【番外編】あなたとキス、あなたにキス

「姫様。ようこそ!岸川建築設計事務所へ!」

「ぁ・・どぅ、も。失礼、します」


岸川さんの「大口上」と、執事然としたお辞儀の「洗礼」を受けた私は、恐縮しながら岸川さんの「お城」に入った。

おりしも今日の岸川さんは、黒っぽいスーツをビシッと着こなしている。

もしかしたら岸川さん、執事っぽく見せるためにわざと着たのかしら。

どちらにしても、適度に筋肉がついた細身の彼の体型に、スーツ姿は良く似合ってる。

けど、伸び放題に見える髪は、そろそろ切った方がいいかも。でもそれはそれで似合ってるんだけど・・・って、ここに岸川さんの「ズボラ」的兆候が出始めてる?


私は慌てて、岸川さんの髪の方へ伸ばしかけた手――触れたくてムズムズしてしてるけど――を、引っこめた。


一方、緊張少し、ドキドキがいっぱいで心が乱れている私とは対照的に、岸川さんはいつものように涼しい表情をしたまま、私の腰に左手をあてて、スマートに「エスコート」をしてくれている。


「今日は湖都ちゃんに事務所内を案内しようと思ってさ」

「なるほど」


・・・やっぱり岸川さん、今日は「執事」になりきってるのかしら・・・ちょっと待って!そもそも執事はこういうエスコートの仕方、しないわよね?

あぁもう・・・どうでもいい!


いろいろ考えてもどうにもならないと分かった私は、観念してその場の流れに心身ともに任せることにした。


「それで昨日は翔くんと二人で、事務所をキレーイに片づけたんだよ」

「あの、岸川さん?“キレイ”の言い方がとても・・・」

「何」

「いえっ」


「疑わしいです」と言いたかったけど・・・やめておいた。

岸川さんも「多くは追求しないでほしい」という表情をしているような気がしたし。


昨日、その「片づけ」を手伝った翔は今、みのり園にいる。


岸川さんは、私のことを見放すどころか、翔のことも大切にしてくれている。

それがとても嬉しかったと同時に、この・・愛や幸せを、本当に私が得てもいいのか・・そもそも私に得る資格があるのかという想いが、私の脳裏にちょっとだけ、よぎってしまった。


いけない!今ある幸福を信じられなくなるのは、私の悪い癖の一つだ。









岸川さんは事務所内を一通り案内してくれた。

ワンフロアなので、時間はそれほどかからない。

私が懸念していたより、事務所は「キレイに」片づいていると思う。

まず、そのことに私はホッとした。

でなければ一体、どこから最初に仕事を始めたらいいのか、私も分からなかっただろうから。


そして次に、事務所内に置かれている、建物の模型やパネルの数に、私は目を見張った。


「これは・・もしかして、岸川さんが設計した建物ですか?」

「そうだよ」

「これ、全部!?」

「ああ。ただし、独立してこの事務所を開設してからの実績になるから、7年分しかないけどね」

「それでも、こんなにたくさんの建物を創ってきたんですね・・・あっ!“白樺”だ!」

「真緒さんの喫茶店は中の改装だけだったから、5週間で済んだよ」

「そうですか・・・。これは?」

「あぁそれ。とあるお客さんの自宅の改装をしたんだ。でもトイレだけな」

「だから、トイレの写真なんですね」

「しかもパネル」


クスッと笑った私に岸川さんは、「これは印象に残ってる物件なんだ」と言った。


「どうして?」

「俺が携わった物件の中でも最短で終わったから」

「へぇ、そうですか。それで、どれくらいで終わったんですか?」

「クライアントが要望した便器やタイルといった部品を探す日数も含めて、トータル3日だ。新たにトイレを設置するとなると、水道のパイプも引かなきゃならないとか色々あるけど、それがなかったからね。ちなみにこの最短修了記録は、いまだに破られてない」と自慢げに話す岸川さんを見ながら、私はまたクスッと笑った。


