなの決まってるじゃないですか」

 軽い気持ちで聞いた私は、少し面食らって気を張り詰める。

「鈴さんがいるからです!」

 聞いたことを後悔した。私は大きく息を吐く。

「この柿原愛子、鈴さんに会うために紅高に来ました。どこかおかしいですか?」

 呆れて声も出ない。

「だって。よかったね、スズ」

 知り合ったのは高校に入ってからのはずだ。しかしそれを言うときっと「私は前から知ってました。運命ですから!」とか何とか面倒くさくなるだけなので黙っておく。

「ところで鈴さん、今度鈴さんちに行ってもいいですか?」

「え、うん、まあ、いつかね」

 急激な話題展開についていけず、私は曖昧な返事で誤魔化す。

「本当ですか!? いいんですね! いつかっていつですか、愛子はいつだって心も体も準備おーけーです!」

 私が言葉を返せないでいると、愛子は嬉しそうに微笑む。

「まさか言質を取れるなんて。よかったです。強硬手段もやむなしかと思ってましたから。待ってた甲斐があったというものです」

 突っ込みどころが多すぎるが、とりあえず、

「やっぱ待ち伏せしてたんじゃん」

 愛子は露骨にしまった、という顔。

「いえ、違います。言葉の綾です。私、鈴さんのことは二十四時間三百六十五日常に待ってるようなもんですから。今日会ったのは間違いなく運命ですよ、鈴さん」

「あーもうねえ助けてよ恵……」

「ははは……」

 愛子の猪突猛進ぶりに、恵も力なく笑うしかできない。

「楽しみにしてますから!」

 満面の笑みでそう言って、恵はスキップで先に行く。その屈託のない笑顔は、見ているだけでこっちが嬉しくなるくらい。基本的には可愛いいい子。だから余計に憎みきれない。

 愛子と会うといつも体力を奪われるが、今日は特別疲れた気がする。これからまた部活で一緒だと考えると、楽しみだったはずの部活が少し憂鬱に感じられてくる。


 ☆


 練習は基本的に前衛と後衛とが別メニューで、交互に練習と玉拾いをする形式だ。後衛の私と前衛の愛子は必然的に違う場所にいることが多く、絡まれることは少ない。ネットの向こうから突き刺さってくる視線を無視しながら、私は純粋に練習を楽しんだ。

 部活が終わると付きまとってくる愛子から逃げ、電車に乗ると恵と同じ駅で降りる。最後は恵とも別れ、私は一人で家に着く。今日こそ母さんがいるはず。鍵を回してドアを開けると果たして、柔らかい光が目に飛び込んでくる。遅れて漂ってくるのは、香ばしいスパイスの香り。母さんのカレーの匂い。私の大好物。

「ただいま! 母さん、お帰り! カレー!? やった!」

 帰るなり騒々しい私に、母さんは軽くしかめ面。

「もう、ちょっとはおしとやかにはできないのかねえ。早く手洗ってらっしゃい」

「うん。ところで、おみやげは?」

「鈴菜はそればっかり。後でね」

「やった! 楽しみにしてる」

 呆れたような母さんを後目に私は洗面所へ向かい、練習着を洗濯機に入れ、手を洗う。食堂に戻ると既に二人分のカレーが並んでいて、空腹を直接刺激してくる。

「美味しそう! いただきます!」

 お腹を空かせた時に食べる大好物、これに勝る幸せはない。ゆっくりと咀嚼し、じっくりと煮込まれた深い味わいを堪能する。

「うーん、美味しい! さっすが母さん」

「鈴菜も料理上手くなってよね」

「あはは、そのうちね……」

 料理の上手い母がいて、何故その子がこうも下手くそなのか。我ながら不思議に思う。

「でも明日は楽しみにしといて! 美味しい料理作るから」

「恵ちゃんが、でしょ?」

「そうだけど」

 明日はうちで、私の誕生日会をしてくれる。恵が料理を作ってくれるのだ。言うまでもなく恵は料理上手で、恵が家に来るといつも母さんは嬉しそうにする。明日もきっと楽しみにしているはず。

