左利きの呪い
秋梨冬雪
1
我が四之宮家に古くから伝わる、こんな昔話がある。まだ私が小さかった頃に、今は亡き祖母から聞いた話だ。
四之宮家はその昔、大きな力を持っていた。教科書に載っているような貴族とも交流があったとかなかったとか。そんな時代のことだ。当然権力闘争は激しく、結婚さえもその道具として使われることが珍しくなかった。当時の考え方や価値観は分からないが、もし自分がそんなことをされたとしたら、――絶対に嫌だ。
そして当時にも、そう考える娘がいた。記録上四之宮家から追放されているため、家系図を遡っても名前が分からないのが残念だ。彼女には相思相愛の想い人がいたが、身分の低いその男との結婚は許されなかった。望まぬ男との結婚を強いられるくらいならと、ついに彼女は屋敷から逃げ出し、深い森の中で男と心中を図った。
ここまではどこかで聞き覚えのあるような、とりわけ目新しい話ではないかもしれない。だが大事なのはここから。心中を図った際、娘は利き腕である左腕を切断し、両親の元へ送りつけた。何を思ってそうしたのかは分からないが、そこに強い憎しみがあったのだけは間違いないだろう。
そして彼女の想いは、呪いという形で実現する。左腕が送られてきた直後から、四之宮家に関わる人々の理不尽な死が相次いだのだ。それにより四之宮家は権力闘争どころではなくなり、急激に落ちぶれていった。一時は家の存続が危ぶまれるほどだったそうだ。そしてそれ以来四之宮家では、左利きの娘の回りで不可解な死が多発しているという。そのためこの話は定期的に語り継がれ、廃れることなく現在まで伝わり続けているのだとか。
☆
「って話なんだけど、ほら、私って左利きじゃん?」
ひらひらと左手を振りながら、私は四人を順に見渡す。五時を過ぎても太陽はまだぎらぎらと輝いていて、容赦ない日差しを浴びせてくる。そんなはた迷惑な輝きを背景に、逆光で左手は暗くうごめく。それがちょっとした雰囲気をプラスしてくれ、両隣からは二つずつの視線が集まってくる。
高校からの帰り、最寄り駅まで二十分ほどの田舎道。一人で帰れば長く感じるこの道も、誰かと一緒なら長さを感じない。緑に囲まれた、と言えば聞こえはいいが、要するに何もないような場所だ。買い食いをしようにも駅まで店の一つさえなく、皆必然的に優等生になれる。そんな田舎の公立校、紅葉寺高校が私たちの学校だ。
教室で時間を潰したからか、辺りに他の生徒の姿は見当たらず、それどころか人っ子一人、車の一台すら通る気配がなかった。そんな道を五人は横一列に並び、目一杯に独占して歩く。控えめに吹く風がスカートを揺らして心地よい。こうした春の名残も、きっとあっという間に失われていってしまうのだろう。
「え、なにそれ。すずちゃん、名字は四之宮だよね。四之宮家って、すずちゃんの家のこと?」
怯えと疑問が綯い交ぜになったような表情で、佐藤由美が問いかけてくる。本格的に仲良くなったのは二年生になってからだが、おっとりとした彼女を私はすっかり気に入っていた。高校からの友達は、大抵私のことを「シノ」と呼ぶが、由美は下の名前の鈴菜から取って「すずちゃん」と呼んでくれる。そういうところも大好きだ。
「そうなんだ。つまり私は、呪われてるのかもね」
答えると、由美の怯え成分が増していく。こうやってころころと表情を変える彼女は、贔屓目に見なくても可愛らしい女の子だ。守りたくなる男の気持ちが手に取るように分かる。それでいて背が高いというのもずるい。彼女にとっては、ギャップを生み出す加点ポイントに他ならない。
「大丈夫だよ由美。呪いなんてあるわけないから。だって私、生まれてからずーっとスズと一緒にいるのにこうして生きてるし、大きな怪我とか病気とかもしたことないもん」
