第5話 清い水に愛はあるか(水清無魚)

 夏休み前の期末テスト。鉛筆を机に打ち付ける音だけが響く教室。

 しかしそれは完全なブラフであった。実際のところは、クラスメイトのほとんどがついに迫ったラストサマーバケーションに浮ついている。テストの成績どころではない。

「テストが終わった奴から帰っていいぞ」

 もちろん受験を控えている学年なので、神経質になる者もいる。だがこれが本日最後のテストとなると話は別である。

 誰も彼もが、明日の終業式と夏休みを心待ちにしていた。

 と、目の前に座る水野が手を上げた。

 先生が彼女に近づき、答案用紙を確認する。やがて先生は頷いて言った。

「静かに出ていけよ?」

 彼女はこくりと頷き返して、席を立ち上がった。通学カバンを肩に掛け、教室を出ていこうとする水野に視線が集中する。

 誰かが舌打ちをした。

「おい、誰だ今の」

 先生が鋭い声で辺りを見渡すが、誰も顔を上げない。

 一方の水野は意にも介さない様子で、平然と教室から出ていった。それと同時に、異様な雰囲気へと変貌を遂げていた教室の空気も、一瞬で戻る。

 水野愛花。彼女は本校の生徒会長であった。生徒会長というと、頭が良くて、皆から頼られて、充実な高校生ライフを送っているイメージが強いが、実際にはタイプが二種類ある。一つは今述べたパターン。

 もう一つは、融通の利かない頭でっかちパターン。学校の規律、風紀を最重要視して、学生の自由を奪う暴君である。

「おい、川崎。問題は黒板には書いてないぞ」

「あ……すみません」

 川崎は、咄嗟に答案用紙へと視線を戻す。彼は頑張って問題を解こうとするも、内容が頭に入ってこない。

 ダメだ。彼女が気になって仕方がない。……よし。男を魅せる時だぞ! 川崎! 覚悟を決めろ! 

 彼は意を決した。この選択が、浪人の道に繋がろうとも悔いはない。

 彼はさらさらっと適当に回答欄を埋め、ばばっと手を上げた。

「おいなんだ? もう終わったのか? 本当に?」

 内容がどうあれ、全ての回答欄に鉛筆を走らせた答案用紙だ。先生は快く承諾して、早抜けの許可をくれた。驚きに満ちた表情で彼を見る者も少なくなかったが、今の彼にはどうでも良いことだった。

 

 教室の扉を後ろ手に閉めて、辺りを見渡す。

「まだ下駄箱の辺りにいるかも」

 そう呟き、彼は廊下を疾走した。二段飛ばして階段を駆け下りて、下駄箱を目指す。

 彼は水野のことが好きだった。

 彼は彼女が本当は優しくて、誰よりも周りの事を考えていることを知っていた。それがちょっと空回りしているだけ。

 明日の終業式が終われば、夏休みが始まってしまう。会う機会なんてそうそう無い。さらに夏休みが終われば、文化祭がやってくる。彼女の人望がものを言う舞台だ。現状のまま行けば、彼女が傷つくのは目に見えていた。それだけはなんとしても阻止しなければいけない。

 彼は駆け下りるスピートをさらに上げた。

 誰にも介入されずに二人きりで話すチャンスは今日しかない。今日という日を逃してはならない!

 最大限の努力で下駄箱へと辿り着く。しかし辺りには誰もいない。出入り口の扉に目を向けても、窓の外には誰も見えない。

 外には出ていない? それとも俺みたいに走ったのか?

 経過時間から考えても、窓の外――校門までのアプローチに彼女の姿が見えないのはおかしいことだった。

 ん? なんだ?

 どこからなのか、彼の耳に水の音が飛んできた。改めて辺りを見渡すと、出入り口から真正面に位置する中庭が目に止まった。ここらで水の音がするといえば、中庭の池しか考えられない。

 川崎がおそるおそる中庭への扉に近づいてみると、彼女の姿を窓越しに確認した。

「水野」

 彼女は中庭の池垣にしゃがみ込み、池の水に手を入れているようだった。

 ぴちゃ、ぴちゃ……ぴちゃ、ぴちゃ。と、水声がゆっくりとした一定のリズムで聞こえてくる。

 彼は、おもむろに中庭へと続くスライドドアの取っ手に指を掛けた。

 ドア下の滑車が回り、耳に障る鋭い音が鳴り響く。どうやら誰も手入れをしていないのか、錆びついているらしい。

 ドアが開く音を耳にして、水野が彼に振り向いた。ぴちゃ……。と、それを最後に水声の律動が止まった。

「川崎君?」

「水野。こんなところで、なにしてるの?」

 なんの断りもなく、彼は水野の隣に腰を降ろす。


 しばらく二人の間に沈黙が続いた。

 何も言わない川崎に、水野が声を掛けた。

「ねえ、もしかして。もしかしてなんだけど。私のことを心配してきてくれたの?」

 川崎は小さく頷いた。

「そっか。なんか意外だな。川崎君と話したことってそんなに無かったけど……優しいんだね」

「みんな、水野のことを悪く言うけど、俺はそう思ってないから」

 水野が、ふっと笑って俯いた。水面に映した自分の顔を見つめている。

「川崎君はさ」

「うん」

「綺麗な池と、汚い沼だったらどっちが好き?」

 川崎は中庭から見える青空を見上げた。

「綺麗な池かな」

「そう」

 ちゃぷっという水音が鳴る。水野が池に手を入れた音だった。ちらと見やると、かすかに口元が歪んでいた。

「でも、魚達は汚い沼が好きみたい」

「それは違うよ」

「違わないよ。みんな綺麗な池に住むのを嫌がってる」

「嫌がってないよ」

「そんなの嘘だよ」

 彼は雲を眺めながら首を振った。

「ううん。みんなが嫌なのは、綺麗な池に住むことじゃなくて、自分が汚いモノだと決めつけられてることだと思う」

 彼女の口元が、弓の形を描きはじめた。

「決めつけてない」

「でもみんなはそう思ってる」

「そんなの……もう、どうしたら良いか、分からないよ」

 そう言って、彼女は膝に顔を埋めてしまう。

「水野はさ」

「なに」

「綺麗な池でいることが好きなの? それとも池で泳ぐ鯉を見るのが好きなの?」

 水野は涙声で叫んだ。

「そんなの、後者に決まってるでしょ!」

「だと思った」

 水野は思わず顔を上げた。彼の横顔を見て、むっと顔をしかめる。彼は穏やかに笑っていた。

「今の水野、良い感じだよ」

 と、川崎がさらに笑う。

「バカにしてるでしょ」

「ちょっとだけね」

「もう! なんなの!」

 彼はごめんごめんと笑って、水野に顔を向けた。

「ねえ、水野。友達になってくれないかな」

「私、なんかと……友達になっても楽しくないよ?」

「大丈夫」

 川崎はすっと立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。

「もう楽しいよ」

 池の水面には、二つの手が結ばれる様子がくっきりと映っていた。



水清無魚(すいせいむぎょ)

 水清ければ魚なし、水が清すぎると魚が住まないということ。

 転じて、心が清く高潔であっても、程度が過ぎると人に親しまれないということ。

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