「・・わぁ!これ、賞状?あ!トロフィーもある!」

「あぁ、それはある商業施設――その隣に模型あるだろ?――の設計をしたときにいただいたんだ」

「すごい・・・」


賞状をよく見ると、「ベストデザイン賞」と書かれている。

そしてトロフィーはその建物の形になっている。凝った演出だ。


賞状やトロフィーの他にも、建築関係の雑誌等に掲載されたインタビュー記事が、5つほどある。

私はそれらを見ながら、ため息をつくように「岸川さんって、実は結構名の知れた建築家なんですね」と呟いた。


「いやぁ。どーかな」

「あの・・一つ、聞いてもいいですか?」

「何なりと」

「この中、ていうか、今まで携わった物件の中で、岸川さんが一番気に入っているのはどれですか?あの・・もしかしたら全部に思い入れがあるとは思うんですけど・・」

「そうだなぁ。まぁ確かに、自分が手がけた物件は全部思い入れがあるよ。でも、特に気に入ってるのは・・これだな」


岸川さんは、一つの建物の模型を指さし、「特別支援学校だ」と言った。


「特別支援学校?」

「視覚や聴覚障がい者などが通う学校のことだよ」

「あぁ・・・」

「だから“特別”ってわけじゃないんだ。俺が独立して事務所を構えたって聞いた先輩設計士がこの物件の話を持ってきてくれてね。要するに、独立後、最初に手がけた物件が、この特別支援学校の設計と建築だったんだ。そう言った意味でもこの仕事は印象に残ってる。それ以上に嬉しかったのが、完成後に生徒さんや先生方からお礼のメールをいただいたことだ」

「確かにそれは嬉しいですよね」

「ああ。ある先生は、“学校に行くのが楽しみです”というメッセージを寄越してくれた。“僕も岸川先生が設計したような、ステキな学校を創りたいです。どうもありがとうございました”と書いてくれたのは、建築家を目指している盲目の生徒さんだと聞いて、俺、すっげー感動して・・・。ぶっちゃけ俺、一時は建築の仕事を辞めようと思ってたんだ」

「えっ?」

「だけど生徒さんや先生たちから、こういった感謝のメールをもらって、俺、この仕事を続けて良かったって心から思った。そしてこれをきっかけに、“誰の”“何のために”家やビルを設計するのかという、いわば建築家としての原点っていうのかな、それがぶれない限り、俺はこの仕事を続けると、改めて自分に誓った。もちろん俺自身、十分満足がいく学校を創ることができたし、学校側ももちろん満足してくれているという点でも気に入ってる物件だが、何より俺にとってこの仕事は、ターニングポイント的ってぇか、俺を前に押してくれた役割を果たしてくれたから」と言う岸川さんに、私は2・3度頷いて「分かります、岸川さんの言いたいこと」と言った。


「あの・・岸川さん」

「ん?」

「どうして、お仕事辞めようと思ったんですか。あっ、話したくなかったら、話さなくてもいいですよっ!」と慌てて言う私に、「気ぃ使わなくていいよ」と、岸川さんは笑顔で言った。


「あのことはもう引きずってないから、湖都ちゃんにも平気、てか平静に話ができる。だから話すよ」

「あ・・・はい」


落ち着かない私は、両手をもみしだくようにしながら、岸川さんを仰ぎ見た。

そんな私に、岸川さんは安心させるよう、ニッコリ微笑むと、私の頭にポンと軽く大きな手を置いてすぐ離し、そして話し始めた。


「東京に来て独立するまで俺は、とある住宅メーカーに勤めていた。湖都ちゃんと初めて出会った10年前もそこに勤めてたよ」

「ぁ・・そうですか」

「俺はその会社専属という形で、マンションの設計を担当していた。俺が設計したマンションは、いくつか形になった。それが純粋に嬉しかった。建築設計士の冥利に尽きるって感じで」