由美の顔を見てられなくなったのだろう、やや小さな声でそう励ましたのは、私の幼馴染にして大親友、川端恵。私とは本当に生まれた頃からの付き合いだから、彼女の言葉には信憑性がある。幼稚園や小中はもちろん気づけば高校も同じ。部活も同じなら今年はクラスまで一緒になった。友達というよりも家族という方が近いかもしれない、そんな関係だ。
一緒に生まれ育った分、私たちは意識的にも無意識的にも比べられることが多かった。割を食うのは大抵私の方で、事あるごとに恵ちゃんを見習えと言われ続け、今でもそれは変わらない。おしとやかでお上品。お嬢様を地で行くような恵に対し、私ががさつで乱暴、大雑把な性格に育ってしまったのは、反動なのかもしれない。
「そうだよね、呪いなんて、あるわけないよね」
由美はぱっと表情を明るくする。
「いや、分かんないぜ?」
「まだ分かんないわよ」
同時に口を挟んだのは、小島明日香と堤麻里。被ったタイミングに、あたしが先だ! いえ私よ、と私を間に睨み合う。
「仕方ないわね。今回は先を譲ってあげるわ。どうせ明日香の話なんて大したことないでしょうし」
いつもいがみ合う二人だが、珍しく麻里が先に引いた。挑発的な笑みを隠そうともしないのが彼女らしい。
「何だよ腹立つなあ! ……いや、これから呪いが起こるのかもしれないし、って言おうとしただけだけど」
「やっぱりしょうもないじゃない」
「誰のせいだよ!」
確かに、話の流れがぶった切られてしまった以上、何を話したって変な空気になるだろうい。それを分かっていながら話を譲った麻里の嫌らしさ、もといずる賢さが光る。
「人のせいにするのね。醜いのは顔だけにしなさい」
「うるせえ! 麻里よりは美人だよ! このクソメガネ!」
茶髪を揺らして抗議する明日香に、赤い眼鏡の麻里はあくまで澄まし顔。今回は麻里の方が上手だったようだ。
「ところで、麻里の話って?」
収集がつかなくなる前に、と恵が話を元に戻す。
「ああ、そうね。馬鹿のせいで忘れるところだったわ。私が言いたかったのは、つまり一種の生存者バイアスじゃないのってこと」
馬鹿とは何だ! と騒ぐ明日香は無視される。
「どういうこと?」
「つまり、呪いで死んだ人がいたとしても、その人はもう何も言えないでしょ。話ができるのは生きている人だけ。だから生きている人の話だけが残り、死者の存在は自然と軽視されてしまう」
麻里の分かりやすい解説に、なるほど、と感心する一同。
「ところでシノ、貴女って確か母子家庭よね。お父さんは?」
一瞬、私は答えに詰まる。
「……死んでる」
「それはいつ?」
「私が生まれた、後」
ひっ、と由美が声にならない悲鳴を上げる。その顔にはすっかり恐怖が復活している。
「ちょっと明日香! 由美、違うんだよ。スズの父さんは、スズが生まれる前から病気にかかってたの。だから呪いとは無関係なの」
見かねた恵は、怯える由美をなだめる。こう手間がかかるところもまた可愛い。
「スズも! 悪ノリしない! ちゃんと否定する!」
「は、はい」
恵に気圧され頷くしかできない。こういう時の恵はとても強い。
「……まあでも、恵で大丈夫ならみんな平気じゃない?」
場を乱しておきながら、麻里はしれっと話題を変える。フォローのつもりか赤い眼鏡から由美を見上げ、怪しげに首を傾げる。
「どういうこと?」
「要するに、恵ほど女らしくか弱い女の子はいないってこと。誰かさんとは違ってね」
「は? 誰が女らしくないって?」
褒められた恵が照れるよりも早く、私越しに明日香が食いつく。
