【番外最終話】シンデレラの、微笑み

「どうした、湖都」


私を背後から抱きしめている岸川さんの低く、安定した声が、お風呂場にこだまする。

それだけで私の心は落ち着いていく―――。


岸川さんに身を委ねつつ湯船につかっている私は、満足気な溜息をホゥとつくと「ぅん。ちょっと・・思い出してたの」と呟いた。


「いろいろと。この3ヶ月は本当に・・いろいろあったなぁって」

「そうだな」


・・・今から3ヶ月と少し前、主人だった壮介さんが亡くなった。

自殺だったため、壮介さんがかけていた生命保険金は支払われなかった。


ショックだった。


私はお金が欲しかったわけじゃない。しかも壮介さんのお金なんて、最初からほしいとも思ってなかった。だから、保険金が受け取れなかったことがショックだったんじゃない。

私がショックだったのは・・・保険会社からの知らせで、壮介さんの死を知ったことだ。

おかげで、私が壮介さんの死を知ったとき、すでに壮介さんの葬儀は終わっていた。

別に私は喪主になりたいとまでは思ってなかった。

ただ・・・ただ、壮介さんに「さようなら」くらいは言いたかった。

息子の翔にも、大好きだった父親に、きちんと別れを告げる機会を与えたかった。


いくら疎遠になっていたとはいえ、こんな形で元夫が亡くなったことを知るなんて・・・。

人生って一体何なんだろう。

人の縁は、こんなに呆気なく切れるものなの―――?


前田さんは・・・とても残念なことに、流産してしまった。

壮介さんの遺体を最初に発見してしまった心理的ショックが大きすぎたため、そして・・・壮介さんとはまだ入籍していなかったことや、壮介さんの遺言もなかったために、前田さんは、壮介さんの遺産を1円も受け取ることができなかったことに対しても、かなりショックを受けたらしい。

彼女の元々の体質、そして37という年齢的な事情も重なり、前田さんが再び妊娠することは、おそらくできないだろうと――少なくとも、医学的には無理と――言われたそうだ。


「これも“この世の理≪ことわり≫”?でも前田さんは、悪いことなど何もしていないと思う。ただ・・愛情を向ける先が違っていたっていうか・・・恋愛初心者である私が、こんな風に偉そうなことを思うのもどうかと思うけど・・そんな気がする」


ブツブツ呟く私の背後から、クスクス笑う岸川さんの声が聞こえた。


「おまえが言いたいことは分かるよ。俺もそれは“理”が返ってきたと思う。もし、湖都を侮辱したり、多くの財産をふんだくってやろうと企む代わりに、旦那さんのことを純粋に愛してたって気持ちを少しでも表してたら、状況は違っていたのかもしれないと俺も思う。ま、これはあくまでも“もしかしたら”の話だがな」

「うん、なんか・・・かわいそう、二人とも。最後、あんな別れになってしまって。“さようなら”も“愛してる”も、何も言わなくて・・・。もし、壮介さんがあの場で“見聞き”してたらと思うと、やっぱり・・」

「でもさ、俺思うけど。あの二人って愛情よりも打算でつきあってたんじゃねぇの?だってさ、愛人さんは旦那さんの金と自分の子どもが欲しかったんだろ?旦那さん自身じゃなくて。旦那さんも、愛人さん自身は求めてなかったような気ぃするし。結局のところあの二人の間に愛って絆は存在しなかったんだよ」

「だとしたら・・・悲しくて、脆い関係よね。・・・ねぇ、岸川さん」

「ん?」

「私・・もし、私が死んだら」

「それ以上は言うな」


岸川さんが背後から、ガバッと私に抱きついてきた。

おかげで私たちの距離はグッと縮まり、浴槽の湯が派手に波打つ。


「・・・まだ考えたくない」

「ぁ・・・ぇ、っと・・・そう、だね」


・・・熱い。岸川さんの体が。息が。この場の空気が。

私自身も、熱くなってる・・・。


密着している分、私たち二人の鼓動、どちらも感じることができる。

これが・・生きてるって証。


「・・・岸川さん」

「なんだよ」

「私と、一緒にいてください」

「おまえはそれを今更言うか!?俺はすでにそのつもりだけど?」

「えっと、今夜だけじゃなくて!だから、そのっ・・・」

「ずっとだろ」


耳元で聞こえた彼の囁き声が、心地いい・・・。

私は、岸川さんの腕に手を乗せて、コクンと頷いた。


「し、死ぬまで・・」

「一緒に生きような」

「ぅん」


嬉しくて、私の心がじぃんと震えている。

そして嬉しさのあまり、私の目からは涙がこぼれ落ちてきた。


・・・今、私を抱きしめてくれているこの人のことを、私は、自分の人生の全てをかけて愛すると誓う。

だって岸川瑞樹さんは、世界で一番大切な男性ひとだから―――。









私と翔が、岸川さんと一緒に暮らし始めてから約半年後、壮介さんが亡くなってからもうすぐ9か月になる頃、私たちは入籍した。

12月初旬の、冬の季節にしては朝から暖かく、大安吉日と呼ぶにふさわしい青空が広がっていた。

まるで私たちの新たな門出を祝うかのように。


瑞樹さんを愛し始めてから、私は変わった。

外見的には・・・髪を切った(ショートボブにしている)程度で、メイクも今までどおり、ほとんどしない。服も、瑞樹さんの事務所を手伝う仕事はしているけど、小さな子育て重視したカジュアルな服装なのも、相変わらずだ。