私は建築関係の仕事に携わったことがないけど、自分が考え出したものが、目に見える形になるって嬉しいことだという気持ちは理解できる。

だから私は何度か頷いて肯定した。


「だが事件は起こった」

「えっ、事件?」

「ああ。俺が考えた新しいマンションの構造案から設計図に至るまで、全てを、当時つき合ってた――と、俺は思っていた――彼女に盗まれた」

「ええっ!?」


驚いた私は、思わず両目を見開いた。


「彼女は、俺が考えた原案や設計図を“本当につき合っていた彼”に渡すために俺に近づいたんだ。俺はその彼女のことを恋人だと思ってつき合ってたんだが・・相手は“つもり”どころかその気もなかったってことだな。しかもさ、その彼女のホントの彼っていうのが、会社の先輩設計士――その人は結婚してたから、彼らは隠れてつき合ってた――だったから・・」

「なんてひどい!岸川さんっ、会社やその先輩に抗議しなかったの?」

「してない。てかできなかった。先輩は俺の案を100パーセントそのまま盗用することなく、その中に自分の案を微妙に織り交ぜた上で、“先輩自身の設計”にしたんだ。だが先輩自身の案は、全体の1割・・いや、5パーセントってとこだったから、俺にはすぐ分かった。たぶん会社の同僚設計士たちや関係者も薄々分かってたと思う。それでも、“先輩の設計”として会社が認めた以上、俺は何も申し立てることができなかった。信用していた人たちに騙されて、会社にも嫌気がさした俺は、会社を辞めて東京に拠点を移すことにした。ホントは建築関係のことから一切手を引こう思ってたんだが・・どうしても踏ん切りがつかなかったんだ。俺はまだ、自分の夢を叶えてないから」

「え?」


岸川さんが指さした先に、1つの模型があった。

その模型は、ごく普通のというか、ごく一般的でシンプルな一軒家で、岸川さんが今住んでいる吉祥寺の古い一軒家より、はるかに洋風だということは、建築関係は全く素人の私にも分かる“違い”だ。


「これは・・・?」

「俺の夢の家。俺が設計士を志すきっかけになった家でもある」

「あれ?なんか聞いたことあるような・・・・・あーっ!ピーター・ライト!?」

「お?思い出したようだなー、湖都ぉ」


・・・そうだ。

10年前、岸川さんと初めて出会ったあの夜。

岸川さんは設計士をしていること、そして―――。


『アメリカに留学してた時、ある家を見たんだ。正確には図書館の本でだけどな。それを見たとき俺、心がじぃんと震えるくらい感動した。なんでか分かんねぇけど、なんか・・いいなーって思ったんだ。俺もこういう家を創りたいって無性に思った。それが俺が建築家を目指す出発点になった。その家を建てたのはピーター・ライトってアメリカ人でさ。すげーのが、その人は設計士でも建築家でもなく、なんと、郵便配達士だったんだ。ポンチャートレインっていう、ニューオリンズにある湖を一目見たときから“この湖が見えるところに住む”と決めて土地を買い、自分で家を設計して自力で建てたんだと』

『えーっ?すごーい!』

『ああ。200年くらい前の話だけど、マジですげーよな。その本を見て、俺は決めたんだ。俺も自分が住む家は自分で設計しようと。住む場所も、誰と住むかも』

『へぇ。どんなー?』

『海の近くがいい。自然が豊かで、なんかこう、そこにポツンとあるような。でも寂しさは感じない。自然の中に馴染んでるから。ピーターが建てたような、シンプルで小さな家でいいんだ。一人で住むなら・・まぁいつかは家族で住むことになるだろうけど・・・』