「誰も貴女とは言っていないし女らしくないとまでも言ってないわ。でも流石。とてもよく自分の欠点を自覚してるのね。その点だけは認めてあげてもいいわ」
「むかつく! てか言ってるじゃん! そんなに嫌味だから友達少ないんだばーか!」
「そうやって話を逸らそうとしても無駄よ。すぐに逃げるのも欠点ね。男にもすぐに飽きて逃げちゃうみたいだし。あっちこっち行けて身軽で羨ましいわ。もっとも、軽いのは一部位だけみたいだけど」
「ほんっとしつこい! 彼氏いたことないくせに! 負け惜しみにしか聞こえないっつーの!」
麻里よりはいいケツしてるし! ぷりっぷりだし! と叫ぶのは女子高生としていかがなものか。
明日香と麻里、去年から同じクラスの二人は、本人たちとしては不満らしいけど、よく二人セットで扱われる。二人合わせてあすかまり。そのままだけど語呂はいい。
二人はよく行動を共にしているが、決して似ているわけではない。明日香が活発で男女問わず友達が多く、彼氏も途切れることがないお調子者であるのに対し、麻里はそこまで友達の多いタイプではなく、目立つ存在とは言い難い。彼氏がいたことがないというのも本当だろう。外見にしても明日香が茶髪のくせっ毛を胸まで伸ばし、総じて今風であるのに対し、麻里は黒いおかっぱ頭に赤い眼鏡と昔風、素材はいいにも関わらず、どこか垢抜けない印象は隠せない。二人が共通しているのは身長と胸の薄さぐらいだけど、なぜか二人はよく一緒にいて、よく言い合っているけど馬は合うようだ。本人たちは否定するだろうけど。
部活が異なる五人が一緒に帰れるのは珍しい。テスト前ならともかく、今日はそうした理由でもない。ここ最近ニュースを騒がせている連続通り魔事件。それに関して職員会議を行うため、全部活が休みになったのだ。まだ直接的にも間接的にも影響を受けていないのに会議を開くなんて、敏感過ぎる反応にも思えるが、大人とはそういうものなのだろうか。
「ほんっと仲いいよね。あすかまり」
叫び合っている間に歩調も早まったのか、気づくと二人は私たちの前に出ていた。むちゃくちゃなペースで歩きながらも、速度がぴったりと合っているのが面白い。
「羨ましいらしいよ。お互い」
二人を微笑ましく見つめながら、恵は言う。
「明日香は麻里が、麻里は明日香が羨ましいって。お互い本当は尊敬し合っていて、でも照れくさくて、だからよく、こんな感じで軽く喧嘩してるけど」
明日香のいつも明るく元気なところ。麻里の真面目で多くのことを考えられるところ。お互いそれが羨ましいんだと、それぞれ言っていたらしい。
「私はそんな二人が、羨ましいな」
恵はそう言って少し目を細めた。確かに二人の仲のよさはもはや異常と言えるほどだけど。
「恵には私がいるじゃん?」
「まあね」
私たちだって、そんなことを言える程度には仲がいい。十六年一緒にいるのだから。
「いいなあ。あすかちゃんとまりちゃん、めぐちゃんとすずちゃん。友情って感じで」
由美が可愛く口を尖らせて言う。
「誰が友情だって?」
「仲良くなんてないわ」
いつの間に追いついていたのか、明日香と麻里が同時に抗議を挟み込む。息の合った抗議はしかし逆効果でしかない。
「大体、由美には涼太先輩がいるじゃない。うちにはそっちの方がよっぽど羨ましいわ」
「よっぽどって、今暗にあたしを否定した?」
「ご想像にお任せするわ」
済ましてみせる麻里に明日香が再び突っかかる。よくも飽きないなあ、と私は苦笑を隠せない。
「そうだよ由美。涼太先輩とは上手くいってるの?」
「えへへ、まあ」
由美は顔を赤らめて俯く。由美は一学年上のバスケ部エース、縞田涼太先輩と付き合っている。もうすぐ一年くらいだろうか。
「はあ、いいなあ。私も由美くらい可愛かったらなあ」
