さいわいなことり
lager
さいわいなことり
ここは、さいわいの国。
水は尽きず、緑は枯れず、風は柔らかで、陽は穏やか。
人々は怒らず、奢らず、妬まず、争わない。
守護鳥に守られたこの国で、人々はさいわいに生きる。
◆
さいわいな人たちには、時間がたっぷりありました。
飢えもなく、渇きもない人々は、余った時間を本を読むことに充てました。
恋愛ものから、ファンタジー、推理ものに、青春ドラマ。
さいわいの国の人々は、みんな読書好き。
「この王子様、とても素敵ね」
「ええ」
「私は、敵方の黒騎士のほうが好みよ」
「あら。あなた私と気が合うわ」
「おや。読者への挑戦状だ」
「ほう。本格的だね」
「私にも読ませてくれ。推理合戦といこうじゃないか」
「いいね。それでは君たちが読み終わるまで、誰か私に別の本を貸してくれたまえ」
「ねえ。かむら先生の新作、読んだ?」
「うん」
「私まだ。ネタばれ禁止!」
「ええ~」
「早く語り合いましょうよ」
「今日、帰ったら読むわ。明日お話しましょう」
「楽しみね」
人々にとって、読書はみんなで楽しむものなのです。
素敵なものは分かち合い、みんなで楽しもう。
そう。ここは、さいわいの国なのだから。
その日も、みんなが読書を楽しむ大広場で、何人かの女の子たちが新刊の恋愛小説を読んでいました。
みんなが読み終わると、口々に感想を言い合います。
どのシーンが一番キュンと来たかな。
私は最初の出会い。
私はやっぱり初めてのケンカのあとの仲直りかな。
そうそう。あの意地っ張りの男の子が、あんな台詞をね。
「ねえ、あなたはどのシーンが一番好き?」
不意に、一人の女の子が、みなの輪の外側にいた女の子に話しかけました。
「……え?」
黒髪を長く垂らしたその女の子は、びくりと肩を震わせました。
赤ぶちの大きな眼鏡の奥から、怯えたような目を覗かせています。
「あ、あの……」
「あなた、この前は茨先生のご本を読んでたわよね」
「え。えと……」
「まあ。では少し影のあるヒロインがお好きなの?」
「なら、この本なら主人公の親友が恩師に抱く淡い恋心なんて、好みなんじゃないかしら」
「あ、はい……でも」
「そうよね。私も彼女の密やかな思いには胸が締め付けられたわ」
「まあ、では、るりか先生の三作目なんていかが?」
「あ。私もそれは好きよ。読んだことあるかしら?」
「あ、あう……」
「あら、どうしたの?」
たちまち周りを囲まれてしまった女の子は、顔を俯けてぷるぷると震え。
「ご、ごめんなさい!」
掠れそうなほど細い声でそう叫ぶと、腕の中に本を抱えて、走り去っていきました。
残された女の子たちは、きょとんとした顔でそれを見送ります。
「どうしたのかしら?」
「お加減でも悪かったのかも」
「あら、悪いことしちゃったわね」
「後でお見舞いにいきましょう」
ここは、さいわいの国。
人々はみんな、なかよし。
◇
さいわいの国の外側には、大きな樹々の生える森が広がっています。
その中の一本の樹の上に、大きな大きな鳥の巣がありました。
それは、細かな木の枝を編んで出来た、とても立派な巣でした。
その巣の中で、一羽の守護鳥が、溜息を一つ零しました。
「可愛い坊やたち。今頃元気にやっているだろうか」
さいわいの国の人々の暮らしを守るのが、彼女たち守護鳥の役目。
今、彼女は次の世代の若鳥を空へと送り出し、その役目を終えようとしていました。
数日前まで騒がしかった巣の、なんと静かなことか。
やんちゃに育ち過ぎたせいで、少し狭いくらいだったというのに、今はこんなにもぽっかりと広い。
うららかな陽射しを遮る、優しい緑の天井。
隙間から漏れる光の粒。
薫る風が、樹々をすり抜けます。
それは、待ち望んでいたはずの静謐でした。
子育ての最中は、あれほど焦がれていた、一人きりの時間。
