第6話 祖父LOVE論争(同床異夢)

 ガラス障子の向こうで、グツグツと鍋の中の出汁が躍る音が聞こえる。ふいにトントントンと、まな板の上で包丁が躍る音も飛んでくる。

 部屋の隅に置かれた横長の液晶テレビには、ピンクのシャツと股引に紫のハラマキという姿をした『志村けん』が大きく映っていて「あっ変なおじさん」と言いながら踊っている。どっと笑う声がテレビから溢れて、部屋に満ちる。

 次第に強さ増して漂ってくる美味しい匂いは、傍らで折り紙を折っている五才の妹には苦行らしく、先ほどから「うー」やら「ごはんー」やら「ばっきゃろー」などとうめいて二つ結びの髪を前後に揺らしていた。

「お、今日は肉じゃがですかい? めっちゃ美味そうな匂いしてんじゃん。マジあがるわ―」

 と、縁側から兄が現れた。つい最近、整えた眉と赤茶に染めた髪のせいで別人に見える。身に着けているシルバーのネックレスとリングピアスも相まって、冴えないミュージシャンのようだ。そんなファッションと兄の背後に見える数々の盆栽が並んだ庭とのミスマッチが実に酷い。

「ゆうにぃ、みてみて、なめくじ!」

 兄は妹の芸術品を見て愛想笑いを浮かべると、檜で出来た細長の座卓の左手に回って、私の向かいに腰を下ろした。

「つーか美香よお、お前なんで中学の制服のままなわけ? 私服に着替える時間くらいあんだろ。もっと女らしくしたらどうなん」

 最近の兄はとても面倒くさい。

「私の勝手でしょ」

兄をキッと睨みつけてやる。私が男だったら、このまま殴り合いの喧嘩に発展させているところだ。

 三ヶ月前、兄が出向いた成人式で『両想いだったけど色々とワケあって付き合うことが出来なかった』という、あるある関係の異性と再会したことが原因なのは間違いないだろう。どうせその人の中で兄はキープ君で、ちょうどフリーの時に現れたから軽く付き合ってみるかと思っただけなのだ。きっと今は理想の彼氏に改造しようと目論んでいるのだ。そうすれば兄の無理なイメチェンもうなずける。

 どう考えてもロクな女じゃない。そんな女のおもちゃになっていることにすら気付いていない兄はもっとロクでもないけど。


「おい。また喧嘩しているのか。加奈が暴力女になったらどうするんだ。やめなさい」

 今度は父が縁側から現れた。いつもの四角眼鏡から覗く冷めた目と、白いワイシャツの上に羽織った黒のベストが視界に入って安心する。父が経営するジャズカフェの仕事着は、私が生まれた頃からずっと見てきているものだ。

 そのため、ワイシャツの上にベストを羽織った人を見かけると、いつも父を思い出してしまうようになった。ちょっと複雑である。

「ぱぱー、みてみて、みみず!」

 父は妹の芸術品を見て愛想笑いを浮かべると、熊のようなガタイの良い巨体でのしのしと歩き、兄と同じく座卓の左手に回って、妹の向かいに腰を下ろした。

 ちらりと冷めた目が私に向く。

「美香。ちゃんと勉強しているか」

「してるよ」

「ならいい。隣のようなあんぽんたんにならないようにな」

「別にあんぽんたんじゃねえだろ」

「じゃあなんだ、あんぱんか。あんぱんまんかお前は」

「……ちげえよ」

 父のギャグは寒い。

 

 と、ガラス障子が開き、母と祖母が現れた。

「あんぱんまんってなんじゃいな。あんぱんかあんまんかハッキリしんさいよ。それと隆次、わりゃーがかばちたれっときは、もっと男らしくせえ。息子じゃけえ。おまんのかばちは女々しか」