「本当。羨ましいよ」
私と恵が口々に言うと、由美は顔を上げて首を振る。
「そんな、恵ちゃんは可愛いよ!」
「『は』って何!? ねえ私は?」
「すずちゃんは……うん、人間中身だと思うよ、わたし」
「おい」
ほんわかしているようで、由美はナチュラルに毒舌だったりする。
「まあね、シノはね……」
「こればっかりはしゃあねえ」
うんうんと揃って頷くあすかまり。
「何で意見合ってるの!? こういうときに限って!」
「まあまあ、落ち着いてよすずちゃん」
誰のせいだよ! と叫びかけた口を抑える。由美に怒鳴る気にはならない。
「でも、そう考えればやっぱ、呪いなんてないんじゃない?」
腕を組みながら、明日香は明るい声で言う。
「そう考えればって?」
「こういう話、主人公は美少女と相場は決まっているわ。その点、シノなら大丈夫。そういうことね」
麻里が後を引き継ぐ。普段いがみ合ってる二人にとっては、息を合わせること自体が煽りになる。無駄な高等技術に目がくらむ思いがした。言い返さないでいるのを肯定と受け取ったのか、あすかまりは勝ち誇った表情を向けてくる。
「でも、よかったの? これ話しちゃって」
そんな中恵は私を気遣ってくれる。持つべきものは親友だ、と思いながら、私は頷く。
「ん、まあね。そもそもこんな話ハナから信じてないし。それに、私たちも小学生じゃないんだから、あの時みたいにはならないかなって」
「あの時?」
小学校時代、この話が広まったことで私は軽く嫌な思いをした。いじめと言うほどのものではなかったし、私自身も相手もそうした認識はなかったと思う。ちょっとからかわれた。それが少し長く続いた。それだけのこと。そうしたことを簡単に説明する。
「そうだったのね。でも安心して。さすがの明日香でもそれくらいの弁別はつくから」
「いちいち一言多いんだよ。でも、麻里の言う通り。あたしたちは広めないし、もちろんからかったりもしない」
由美もうんうんと頷いてくれる。その姿に私は安心し、体の力を抜いた。思ったよりも緊張していた自分に気づく。
「みんなありがと。……本当はね、私の秘密を知ってほしかったの。高校の友達は一生モノって言うじゃない? みんな、私の友達だから。この話は友達の証みたいなものかもね」
だから話したのかもしれない。私はそんな気がしていた。笑顔で聞いてくれる皆に、私もいたずらっぽく笑う。
「もし本当に呪いがあったら、友達特典としてみんなを真っ先に呪ってあげる。楽しみにしててね」
微妙に笑えないブラックジョークが、ほんわかと温まった空気を一気に凍らせた。
滑った。そう理解したときにはもう遅い。あすかまりの視線が冷たい。必要以上に冷たい。由美の温かい視線は逆に心をえぐってくる。私は愛想笑いでごまかそうと頭を掻くしかできなかった。
「ま、まあ、呪いの話はともかく、みんな、もっと気にするべきことがあるんじゃない?」
死んだな空気をいつものそれに戻そうと、助け舟を出してくれたのは恵だった。持つべきものは親友だ、パート2。周りをしっかりと見て場を整えてくれるのは本当にありがたい。いい意味でも悪い意味でも目立つような性格ではない彼女だが、皆に好かれる理由はこういうところにあるのだろう。
「ああ……通り魔でしょ、とーりま。任せといて。あたしが撃退してあげるから」
明日香はシュッシュッと声に出しながら、ドヤ顔でボクシングのポーズ。通り魔の一言に由美の身体が強張るのが分かった。それは今日の職員会議の議題でもある。