あのとき、私は岸川さんの夢に共感したように何度も頷きながら、こう言った。

「できるよ」って。


『できるよ。岸川さんだったら、絶対できる!』

『断言したな、おまえ』

『うんっ。だって、岸川さんの夢ってとってもステキでわたし・・・・・・』

『あ?おーいっ、湖都ちゃんっ?湖都っ!?・・・』


あのとき私は・・・。


「この話には続きがある」

「えっ?あ・・と、どんな」

「先輩が“設計した”マンションは完成した。でもそのマンションは、耐震基準を満たしてないことが完成後に分かったんだ」

「まぁ!」

「さらに悪いことに、会社はそのことを隠したまま販売したんだ。結果、マンションの住民から訴えられて、賠償金を支払うハメに陥った。2年前の話だ。その影響で会社は倒産したよ。実は先輩設計士が“自分の”設計案として取り入れた、そのわずかな5パーセントというのが、建築上、致命的なミスを招いていたんだ。他人の案を盗んだことを隠すことばかりに気を取られて、住民の安全に気を配るという基本的、且つ肝心なことを考えてなかった先輩は、設計の仕事を干されたのはもちろん、建築業界に身を置くことすらできなくなったって噂を聞いたとき、俺は思ったんだ。“あぁやっぱ悪いことはしちゃいけない”と。“悪いこと”っていうのは、自分さえよければ他人を傷つけても、他人がどうなろうが一向に構わない生き方をすること」

「あ。あのとき岸川さんが言ってた・・」


「あのとき」とは、壮介さんが亡くなったという知らせを受けた後のことだ。

あのとき岸川さんは「“自分さえよければ他人を傷つけても構わない”ような生き方をしていたら、その行いはいつか必ず自分に返ってくるっていう理≪ことわり≫みたいなものがこの世にはあると信じてる」って、言ってたよね・・・。


「そう。俺はあの一件で十分分かったから、“誰かに悪いことをすれば、自分が痛い目見るときがいつか必ず来る。それも何倍、時に何十倍にもなって”と信じるようになったんだ。だから騙されたことは、マジでもう何とも思っちゃいないよ。大体7年も経ってるしな。それに、あの一件がなければ俺は東京進出も考えなかったし。独立はいつかしようと思って、結局延ばし延ばしにしてたのが早まったってぇか・・・。ま、それがなければ先輩――って、葬られた先輩じゃないぞ――から学校の仕事の話は来なかっただろうし。真緒さんに会うことも、湖都に再会することもなかっただろう。と思ったら、やっぱこれで良かったんだよ」

「そうですか・・・あれ?岸川さん、この模型。ほら、ここ。壊れてない?」

「あっ?ああ。実は・・・昨日な、片づけてるときちょっと・・・翔くんが落としてさ」

「えっ!?翔が!?」

「そのことも湖都に話しておきたかったんだ。電話じゃなく、直接会って」

「あ・・・」


・・・嫌な予感がする。

私はオドオドと、岸川さんを仰ぎ見た。


「あ、あの・・ごめんなさい!岸川さんが大切にしているものを息子が壊してしまって」

「いやいや!それはいいんだ。翔くんもちゃんと謝ってくれたし。ほら湖都。顔上げて。俺を見て」


低く、優しい岸川さんの声音に引き寄せられるように、私は再び岸川さんを仰ぎ見た。


・・・良かった。少なくとも岸川さんは、怒ってないようだ。柔和な彼の表情でそれは分かる。

でも・・・私の内≪なか≫に、まだ不安な気持ちが残ってる。

たとえば、岸川さんはこの一件に懲りて、もう私と翔のプライベートにまでつき合いたくないと思ってるんじゃないか、とか・・・あっ!


