夜明けのスノードーム
朔
第1話
星空すら映さない真っ黒な夜。引き伸ばしたような灰色の月明かりに、ふかふかの地面、そして、水中の無音の声。振り返ると立派な丸太の家がある。人の気配はしない。
どうやら青年は庭のベンチに座っているらしく、隣には石像のようなサンタクロースが腰かけていた。目深に被られた赤い帽子には雪が降り積もっており、長い間動いていないことが見受けられる。
家と庭を囲むフェンスは開け放たれていたが、その周りを透明なガラスが覆っている。水族館の閉館後、水槽に入れられたような感覚。こちらから外は、歪んで見えない。見上げても水面が存在しないそこは、水族館よりも寂しかった。
青年は人形に話しかける覚悟で、サンタクロースに訊ねる。
「おじいさん、ここはどこですか」
発したはずの声は顔の周りに虚しくこもる。待っていてもなかなか返事はなく、青年がやはり、と諦めかけたところ、船のような声がした。
「わしの庭じゃよ」
微かに動いた唇は、重労働をするみたいに重々しい。
「今日は、クリスマスイブですよね。プレゼントは配りに行かなくてもいいのですか?」
「今、配っているところじゃよ」
そこで老人は黙ってしまった。トナカイもエルフもいないサンタクロース。ここは、そういう惑星なのだろうか。青年はあたりをもう一度見回し、響くわざとらしい静寂に、悪寒が走った。
――老人はここに、ずっと一人でいたのか。
誰にも認識されないという、悪夢。青年の頭にそんな言葉が浮かんだ。
鳥肌が立ち、反射的に手首の傷を掴む。誤魔化すために話題を振る。
「どうしてここからは、星が見えないのでしょう。こんなに暗いのに」
西の空からぼんやりとした明かりが射しているが、月自体は見えない。それ以外に、この世界に光はないようだった。
「ずっと夜が続いているんじゃ」
「……だから星が見えないのですか?」
老人は眉をひそめた。
「お主は、星が見たいのか?」
青年は戸惑い、言葉に迷った。
「どうなんでしょう。星は好きです」
老人は丁寧に話を進める。
「ここには、わししかいない。だから物語を語る星は、必要ないんじゃ」
「……そういうものですか」
時間の流れなど気にも留めていない様子で、大きく頷く老人。時間がとてもゆっくりと進んでいるのがわかる。
「ここは、恐ろしいけど、懐かしい感じがします」
「夜明けはすごく綺麗なんじゃ。だから、恐ろしくはない」
「夜明けは、いつ来るんですか?」
ここでまた老人は黙ってしまった。帽子をかぶって俯いているため、顔が見えない。眠ってしまったのかと思ったが、ふと、息をしているのか不安になり、確認しようとして、やはりやめておくことにした。
地面を踏みつけると、白い粉雪が舞う。月明かりに照らされ、冬の埃のようにちらちらと輝く。
この場所は、冬の匂いがする。古臭く、置いていかれた匂い。独特な香りは漂い、それが青年には少し不気味で、けれど同じくらいに安心だった。
「おじいさんは、ずっとここに一人で?」
「そうじゃな。でも、前は定期的に、朝と昼が訪れる時期が来ていてな。そのときはこんなに哀しくなかった」
その言い様は、諦めているようにも、待っているようにも取れた。
「夜明けは来るんでしょうか」
老人はまた答えない。
青年には、何となくその理由がわかってきた。しかしそれを確かめる前に、もう少しだけ彼と話がしたかった。
「おじいさん、学校に通うのは好きでしたか」
こんな夢の中みたいな場所で、何を聞いているのだと、言ってから青年は恥ずかしくなった。
「わしは、学校というものを知らん。じゃが、お主を見ていると、あまり行きたいとは思わんな」
「……僕、そんなにひどい顔をしていますか」
「ああ、しとる」
含んだ笑い方をする老人は、どこか包容力があった。
「もう行きたくないです」
あまりにするっと出た言葉。そういえば初めて人に話す。
唾を飲み、続ける。
「今は長期の休みなんですけど、それが終わったらまた通わないといけない。でも、もう行きたくないんです」
老人はゆっくりと腕を上げ、帽子を取り、ベンチに座り直す。青年は老人の顔を窺った。
想像よりも彫りの浅い、けれど貫禄を感じさせる顔立ち。目元にできたしわは堅い雰囲気を緩和させ、不思議と親しみやすい印象を放つ。
頭や肩に積もっていた雪ははらはらと落ち、その一連の動きを緑の瞳が追う。とても色素の薄い、灰色がかった瞳だった。
「そうか」
老人の変わらない表情は、予想外だった。
何か説教を言われると思っていた青年は、気が抜けてしまい、炭酸を開けたときのように吹き出した。
青年の笑い声は世界中に響き渡り、それは途中から嗚咽に変わった。こみ上げる熱いものは、いつもと違い、心の中を綺麗に焼き尽くしてくれる気がした。
青年が落ち着くまでの間、老人は何も言わなかった。
久々に出した大声が、青年には気持ちよく、少し憂さが晴れ、確信した。
「おじいさん、どうして僕を呼んだのですか?」
「何のことかな」
顔を見ずとも、老人がにやけているのが伝わる。
「おじいさん、ここは、いいところですね」
「そうじゃな」
「一瞬、すごく孤独で恐ろしく感じるけど、とても静かで優しい場所ですね」
「そうじゃな」
「……おじいさん、僕、最近少し、生きることに疲れてきました」
老人は答えない。だが、今度は話を断ち切る沈黙ではないことを、青年はわかっていた。
「だから、また来てもいいですか?」
老人は答えない。代わりに、力強く頷いた。
「ありがとうございます」
青年は嬉しそうに笑顔を作る。
「じゃが、そういう傷は好かん。もう作ってくるんじゃないぞ」
老人は青年の手首を指して言う。
今度は青年が、唇を噛み締め、慎重に頷いた。
水をかく音がした。青年が音の方を振り向くと、微笑みながら頭を撫でてくる老人が、いや、サンタクロースが見えた。その姿は立派で、考えずとも言葉が出た。
「ずっと、夜にしてごめんなさい。戻ったらすぐに朝を持ってきます。素敵なプレゼントをありがとう、サンタ」
言い終えると、青年は目を覚ました。
ベッドから起き上がった青年は、部屋の押し入れを手当たり次第に漁った。まだ太陽は昇っていなかったため、家族を起こさないように細心の注意を払いながら。
なかなか見つからず、一息ついた青年は、机の引き出しが微かに開いていることに気がついた。差し込む月光。今夜は満月だ。そっと引き出しを開ける。
あった。
数年ぶりに、手のひらに収まるスノードーム。青年は取り出して中を覗く。
大きな丸太の家に、そこそこの庭。家の前のベンチには、穏やかに笑う粘土のサンタクロースが座っている。
青年はそれを振り、雪を降らせた。窓際の机に置く。
星空を映す白銀の空間が、そこにはあった。四方に舞う雪は宙から落ちてきた星屑のようで、銀の月光がそれを際立たせる。雪に覆われていただけの夜の世界は、もうそこにはない。
やがて夜明けはやってきて、星屑の雪は柔らかく溶けていった。
その景色は、なるほど美しく、サンタクロースがしたり顔をしていた。
夜明けのスノードーム 朔 @Wasurenagusa_iro
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