女子高生連続無差別殺人事件。この地域からは少し離れたところで起きている事件だが、現場は徐々に近づいてきていて、次は紅高生の通学範囲に差し掛かってもおかしくない。そう頭では分かっていても、この地域は静かで平和な場所であり、通り魔なんて物騒なものとは縁遠い場所のように思える。私自身、そして恐らく皆も、どこか異世界の出来事のように実感の伴わないものとして感じている。それどころか、皆揃って下校できたことに対し、不謹慎だが感謝したい気分さえあるくらいだ。
「明日香には無理よ。手口知ってる? 後ろからグサってナイフで一刺し。抵抗の隙さえ与えられないのよ」
麻里の言うとおり、犯人は只者ではない。相手を選ばない通り魔殺人でありながら一切物的証拠を残さず、未だ目撃証言の一つも出ていない。被害者には何の共通点も見つかっておらず、警察の捜査も難航している。金品を含め所持物には一切手が付けられていないことや、余計な傷を付けず、それどころか死体を綺麗に整えていることが明らかになると、中には殺人犯を崇拝するような者さえ生まれているという。
「じゃあ、そう言う麻里はどうするのさ?」
「うちは明日香が襲われてるところを遠目で眺めて通報するかな」
「いや助けろよ薄情メガネ」
また言い合いを始めようとするあすかまりに恵は苦笑。
「通り魔も怖いけど、確か法則性があるんでしょ? 火曜日の夜だっけ、出歩かなければ大丈夫だよ。それよりも、私たちは等身大の心配をするべき」
「うるさい! 身長の話はやめろ!」
「恵といえども許さないわよ」
「いや、してないけど……」
恵は呆れ顔。身長の低さはあすかまりのコンプレックスらしく、よく地雷を踏む羽目になる。私としては身長が低くても気にすることはないと思うし、二人とも似合っていて可愛いと思うけど、そんなことを口にすれば嫌味と受け取られて突っかかられるのが目に見えている。
「もう、私が言いたいのはテストの話! 二週間後でしょ。一応聞くけど、みんな勉強してる?」
うっ、と皆が声を詰まらせる。
「し、失礼ね。明日香が二週間も先のことなんて考えてるわけないでしょ」
「アンタが失礼だよ! 麻里だってテスト勉強なんてしてないくせに!」
麻里の先制攻撃に明日香が噛み付く。
「いいえ。うちは寝てた授業のノートをもう集め終わったわ」
「まじかよ! 貸し……」
「先に言うけど貸さないわよ」
食い気味に突っぱねられたが、諦めず明日香は麻里の手を握る。
「そんな事言わず、あたしと麻里の仲じゃん?」
明日香は上目遣いで言う。顔を作った彼女の破壊力はなかなかに大きい。
「もし逆の立場なら、貴女どうする?」
「絶対貸さない」
一瞬にして悪い顔になる明日香。
「それが答えよ」
ぐぬぬ、と言葉を失う。そもそも授業は起きていようよ、と由美は呆れ顔。
「ずいぶん余裕そうだけど、スズは大丈夫なの?」
「だって私にはほら、恵先生がいるから」
恵はずっとトップクラスの成績を維持している。心強い味方だ。
「いいなあ。ねえ、わたしも教えてほしいな」
「由美は教えなくても大丈夫なんじゃない?」
「うん、すずちゃんたちほどひどくないとは思うけど、ところどころ分からないところがあって。早いうちに潰しておきたいなって」
ナチュラルにディスられたが、由美に言われると反論する気になれない。次はそう言われない程度には頑張ろう、と心に決める。せめてあすかまりと「たち」でまとめられない程度には。
「てかそれより、聞いた? 海田と千佳が別れたって」
「うちも聞いたわ。驚きよね」
「えっ、そうなの? 知らなかった……。あんなに仲良しだったのにね」
勉強の話を変えたかったのか、明日香が旬な話題を提供する。駅に着いても私たちは話し足りず、駅前のファミレスで他愛ないおしゃべりに興じた。日が長くなってきたとは言えまだ五月だ、気がつけば日が沈もうとしていた。通り魔対策で早く下校させられているのに、夜になるまで帰らないのは本末転倒。先生に見つかったら怒られる。暗くなる前にと私たちは席を立った。