「模型!」

「え」

「弁償します!」

「いやぁ、そこまでしなくてもいいって。ホントに」

「・・・ぁ」

「そもそもこの模型は、余った材料を使ってテキトーに作った、いわば俺の趣味的な物だから、別になくてもいいものなんだ。第一あれは“本物の家”じゃないしな」

「でも、岸川さんにとっては大事な物でしょう?」

「まぁ“大事”と言えば大事な物だが、夢の家はもう、俺のココにインプットされてるし」と言った岸川さんは、自分の左胸――心(臓)があるところ――を、トントンと軽く手で叩いた。


「さっきも言ったように、この模型は別になくてもいいものだから。俺は、湖都と翔より大切にしたいと思う人はいない、ってこりゃ“物”じゃねえなっ」


何気にロマンチックなことを言って照れているのだろう。

岸川さんが照れをごまかすとき、急に早口になることを、私は知っている。

そして好きな人にロマンチックなセリフを言われた私も、何気に照れてしまった。

途端に私の顔がぼおっと熱くなったので、慌てて両手を頬にあてて“熱”を冷ました。


「えーっとだな。俺が言いたかったのは・・翔くんはわざと、模型を壊したんだ」

「・・・えっ?わざとって・・」

「これを持ち上げて、床に向かってドサッと落とした。ま、当然壊れるわな」

「まぁ。そんな・・・」

「翔くんは他人の物をわざと壊すようなことをする子じゃない。それは俺もよく分かってる。みのり園でもそういう“報告”を受けたことはないしな」

「だったら、どうしてそんな」

「持って行き場のない怒りとかフラストレーションを、模型の家を壊すことで発散させたかったんじゃないかな」


岸川さんの言葉にハッとした私は、次の瞬間にはしょぼくれた小犬のように、顔をうなだれた。

私の体がショックで小刻みに震えているのを感じる。


「・・・翔は、私には何も言わないんです。壮介さんのことも、どうしたのか、なんでいなくなったのか、とか聞かないし、自分から話そうともしない。パパが突然いなくなってしまって、きっと悲しいはずなのに。パパに会いたいはずなのに。パパのことが恋しいはずなのに、泣きもしない。壮介さんのお墓参りをしたときも、涙一つ見せなかった。きっと、壮介さんが亡くなったってことがまだ実感なくて、父親の死を受け入れてなかったからだとそのときは思ったんだけど」


私が「みのり園は楽しい?」と聞いても、翔は「うん。たのしいよ」としか言わない。

心配そうな顔で見る私に、翔は「ママ、ぼくは大丈夫だよ」と言うだけ。

笑顔のときもあるけど、ちょっと陰りがあるような・・無理して作った笑顔って感じがするし。

翔は、壮介さんのことを一切口にしないことで、壮介さんという存在を「なかった」ようにしているような・・気がする。


母に対してもそういう風にふるまっていると、母からは聞いていた。

岸川さんに対しても。

彼の物を壊したとか――それもわざとだなんて――そんなことを聞いたのは、今回が初めてだ。


「そうだな。翔くんが模型をわざと壊したとき、俺は怒った。って言っても、怒鳴ったり叩いたりはしてないよ」

「それは分かってます」

「俺が翔くんに怒ったのは、他人の物を――自分の物でも当てはまることだが――わざと壊したからだ。それはいけない。そして翔くん自身もそれはいけないことだと知ってるのに、そうしたからだ」

「そうですね。私がそこにいたら、私も同じ理由で翔を叱ってるはずです」と言いきった私に、岸川さんは笑顔でコクンと頷いた。


「そしたら翔くんは泣きだした。ワンワン泣きじゃくりながら、“パパは怒らないもん!”って言われちまった」

「そんな・・・」


『でも俺は怒るよ。もし翔くんがそれをするのはいけないことだと知っててやったなら、なおさら怒る。だって俺は、翔くんのことが好きだから。自分が大切にしている人には、“いけないことはやってはいけない”“悪いことは悪い”って、ちゃんと言いたいんだ』