「そうだ、料理教えてよ。もうすぐ部活も休みになるし」

「テスト休みでしょ? その時間があったら勉強しなさい」

「だよねえ」

 私の企みはすぐに看破された。母さんはため息。

「まったく鈴菜は。恵ちゃんのお母さんが羨ましいわ」

「出来の悪い娘ですいません」

 冗談っぽく言った母さんに冗談っぽく返す。なれるもんなら、私だって恵みたいな女の子になりたかった。逆立ちしても無理だけど。

「そういえばこの前、鈴菜の友達がうちに来たわよ」

「へ? 初耳なんだけど!? 誰!?」

 この話を続けても埒が明かない。そう思ったのか、母さんは話題を変えた。

「名前、何て言ったかしらねえ。ちっちゃくて可愛らしい子だったけれど」

「ん? ちっちゃくて可愛らしいって私のことじゃない?」

 母さんは無視。

「ちょっと! 家族なんだから反応ぐらいしてよ!」

「そう? じゃあ。いい? 鈴菜。勘違いしちゃ駄目よ。あなたはちっちゃくも可愛らしくもないの」

「い、いくら本当のこととは言え娘にそんなことを言うな!」

 家族のマジレスは心に刺さる。

「冗談に決まってるじゃない。私にとっては、鈴菜は可愛い娘よ。物分りの悪い子ねえ」

「どっちがだよ! 私だって冗談だよ!」

 お互い分かった上での掛け合い。長い間二人きりで暮らしてきた分、私たちは普通の家族よりも仲がいい。

「で、話戻すけど、その、来た人、なんか言ってた?」

「うーん、特に用はないって言ってたわねえ。偶然家を見つけたから来ちゃいました、みたいな、もしかして運命ですかね、みたいな風に」

「運命、ねえ。……もしかして愛子じゃない?」

 恐る恐る聞くと、母さんはそうそう、と頷く。

「確かそんな名前だったわ。礼儀正しくていい子じゃない。可愛らしいし。部活の後輩なんだって?」

 外から見る分にはそう見えるか。確かに、いい子であるのは間違いないけれど。どうして家を知っているのだろう、と薄ら寒くなる。まさか彼女の言う通り、偶然ではあるまい。

「ん、まあね……。でも、何の話したの?」

「鈴菜のこと色々聞かれたわよ。何が好きなんですか、とか。すっかりあの子に慕われてるのね」

「そっか……」

 もうすぐ誕生日だし、私にプレゼントでもくれるのだろう。それで好きなものをこっそりと聞きに来たといったところか。だとすれば、これ以上詳しく聞くのは野暮というものだ。

「まあ、用がないって言ってたなら、気にしないでいっか。今度直接聞いとくよ」

「恵ちゃんと言い、鈴菜の周りには女の子らしい女の子がたくさんいるのに。どうして鈴菜は」

 不穏な流れを感じ、私は言葉を途中で遮る。母さんはきっと仕事で疲れているだろうに、暗い話題に持っていきたくない。

「ちょ! ストップ! そうだ、聞いてよ母さん。今日あすかまりの麻里がさ、いや明日香の方だっけ。まあどっちでもいいや。とにかくどっちかがさ、私があの人に似てるって言い出してさ」

 思い出したのは昨日の出来事。どちらが言い出したか忘れたが、私をいい角度から撮るとある女優に似ていると言い出したのだ。

「あの女優さんに? 本当?」

 狙い通り、母さんの声が少し明るくなる。

「で、見てよこの動画」

 そこで私たちは、その女優が出ているドラマやCMを片っ端から見て、私がその真似をする、という遊びをしていた。その様子を由美が撮影していたのだが、いつの間に編集したのか、元の女優と比較した動画が出来上がっていた。

「授業中に見たらもうほんと笑いそうになってさ。でも、見てよこの瞬間とかけっこう似てない?」

「あら、言われてみれば」

「でしょでしょ、この娘も案外捨てたものじゃあないよ」

「変顔のシーンじゃなければ素直に喜べたのだけれど。人前でこんな顔するもんじゃないわよ」

 一番似ていたのが変顔、というのが一連のオチで、休み時間にひたすら爆笑した。口では不満を言いながらも笑っている母さん。彼女を少しでも癒やすことができたならいいけど。

 その後もひたすらに母さんを笑わせて、いつもより時間をかけて夜ご飯を食べ終えた。食器を流しに運んで、美味しかった、ごちそうさまと伝える。寝るまで何をしようか。たまには勉強でもしてみようか。だけど明日は朝練だ。早く寝なくちゃ。とりあえず明日の準備をしよう、と考えながら食堂を出た、その時。

「ねえ、鈴菜」

 背中越しに名前を呼ばれ、私は振り向く。

「母さんのこと、どう思う?」

 流しに向かったまま前触れもなく聞いてくる。かちゃかちゃと食器同士触れ合う音がどこかわざとらしい。

「どうって……」

 母さんは背を向けたまま。表情は伺えない。

「仕事もして、私の世話も全部してくれて。……私には分からないけど、大変なんじゃない?」

 質問の意図が分からず、疑問形で返す。だがしばらく待っても、母さんからの返事はなかった。よく分からないまま自分の部屋に向かおうとして、思い直してもう一度振り返る。

「いつも、ありがとう」

 その声は、食器の音に阻まれ届かなかったようだ。言い直そうとしたが急に気恥ずかしくなり、まあいつでも言えるしいいか、と背を向け、自分の部屋へ入っていく。

 その日は結局、母さんと話す機会はなかった。また今度、私の誕生日でもいい。ちゃんと伝えよう。そう思いながら私は眠りについた。

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