方向が逆の由美と駅で別れる。電車に乗ると、数駅で明日香が電車を降り、その次の駅で麻里が降りた。その後私は恵と同じ駅で降りて、同じ方向に歩き出す。
「明後日、楽しみだな」
その日は私の誕生日。平日だが、部活の後に恵が我が家に来てくれる。私たちが小さい頃から、誕生日には相手の家に行くのが恒例行事だった。今はお祝いといっても一緒にご飯を食べるだけだが、恵お得意の料理を披露してくれるのが純粋に楽しみだ。
「何作ってくれるの?」
私が恵に問いかけるが、恵は視線を合わせてくれない。
「恵?」
「ねえ、スズ」
私の言葉を遮るように、恵がこちらを向いた。その視線に不自然な暗さを感じる。
「通り魔ってさ、本当にこっち来ると思う?」
いつもより早口で恵は言う。気づけば、私の家はすぐ近く。
「どうしたの、いきなり」
「私もみんなも、この辺でそんな事件起こるわけないって思い込んでるけど、真剣に考えたらちょっと怖いなって」
大丈夫だよ、と口にしかけて押し黙る。それこそ、真剣に考えていない証拠ではないか。
確かに、通り魔を真剣に捉えている人がどれだけいるだろうか。治安の良さだけが取り柄のような田舎町。だからこそ、この地域の危機意識は限りなく低い。
「でも、恵も言ってたじゃん。法則性。火曜日の夜、そこだけ気をつければ、きっと」
これまでの被害者は四人。その数少ない共通点が火曜日の深夜、ナイフの一突きで殺されているということ。間隔はまちまちだが、とにかく、火曜日の深夜にさえ出歩かなければ安全なはず。
「そうなんだけどね」
恵の表情は曇ったまま。
「スズの呪いのこともあるし。どっちだって、本当に起こるって信じてるわけじゃないけど、二つもあれば、どっちか片方くらいは起こるかもしれないって、そんな気がしちゃって」
淡々と話し続ける、いつもと違う恵。私は返す言葉に迷う。
「もし、もしも呪いの話が本当だったら、私、」
この先を言わせちゃいけない。そんな気がした。先に私が何か言わなきゃ。しかい、私の拙い頭は焦れば焦るほど真っ白になっていく。こんな時に、一番の親友にかける言葉の一つさえ見つけられないなんて。一度閉じた恵の口がためらいがちにそっと開く。俯きがちの視線が私の左腕に突き刺さる。肘から先がぴりぴりと痛む。やめて。もう何も言わないで。その言葉さえ、私は口に出せなかった。
「私、二番目くらいに、誰の記憶にも残らずひっそりと死んじゃうんだろうなって」
いつもに増して小さな声。だけどその声は今までにないくらい鮮明に響いた。微笑を浮かべた彼女の顔はぞっとするほど美しく見える。俯いたままの力のない笑み、軽く伏せられた瞼。恐ろしいくらいに完璧だった。
「……へ?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。やっと私が意味を理解したとき、恵はもう背を向けていた。
「ごめん。忘れて」
そう言って恵は立ち去っていく。いつの間にか暗くなった道。恵の意図が分からず立ち尽くす。誰よりも近くにいて、誰よりも仲が良かったはず、なのに。そんな彼女のことを分かってやれない。それが何より怖かった。寒気に襲われて自分の身を抱く。自分の胸の中をもやもやとした黒いものが覆っていく。どうして。どうして?
去っていく恵の、見慣れたはずのその背中が、いつもよりもずっと小さく見えた。
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