『パパも、ぼくのことが、すきだって、いったよ?ぼくも、パパがすきだった。だけど、パパ、いなくなっちゃった。うぅぅ・・・』

『そうだなぁ・・・。翔くんのパパは、いなくなろうと思っていなくなったんじゃないと思う』

『パパにあいたいよぅ。ううっ』

『できることなら翔くんの願いを叶えてあげたいけど。今は・・すぐには会えなくなってしまったんだよな』


それから翔は岸川さんの胸に飛び込んで、彼に抱きしめられながら、安心して泣けるだけ泣いたそうだ。


『・・・ぼく、パパにあって、いいたかった』

『なにを』

『さいごにあったとき、パパは・・やさしくなかったんだ。ママをなかせた。ぼくも、いっぱいないた。こわかった。いつものパパじゃなかった。だから、なんであのとき、やさしくなかったのって、パパにいいたかった』

『そっか・・・。今は・・パパから答えを聞くことはできなくなったけどさ、人っていうのは、自分が好きな人を傷つけてしまうときがあるんだ。たとえば翔くんがあのとき、怖いと思ってしまったようなこととかな』

『なんで?すきなのに?』

『そうだなぁ。人は不器用な生きものだからかなぁ』

『ぶきようってなに?』

『自分は“こうしたい”と思っているのに、“こうしたい”と思っているようにはできないことかな』

『ふぅん。・・・おじちゃん』

『なんだ?』

『ごめんなさい。おじちゃんのもの、こわして』

『いいよ。それより翔が怪我しなくて良かった』

『・・ぼ、ぼくね、パパがいなくなって、さびしいよ』

『分かるよ。翔はパパのことが好きだったんだろ?いなくなったり、会えなくなって寂しくなるのは当然だ』

『また、パパといっしょにいたい。でも・・やさしいパパと、いっしょにいたいんだ。さいごのこわいパパはいやだ。ってぼくがおもったから、パパは・・・しんじゃったのかな』

『それは違う。絶対に違うぞ』

『・・・ほんとぅに?』

『ああ。本当だ』

『・・・ぼく、パパにあいたい』

『そうだよな。会いたいよな』

『パパにあいたい。あいたいよぅ』


泣きじゃくる翔を抱きしめて、翔の頭を優しくなでながら、岸川さんはこう言った。


『パパに会いたいと思っていい。会えなくて寂しいと思っていいし、俺や、翔のママやばぁばにそう言ってもいい。パパのことを話してもいいんだよ。翔の願いを叶えることはできないけど、俺たちは翔を抱きしめてあげることができる。聞くことができる。翔と一緒に、悲しいとか寂しいと思うことができる』

『・・いいのかな。パパは・・エンエンなくのはいけないって、オトコだからって、いったよ?』

『でも悲しいんだろ?』

『ぅん』

『だったら泣いていい。“悲しい”っていう翔の気持ちが、そのまま表れてるってことだから』

『・・・おじちゃんもないたこと、ある?』

『もちろんあるよ。俺の母親が亡くなったとき』

『おじちゃんのママ、しんじゃったの!?』

『大分・・10年以上前にな。そのとき俺は翔よりもうんと年上だったけどさ、これでもかってくらい泣いたよ』

『ほんとう?』

『本当だよ。悲しいから涙が出てくるんだ。母さんのこと好きだったから涙が止まらなかった。もちろん今も好きだけどさ、今は、“悲しい”よりも“好きだった”って気持ちの方がたくさんあるから涙は出てこない。翔もそのうち分かるよ。時間が経てば、そのうち分かる』

『そのときも、おじちゃんは、ぼくといっしょにいてくれる?』

『・・・ああ。俺は一緒にいれるだけ、できるだけ長く、翔と、それから翔のママと一緒にいたいと思ってるよ。俺は翔のことが好きだから』

『・・ママのことも?』

『うん。ママのことも好きだ。二人とも大切にしたいと思ってるよ。だから、楽しいときだけじゃなくて、悲しいときも、キミたち二人と一緒にいたい・・・』


「・・・翔は、今まで泣かなかったっていうか、泣けなかった分まで・・いや、翔はもっと早く泣きたかったと思う。泣くことで、父親が亡くなって悲しいとか、寂しいっていう感情を、早く解き放ちたかったんだと思うよ」

