後編
「フランの奴、必要な資料はあらかじめ用意しておけよな。なまじ頭が良いせいか、そういうところが抜けているんだから」
私が初めて研究所の外に出た日の晩のことです。ヴィクターさんが何やらぼやきながら部屋に入ってきました。
ここは実験室から扉ひとつ隔てたところにあるオフィスです。研究を行うにあたり、書類仕事をする場所と言えば良いでしょうか。取り組んでいる研究の記録や関連した書籍を整理、保管し、必要に応じて参照することで研究者が頭をひねるのです。
私は自分の感情の正体が一体何なのか、はっきりと認識していませんでした。そこに迫るには、自分のことを正確に知る必要があると考えたのです。そこで、フランさんの研究資料を漁ろうとオフィスに忍び込んだのですが、これでは落ち着いて調べものもできません。
私は自分のことをキメラだと認識しています。それは、実験を受ける中で、フランさんとヴィクターさんの会話や仕草から言葉を学びとり理解したことでした。苦戦しましたが、今では文字もある程度理解できます。フランさんが研究で使う専門用語もいくつかわかるものがあります。
あたりに散らかしてしまっている、さっきまで見ていた研究資料のファイルをヴィクターさんの視界に入らないように、机の下にどけていきます。私の行動は、なるべく知られないほうが良いでしょう。今、見つかると色々と面倒なことになりそうです。
「くそ、どこにあるんだよ。見当たらないぞ」
ヴィクターさんは小さな紫色の身体を使って、這うように書棚を登っていきます。身体が普通のヒトではありませんから、かなり大変そうです。
はらりと、その紙切れが落ちてきました。ヴィクターさんが手で掴んでいたメモでしょうか、目の前に降ってきます。
メモには探しているファイルのタイトルらしい文字がはしり書きされていました。
『キメラ動物の作製とその発生における組織の分化に関する研究』
『キメラ動物を由来とする臓器の移植における免疫反応に関する研究』
幸か不幸か、そのタイトルは今まさに私が目を通していたものの中にありました。これでは、ヴィクターさんがいくら書棚を探しても出てこないでしょう。私が机の下から差し出さない限りは、無駄な労力を強いられることになります。
少し悩みましたが、ヴィクターさんに早く出ていってもらうためにもファイルを持っていくことにしました。ざっと目を通しましたが、私には細かいところはちんぷんかんぷんでしたし、私の感情の由来を探るには、的が外れている気がしています。そこには私の体内の臓器の解剖学的特徴とその生理的反応に関することを中心に記載されていましたが、脳及び神経活動については移植などの利用が困難と判断されているのか、ほとんど触れられていませんでした。
私は、体内のヒト由来の臓器を移植のため利用できないか研究するために作製されたキメラなのです。生きた移植用の臓器保管庫とも言えばよいのでしょうか。フランさんも、まさにその実験動物にしか過ぎないキメラが、恋をしているなど想像していないでしょう。
そんなことを考えながら、机の下にどけた山の中から目的のファイルを引っ張り出します。ヴィクターさんが登っていった書棚の下に、そっと置きました。
あとはヴィクターさんにファイルの存在を気づいてもらえれば良いので、少々手荒ですが、書棚を少し揺らしてみることにしました。
なるべく視界に入らないように低い位置から、書棚を小突いて振動を与えます。
「うわっ、なんだいったい」
失敗しました。少々、揺れが強かったようです。
ヴィクターさんがバランスを崩して上から降ってきます。小さく柔軟な身体ですから、怪我をする心配はないので、私はサッと身を引いて逃げることにしました。出来れば見つかりたくはないのです。
ヴィクターさんは案の定、私が置いたファイルの上に何事もなかったようにスタッと着地します。
私はというと机の下に隠れて身を伏せました。
ヴィクターさんがこちらを見ている気がしました。机の下に隠れるのは悪手でした。ヴィクターさんの小さな身体の視界からは、床の方が目立ちます。
沈黙が流れました。ヴィクターさんが紙をめくる音がします。私が置いた足元のファイルを確認しているのでしょう。
「まあいいか」
ヴィクターさんはそうつぶやくと、部屋から出ていきました。