「おふくろ。その広島弁なんとかならんか。ここは東京じゃけえ、ここで育った息子らはおふくろの言うとることわからんじゃろ」

 二人の後方にある台所から、強烈な美味しい匂いが流れ込んでくる。

「うにゃあー!」妹が咆哮した。

「まあまあ、お義母さん。そんな怒らんと」

「じゃけ、あんぱんまんはイケンよ。なんじゃいあんぱんまんて。ハッキリせいよ」

「そっちなんね」


 と、母が困った顔から機嫌の悪い顏へと表情を変えてこちらを見る。

「あのね。少しみんなに話があるの。夕食前で悪いんだけど」

「なんだ話って」

 母を見上げた父の四角眼鏡全体が蛍光灯の光を反射して、鈍く光る。

「なんだってあんたね。本当に分からないの? ……お義父さんのことよ」

「親父の?」

 母の言葉に、私を含めた居間の全員がきょとんとした顔をしていた。

 おじいちゃんのことってなんのことだろう? 私、おじいちゃんに何か悪いことしたのだろうか。そりゃあ小さい頃は色々と悪さをして叱られてきたけれど、そのおかげで今は良いことと悪いことの区別は少なからず分かっているつもりだし、それが大好きなおじいちゃんのこととなったら、なおさら嫌だと思うことは分かっているつもりだ。