「私・・・東京と長野を行ったり来たりしていたから、翔はきっと、私に余計な心配をかけないようにって・・・壮介さんがいなくなっても、以前と同じように、気丈にふるまって過ごしていたのね」

「こんなこと言っちゃいけないのかもしれねぇけどさ、俺、嬉しかったんだ。翔がずっと溜めてた感情を、俺に爆発させてくれたことが。言い換えればそれって、俺に心を開いてくれたってことだし、俺のことを信頼してくれたって証だと思うんだ、って、翔が湖都や真緒さんのことを信頼してないって意味じゃないぞっ」

「分かってます。翔はまだ4歳になったばかりなのに、私は小さな息子を頼ってばかりの情けない母親だし」

「そんなことないよ。ただ、湖都にも頼る存在が必要だな。たとえば俺とか」

「ほかには?」

「俺だな」

「な、なにそれっ」


思わず笑ってしまったことで、重く沈んでいた私の気持ちが、なんだかスッキリした。

これも、岸川さんのおかげだ。


「岸川さん」

「ん?」

「私・・・あのときね、10年前のあの夜。私・・・好きって、言いたかった・・の」


・・・言った。思い出してしまったことを、言ってしまった・・・!


何を今さら照れているのよ、私は!

ていうか、こんなに照れちゃうなら言わなきゃ良かったのに!

・・・でも、と私はすぐに思った。


でも。10年前に言い忘れたことを、今思い出しても。

それが大切なことなら、今言ってもいいよね?


「岸川さんの抱いている夢とか生き方、全部いいなぁ、好きだなぁって、言いたかったの」


岸川さんが私の前に一歩踏み出したおかげで、私たちの間の距離が縮まった。


「それで今は?」


そう問いかける岸川さんの顔が、クラクラするほどカッコ良くて。

彼の全てが愛おしいと思った私は、今度は自分から彼の方へ一歩、近づいた。


そして私は両手を伸ばし、岸川さんの首につかまって・・・。

つま先立ちになることで、彼にもっと近づいて・・・。


世界で一番大切な男性ひとの唇に、自分の唇をそっと触れ合わせてキスをした。


「・・・愛してる」


・・・まさかこの、奥手な私が、自分から男性にキスをするなんて!

しかも「愛してる」って、自分の素直で本当の気持ちを男性に呟いたのは、翔以外、初めてのことだ。って、翔は私の息子で、しかも4歳なんだから。恋愛の対象には最初っからなってないし・・・。


・・・でも私は、岸川さんにキスをしたかった。

自分が心から思っている気持ちを、正直に伝えたかった。


でも、恋愛に奥手な私は、誰も見ていないとはいえ、自分のしたことが、ふしだら、とまでは思わなかったものの、とっても、ものすごく、恥ずかしかったので、岸川さんからすぐに両手を離した。

そして、岸川さんとの間に、もう少し距離を置いて、っていうか、今すぐこの場を離れたい衝動に駆られたのだけれど・・・。


岸川さんが、大きな手で、私の両サイドのウエストを左右それぞれガシッと掴んだ。


「・・・ありがとな」

「・・へ?」


なんて私が呟いているうちに、岸川さんが私に顔を近づけて・・・キスをしてくれた。

私からした“唇同士の触れ合い的”キスよりも、もっと本格的で、ずっと本能的で、「これがキスなんだ」って言えるような、そんなキスだった。


・・・不思議。

キスをしているだけで、離れたくないという気持ちが芽生えて、自然に岸川さんの方へ体が寄り添っていくんだから・・・。

岸川さんがキスを止めたとき、私はつい、不満の声を漏らしてしまった。


「・・・俺も愛してるよ」と岸川さんに言われたそのときの私は、目に涙を浮かべながら、コクンと頷くのが精一杯の応えだった。


辛さや悲しみだけが、涙が出てくる理由じゃない。

喜びや、嬉しくて泣くときもある。


岸川さんは私に、それを思い出させてくれた。

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