見逃されたのでしょうか。ヴィクターさんはフランさんのことが大好きなヒトですから、私のことは、そこまで興味がないのかもしれません。
それから、しばらく研究資料に目を通しましたが、特に得られるものはありませんでした。また頃合いを見計らって、研究所から抜き出そうと決めました。やはり、彼と向き合うの中で自分の感情を学んでいくべきなのでしょう。
それから度々研究所を抜け出し、彼に会うために山を歩きました。ケモノ道に入ることはまだ躊躇してしまい、彼の山小屋との間を往復するばかりですが、それでもいくつか分かったことがあります。
それは、彼の行動パターンです。今まで彼の姿を山小屋で確認できたのは昼過ぎから夕方にかけての時間帯でした。
彼は早朝から山に入り獲物を追い、昼すぎに山小屋に戻り身体を休めて、夕方にかけて獲物の解体などの下処理をしているようです。日が落ちてから山を歩くことを危険だと承知しているのでしょう。
見かけるだけで、声をかけるのは勇気がいりました。彼の言葉がフランさんに伝わるかもしれませんし、何より彼が私のことをどう思っているのか知ることが怖かったのです。つい先日までは、彼のことを知りたいと、この感情のままに行動しようと息巻いていたのに情けないことです。
しかしながら、彼の姿を見るだけで心臓が早鐘を打ちました。それだけで、満たされた気持ちになります。特別な感情を抱いているのはもう疑いがないことでしょう。
そして、今日も私は研究所を抜け出す算段をつけます。
フランさんの実験スケジュールもチェックしているので、私が実験動物として必要とされる予定がしばらくないことは確認済みでした。つまり、後は見つからないようにすれば良いだけです。今日は彼に会えたらといいなと思い、昼になる少し前に出ることにしました。
研究所の玄関に降り立ちます。そのときでした。
「キャリー。あなた、いったいどこに行くのかしら」
振り返るとフランさんがいました。肩にヴィクターさんを乗せています。これは大変まずい状況です。
「ヴィクターの言ったとおりね。少し前から様子がおかしくて、あなたが最近どこかへ出かけているって聞いたときは、何の冗談かと思ったけど」
私のここ数日の行動が、筒抜けになっていました。知らないうちにヴィクターさんに見られていたようです。ついこの間のオフィスでのやり取りで不審に思われていたのかもしれません。
「さて、どうしようかしら」
フランさんが口の両端を吊り上げます。これは、悪いことを考えているときの顔でした。この研究所に私の味方などいません。私はヒトではなく、実験動物のキメラなのですから仕方のないことです。
だから、私は決断をしました。このままでは命の保証もありません。
この研究所から逃げ出すのです。幸いにも、フランさんも、ヴィクターさんもそんなに素早いヒトではありません。
体当たりで扉を開け放ち、その勢いのまま駆け出します。
「ちょっと、待ちなさい」
フランさんが静止しますが、当然聞く耳を持ちません。山道を力一杯走ります。しかし、この一本道を進んでも、私はそこまで体力がある訳ではないですから、いずれ捕まる可能性がありました。
危険ですが、ケモノ道に入ることにしました。どこか、目立たないところで身を隠すのです。それで、どこまで生き延びれるかはわかりませんが、研究所に戻るよりマシだと思えました。
ヒトの手が入っていない木々の間を抜けていきます。ケモノが通る道ですから、視界もあまり良くはありません。かろうじて駆け抜けることが出来るといった具合です。
ふと、地面に違和感がある気がしました。それは注意深く落ち着いていれば気づく小さな違いです。ですが、私は焦っていたこともあり、それを無視したのです。
その場所を踏んだとき、足が急に引っ張られ、身体が地面に引き倒されました。足には、金属のワイヤーががっちりと絡まっていました。その先は近くの丈夫そうな木にくくりつけられています。
おそらくイノシシ用のくくり罠でしょう。ケモノ道に仕掛けられたそれにかかってしまったようです。
何とか脱出しようと足を引っ張りますが、外れません。力任せに駆け出そうとしても、反動に引っ張られて地面に倒されるばかりです。
これでは、どうしようもありません。途方に暮れてしまいます。