「あのねぇ。ほんっと信じられない」

 父だけではなく、ここにいる全員が自分の言っている意味を理解していないと悟ったのだろう、母は眉間に皺を寄せて、口を歪めた。

「もっとみんなお義父さんに優しくしてよ」

 突如、宙に『しーん』という文字が浮かんでも違和感がなかったかもしれない。

 そう思ってしまうほどに静かだった。テレビから発せられた「だっふんだ」という声がやけに耳に付いた。


「お前はなにを言っているんだ?」

 父が口火を切った。

「なにってなによ」

「俺は優しくしているつもりだ。いや、している。しているという絶対的な自信がある」

 皆、父に続いて次々と挙手をする。

「俺だって毎日、将棋の相手してんぜ」

「あたしもー! いつも一緒に折り紙してる! おじいちゃん大好き!」

「わちだってここまで寄り添ってきたんよ。今も支えになっとるつもりよ」

 私も皆に続いて、挙手する。

「私だって、おじいちゃんの話し相手をよくしてあげてるよ? なんでお母さんは優しくしていないって思うの?」

 すると母は少し悲しそうな顔をした。

「昨日、居間でテレビを見ていた時に偶然聞いちゃったのよ。お義父さん言ってた。悲しいのぉ、寂しいのぉって」

「聞き間違いだろ。おまえはいつもすぐに勘違いして暴走するからな」

「……なん? わちの地獄耳知っとるちゃろ! おまんの浮気相手との電話をどれだけ妨害したと思っとるん」

「おまえ、それは言わない約束じゃろ」

「ゆうことがええね! 元はといえば、おまんが悪いんよ」

「ちょっと母さん。落ち着いてくれよ。なに言ってんのか分かんねえよ」

「ママ、こっわー!」

 母の癇癪に、みんな立ち上がっておろおろとし始める。

 かくいう私もどうしていいか分からず、胸の前まで持ち上げた両手を、マイケルジャクソンの『スリラー』よろしく、父と母との交互で左右に振る。

「このままじゃ、しごにならんね」

 ふいに祖母がすっと、母の頭に手を置いた。何事かと、みんなが一斉に口と動きを止めた。

「じゃっかましいんじゃあ!」

 祖母の声が耳を貫いていった。凄すぎてクラっときてしまった。前を見ると、父と兄が腰を抜かして尻餅を突いていた。

 見事に同じ体勢で、祖母を見上げている。ちょっと面白い。

「なんじゃおどりゃあ! 叫べばなんとかなると思っちょるんか。おまんのそういうところが、お義父さんを悲しませているんと違うんか」

 母も負けていない。今度は母の声が耳を貫いていく。腰を抜かしている二人が肩をびくりと震わせた。

「いつまでも人の頭に手なんか乗せとんな」

 言いながら祖母の手を払いのける。

 いつも思うことだけど母は凄い。私も母のような人になろう。姑にあれだけ強くぶつかれる嫁になろう。そして夫を尻に敷き、家族の実権を握るのだ。

「おお。相変わらず良い度胸しちょるなおどれ。嫁のクセに生意気なぁの。そげなところが、あの人を悲しくさせちょるんじゃ」

「ママ、ババ、そんな喧嘩しないで。ほら、みてみて、けむし!」

「じゃかましい、クソガキ。おどりゃーは黙っちょれ」

 ……まさかの実の娘をクソガキ呼ばわり。五歳である妹にはやはり辛いものがあったようで、涙目になっている。さすがに可哀想だ。これは言わなきゃ。

「あの、お母さん」

「おい静江。加奈はまだ五歳だぞ。なにを考えているんだ。もうお前はレディースのヘッドじゃねえんだぞ。母親らしくしろ」

「そうだそうだ。皺が増えるぞ」

 私を遮って父と兄が声を荒げた。恐怖からか、声はずっと震えている。

「母親らしくってなん? おどれらも男らしくせーよ。孝(こう)介(すけ)も女にたぶらかされちよって。わちは恥ずかしいよ。おどれの堕落が原因かもしれんね」

「はあ? 俺のことは関係ねえだろ。そういうあんただって、親父と出来ちゃった婚だったんだろうがよ。その場のノリで結婚するやつの気が知れねえんだよ」

「なんじゃ。もういっぺん言ってみい」

「ママもおばあちゃんもパパも兄ちゃんも、みんな大っ嫌い。絶対にこんな大人になりたくない。仲良くしなきゃダメって、この前おじいちゃんも言ってたのに」

 涙目で訴えかける妹だったが、目の前の家族は全員我を忘れていて、耳まで届いていない。


 私はそっと妹の頭に手を置いてやった。妹がそろりと私を見上げる。

 ……潤んだ瞳が私の心に火を付けた。私だってレディースのヘッドだった母の娘だ。言うべき時は言わなくちゃ。いつだって臆病なわけじゃない。

 こんな私達を見たらおじいちゃんは悲しむに決まってる。もしかしたらこれが理由なのかもしれない。最近みんなピリピリしてたから。

「あの、みんな」

「「おどれは黙っちょれ」」「「お前は黙ってろ」」

「ひっ」

 四人から同時に言い返される。……私は話に参加する権利すらないっていうこと? 

 もう!いつもみんなで私をバカにして!

「私をバカにするなぁ! みんな一人一人ダメなとこあるんだよ。不満な部分を持ってるんだよ。少しはそれを自覚して、自重したらどうなの? 

 お父さんは最近、女子高生もののエッチなやつ借りてきすぎ。お母さんはお隣の磯部さん家から夕方まで帰って来ない日があるけど、なにをしているの? 

 おばあちゃんもプライド高すぎ。自分が神様にでもなったつもりなの? 人のこと見下すのもいい加減にしたら? 

 兄ちゃんも最近、自分の価値観押しつけて来すぎてウザいよ。あと絶対すぐに振られるよ。あとそのファッションめっちゃダサいから。あと、洗面台の鏡を占領するのやめてくれる? 気持ち悪い」

「俺だけなんか多くね」

 私の言葉に、四人の顏がみるみるうちに赤くなっていく。ざまあみろだ。

「お姉ちゃんも大っ嫌い」

「あ」

 傍らを見ると、憎々しげに私を見つめる妹がいた。

 しまった。私としたことが。我を忘れて怒り狂ってしまった。

「覚悟は出来とるんじゃろ? グーでいくぞ。よかんね?」

「え、あの、その」

 過去に「レディース時代のわち」だと言われて見せてもらった写真で見た母の鋭い眼光がそこにあった。

「ふあー。良い湯じゃったー」

 と、廊下から穏やかな声が。とん、とんと廊下をゆっくりかつしっかりと歩む音が聞こえてくる。この歩き方をする人を私は一人しか知らない。

「おじいちゃん!」私は声を上げた。

 全員が一斉に縁側へと顔を向ける。

「あー。夜風が心地ええー」

 もくもくと湯気を発散させている祖父が縁側に立っていた。四角く折りたたんだ白いハンドタオルを、つるつるに禿げた頭に乗せている。

 祖母、父、母、兄、私、妹。……祖父はゆっくりと家族の顔を順番に見た。

 そして満面の笑みを湛えながら、こう言った。


「わしゃあ、お前らが笑っている時が一番幸せだ」


 胸の奥底をなにかで力強く押し突かれたようだった。

「おじいちゃーん!」

 妹がおじいちゃんの脚に抱き着く。私を含め、それ以外の人間は顔を真っ赤にして俯いていた。

 台所では鍋の中の出汁が未だにグツグツと音を立てている。

 ふとテレビから「あいーん」という声が飛んできた。どっと笑う声がテレビから溢れて、部屋に満ちた。



同床異夢(どうしょういむ)


同じ寝床に寝ても、それぞれ違った夢を見ること。

転じて、同じ立場にありながら、考え方や目的とするものが違うことのたとえ。

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四文字の宝石箱 上坂 涼 @ryo_kamisaka

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