もう何も、彼女がなすべきことはないのです。
いつもと変わらぬ風が、何故か少しだけ冷たく感じられた守護鳥は、また一つ、小さな溜息を零したのでした。
◇
明るい森の中を、女の子はとぼとぼと歩いていました。
胸に本を抱えたまま、顔を俯かせて柔らかな落ち葉の上を歩いていきます。
「ああ。またやっちゃった」
深い溜息と共に零れた言葉が、森の空気の中に溶けていきました。
女の子は、本を読むのが好きでした。
心ときめく恋愛小説も、知略策謀渦巻くミステリ小説も、誰も知らない未知の世界へと誘うSF小説も、彼女は大好物なのです。
けれど彼女は、人と話すことが苦手でした。
人から話しかけられると、ついつい体が強張ってしまい、上手く言葉が出せません。
何か返事をしなきゃと口の中でもごもごと言葉を探していると、別の問いかけをされてしまうのです。
自分の意見を言いたくても、口が回らず、「はい」とか「うん」とか、単純な返事しかできません。
そうすると相手はさらに質問を重ねてくるので、ますます彼女は混乱してしまうのでした。
こうして誰もいない場所で落ち着いて考えを整理すれば、あの時はこう返せばよかったとか、こんなことを言いたかったのにとか、色々と考えは浮かんでくるのです。
けど、それを次の機会に話そうとすると、また口の中で曖昧な言葉に代わってしまい、彼女は再び俯いてしまいます。
彼女は、人と話すことが苦手でした。
そもそも、特に何かを話したいとも思わないのです。
彼女にとって、読書は自分一人で楽しむもの。
自分だけの世界。
自分だけの言葉の海。
そこに静かに沈殿していく時間が、彼女はなにより大好きなのでした。
けれど、ここは、さいわいの国。
人々はみんななかよし。
どこに行っても、人々は彼女と楽しみを分かち合おうとしてきます。
それが悪いことでないことはわかっているのです。
それが素晴らしいことであるのはわかっているのです。
けれども女の子は、その『さいわい』に、少しだけ疲れてしまっていたのでした。
◇
守護鳥は、なんとなく巣の手入れをしてみました。
ごみを捨て、ささくれた枝を折り、ふかふかの落ち葉を敷き詰めます。
それでも巣の中にぽっかりと空いた隙間は、埋まってくれませんでした。
守護鳥は空を見上げ、静かな風の音に耳を澄ませました。
心が薄くなっていくような、清らかな真白の時。
静かなことは、いいことです。
それでも少しだけ、温もりがほしいと、そう思ってしまいました。
◇
女の子はとぼとぼと森の道を歩きます。
「あぁ。どこかに、誰にも見つからず、一人だけでゆっくりと本を読める場所はないかしら」
◇
守護鳥はひっそりと溜息を零します。
「あぁ。誰か、何も言わずに私の傍へ、寄り添ってくれるものはいないだろうか」
◇
女の子は、ふと頭上の樹を見上げ。
守護鳥は、ふと眼下の路を見下ろしました。
「あ」
「あ」
そして……。
◆
空の青。
それが若葉の緑を透かして、光の粒をはらはらと零している。
風は優しく、栞のリボンを揺らす。
土の匂い。果実の匂い。水の匂い。若葉の匂いが、紙の上を撫ぜていく。
細かく編まれた木の枝の籠の中。
どこまでも沈み込む落ち葉のクッション。
大きな鳥の体は、巣のちょうど半分。
残りの半分には、黒髪の乙女。
ぱらり。
ぱらり。
ページを手繰る音だけが、時折生まれては、木の上から零れ落ちていく。
ここは、さいわいの国。
一人と一羽だけの、ちいさな国。
やがてページを手繰る音が止み。
女の子の顔が、大きな守護鳥のお腹へと埋まっていく。
すやすやと、ことりのように眠る女の子に、守護鳥はガラス玉のような瞳を細め、共に微睡みの世界へと溶けていった。
陽は優しく。
時は緩やか。
ここは、さいわいの国。
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