さて、これからの自分の運命について考えます。この山に罠を仕掛けているのはおそらく猟師である彼でしょう。彼が私を発見したときにどんな扱いをするでしょうか。私のことを覚えているのなら、順当に考えればフランさんのところに連れていかれてしまうでしょう。それは避けなければなりません。では、今の状況をありのままに訴えるべきでしょうか。研究所に戻れば、私の命が危ないのだと。それを踏まえて、彼はどう行動するでしょうか。
私は彼の猟師としての生活を見てきました。彼が実際にヒトとどんなコミュニケーションを取るか見ていませんが、彼は獲物と真剣に向き合う誠実さがあるヒトです。その誠実さを信じてみるしかないと思いました。彼に良心があるのなら、私の苦境を放ってはおかないと思うのです。
そうこう考えているうちに、人影が現れました。遠目でもわかる大きな姿は彼のものです。近づいてくるその影を見て、私は叫びました。
助けてほしい。
私の叫びが耳に届いたのかはわかりません。彼が私の正面に立ち、腕を振り上げました。
地面に近い私の位置からは彼の表情までは確認することは出来ません。その動作が何を意図したものか、とっさに判断が付きませんでした。
彼の手には太い木の棒のようなものが握られていたのです。そして、私の意識は唐突に途切れました。
次に目を覚ました時、私は見知った場所にいました。幸いなことにフランさんの研究所ではありません。全体的に茶色い木材で作られたこの部屋は、彼の山小屋です。その床に、私は横たわっていました。
あたりはもう暗くなっていました。天井から吊るされたランプの灯りが部屋を照らしています。
彼はすぐ近くにいました。私に背中を向けて、何やら作業しているようです。金属の擦れる音が聞こえますから、猟銃の手入れをしているのかもしれません。
私は自分の身に何が起こったのか整理してみることにしました。
後頭部から頭痛がします。頭を殴られたのでしょう。しかし、なぜ彼がそんなことをしたのでしょうか。叫んでいる私が暴れて混乱しているように見えたのでしょうか。私の言葉が通じなかったのでしょうか。確かに私は冷静さを欠いていたのかもしれません。しかしそれなら、理性的に呼びかけてもらえれば良いのです。誠実な彼がする行動とは思えません。しかし、現実に私は頭を殴られ気を失い、この山小屋にいます。なぜ彼はここに連れてきたのでしょうか。私をフランさんの所要物として認識して保護したとするのならば、フランさんの研究室に連れていくでしょう。もしかして、私を自分のものにしようとしたのでしょうか。やり方は強引ですが、研究所を逃げ出したい私と利害が一致します。しかしどうして、そう思ったのでしょう。彼は私のことを、一目見て、一度触れただけだというのに。私と同じく、その一瞬で恋に落ちたのでしょうか。いいえ、それはあまりにも都合の良い考えです。暴力的な手段に出たことも、私の言葉が届いていないこととも合わせると理屈に合いません。けれど、理屈に合わないことが起こるのが恋なのではないかとも思います。私は以前では考えられないほど大胆な行動を取っています。彼も同様ではないと、どうして言い切れるのでしょうか。
ああ、疑問が次々と沸いてきます。彼が私をどう認識しているかわかりません。
私は彼のことをある程度知っているというのに、ヒトの気持ちがわからないというのはこんなにももどかしく、ままならないものなのでしょうか。
私は正直、混乱しています。胸がドキドキして、頭が沸騰しそうでした。もう、この思いをぶつけるしかありません。相手がいることです。相手に問わないでどうすると言うのでしょうか。
私が声をかけようとした時、彼が振り向きました。
それを見たとき、あまりの衝撃に、口から出かかった言葉が止まり、思わず息を飲みました。先ほどまで熱くなっていた頭が冷水をかぶせられたように冷え、理性とは別に本能が警鐘を鳴らします。
背筋がゾクッとして、全身の肌が粟立ちました。それは、彼に見られたときにいつも感じていた感覚です。
彼の手には大振りのナイフが握られていました。見下ろすその瞳と表情が、はっきりと見えます。真剣で誠実なところは変わりません。瞳には全く動揺した様子もないことから、理性が確かに存在することが伺えます。