でも、以前の結婚事情を少なからず知っている母は、今の私を見て「キレイになったね」と言う。


「やつれた感じがきれいさっぱりなくなって、なんだか、すっかり若返ったわねぇ、湖都ちゃん」

「えぇ?私って、そんなに老けて見えてたの!?」

「そんなことはないけど・・・まぁ、ちょっとね。でも、今は年相応の“キレイな大人のおねえさん”に見えるわよ」

「ふぅん・・」

「やっぱり女って、恋する相手次第でいくらでも変われるものなのねぇ。湖都ちゃんは岸川さん――あらやだ、私の義理の息子になったんだから“瑞樹さん”って言わなきゃね――にたくさん愛されてるのが傍から見ても分かるくらいだもんねぇ」

「・・うんっ」

「まぁっ、堂々と肯定しちゃって。ごちそうさま!」


私は、よく笑うようになった。いや、厳密にいえば、よく微笑むようになった。

たとえば、翔と瑞樹さんが仲良くおしゃべりしているところを見たとき。

たとえば、家を掃除しながら、瑞樹さんが一心不乱に設計図を描いている姿をつい想像しちゃったとき。

私が作った料理を家族みんなで食べているひとときが、以前よりもずっと嬉しいと思うようになったから、食欲も戻った。

暮れなずむ夕焼け空を見て、なんて美しい風景だろうと思う心のゆとりもできた。

これも、壮介さんの浮気に悩み、離婚しようと思いつめていたことを止めたおかげだと思う。

そして、私が愛する男性――瑞樹さん――から日々十分に愛されているのを実感できているおかげだろう。


瑞樹さんは、私の微笑み顔を「シンデレラの微笑み」と名づけた。

これは瑞樹さん曰く、「かの有名な絵画“モナリザの微笑み”にちなんだネーミング」だそうで・・・。


「すっげーキレイでセクシーで。なんつーか、色っぽいんだよなぁ、おまえの微笑み顔は」

「えぇ!?なっ、なにそれっ!」


照れるのを隠すようにムキになって言い返している私に、瑞樹さんも微笑みながら手の指先で私の頬をそっと撫でた。

途端に、彼に触れられた部分が熱くなる。


・・・この人は、いつでも、どこでも、私を疼かせる術を心得てるんだから・・・!


「湖都が俺に微笑んでくれるとき、俺、ここがじぃんとくるんだ」と言った瑞樹さんは、自分の左手――さっき私の頬に触れた手――を、自分の左胸あたりに置いた。


「嬉しくてさ。あぁ俺、湖都にすっげー愛されてるんだなって“分かる”。これも幸せの一つって言えるよな」

「うん。ホント、そうだよね」


瑞樹さんに正面から抱きつこうとしたけれど、ボーンと突き出たおなかの存在を思い出した私は、彼の左側の二の腕あたりに寄り添うことに変更した。


・・・私にこんな、幸せな日が訪れるなんて、2年前の自分自身は想像すらしていなかったな・・・。


「・・・愛してます」

「俺も愛してるよ。俺にとって湖都は、世界で一番大切な女性・・・」

「どうしたの?」

「・・いや。昨日“ママのおなかにいる赤ちゃんは女の子だよ”って翔が言いきったのを思い出した」

「じゃあこの子は女の子なのかもね。明日の健診で聞けば教えてくれるって、先生言ってたわよ」

「やっぱ教えてもらおう!男か女、どっちか先に分かってれば子ども部屋の準備もそれっぽくできるし・・ってなんで笑ってんだよ」

「ん・・気が早いなーと思って。まだ2ヶ月はあるのよ?」

「そうだけどさー、やっぱこういうのって早めに準備しといた方がいいだろ?」

「そうね・・・うん、そうね」


私自身が小柄で、瑞樹さんと一緒になってからは食欲が戻ったとはいえ、どちらかというと痩せ体型のせいか、妊娠後期の今、おなかだけがボーンと突き出て見える。

後姿だけを見ると、私が妊娠していると分からない・・という人もいるくらいだ。

それでも、母子ともに健康。瑞樹さんと入籍後に授かった赤ちゃんは、私のおなかの中で日々順調に育っている。


私は、大きな自分のおなかを、優しくさするように何度か撫でた。

見えないもう一人の我が子との“スキンシップ兼会話”だ。


「・・・やっぱ”聖母の微笑み“に変えた方がいいかなー」

「どっちもステキなネーミングね」と言った私の顔は、自然とほころんで・・微笑んでいた。


シンデレラでも聖母でも、どちらでもいい。

どちらにしても、私は穏やかな心がそのまま表れているような微笑みを浮かべているから。


「大切にしたい人が増えるってさ、それだけ責任も増えるってことだろうけど・・それでもいい。俺はそういう人生を送りたい」

「そうね。私も、あなたと一緒に、そういう人生を送りたい」


もちろん翔とも、そしてもうすぐ生まれてくる赤ちゃんと、もしかしたら、その後も我が家にやってきてくれるかもしれない子どもも一緒に、賑やかで、楽しい日々を過ごしたい。


自分の生き様は、自分が死んだ後にしか分からない。

だからこそ、一瞬一瞬を大切に過ごしたい。

たくさん微笑みながら、愛する人たちを大切にしながら、私は生きていきたい―――。


私は、今、目の前にいる大切な男性ひと――瑞樹さん――に、穏やかな微笑みを贈った。


恋よ、来い。~傷心デレラの忘れもの~ 番外編完

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恋よ、来い。 ~傷心デレラの忘れもの~ 桜木エレナ @kisaragifumi

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