この表情に見覚えがありました。彼が山小屋でイノシシを解体するときの顔です。
もしかしたら、私は、初めから彼にただの獲物として見られていたのでしょうか。
では、この全身を貫く圧倒的な感覚はもしかしたら、恋ではなく、獲物として捕食者に支配され、生命の危機に本能が警告を鳴らしていただけなのでしょうか。
私は愚かにもそれを恋だと勘違いしていたのです。この、彼を思ってきた気持ちがただの勘違いだとは思いたくありませんでした。けれども、この状況と私の身体の様子を考えると疑いようがありません。
私は彼の視線に竦められて、少しも身体を動かすことが出来ませんでした。それは、動物としての本能がそうさせたのか、理性が現実を認識をすることを拒絶しているのか、はっきりとしません。
ただ、私はこれから彼に生命を解体されるという事実だけがありました。
もう、このまま彼の手にかかる運命を受け入れるしかなないのでしょうか。これでは、研究所でフランさんに処分されるのと変わりがありません。
とうてい大人しく受け入れられるものではありませんでした。あまりにも惨めです。勘違いとしか言えなくでも、彼のことを思い気持ちが動き、今までしたことがない冒険をしたのです。
このまま、ただの動物のように死を迎えることは絶対に嫌でした。竦む身体と混乱する頭を理性で抑えつけ、足に力を入れます。
「もしもし、どなたかいらっしゃるかしら」
その時、山小屋の扉を誰かがノックしました。彼のナイフを持つ手が止まります。この時間に山小屋を訪れるヒトが普通な訳はありません。彼はナイフを後ろでに持ち、背中で隠すようにしてから、扉を少し開けました。
「夜分に申し訳ないわね。ちょっと聞きたいことがあるのだけど、いいかしら」
そこにはフランさんが立っていました。私を探しにきたのです。目立ちませんが、足元にヴィクターさんもいます。
「私の研究所から、実験動物が一匹逃げ出してね。心当たりはないかしら。あなたも一度見ていると思うのだけど……」
フランさんが手振りを交えて私の特徴を伝えています。フランさんにしては大げさな動作でした。彼の気を引いているのかもしれません。その証拠に足元にいたヴィクターさんが、扉の隙間から顔を注意深く部屋の中を覗いています。そして、床に横たわった私と目が合いました。
チャンスだと思いました。幸い彼の視線が外れて緊張が幾分マシになっています。
私は声を上げました。
助けてほしい。
何とか声が出ました。大きくはなくとも、それは確かに届いたのでしょう。彼が驚いたように振り向きます。
「あら。そんなところにいたのねキャリー」
私の姿を見て、フランさんがあの意地の悪い笑顔を浮かべました。
彼は少し戸惑っているようです。今まさに私を解体しようとしていたところですから、ばつが悪いのでしょう。
「保護してくれてたのね。感謝するわ。さあキャリー、こっちに来なさい」
こう言われては、彼も拒絶することは出来ません。彼は道を開けました。少し残念そうな顔をしています。
私の気分はかつてないほど沈んでいました。フランさんのところに戻ることになり、この先に待ち受けているものを思うと憂鬱です。それになにより、彼の態度が私のことをただの獲物としか見ていないことがはっきりと分かったのです。何も特別な感情は、彼の瞳には込められていませんでした。
とことことフランさんのもとに歩み寄ります。もう、抵抗する気力は完全に失っていました。
これを失恋と言うのでしょうか。いいえ、恋すら始まっていなかったのです。私は、本能が鳴らす生命の危機の警告を恋と勘違いしていただけなのですから。
フランさんに連れられるまま、研究所に戻りました。
これから、実験室の解剖台にでも行くのでしょうか。結局、私の運命は何をしようと、変わらないのかもしれません。ただ、無為な死が待っていることでしょう。
そんな悲観的な想像で頭を満たしているうちに、研究所のオフィスに連れてこられました。フランさんは、背もたれつきの椅子に座りくるりと回すと私に向き合います。私は、床に座り込み、そんなフランさんを見上げました。
フランさんの検分するような無遠慮な視線が身体に注がれます。そしてどこか楽しそうな表情で口を開きました。
「キャリー。あなた、私の言葉を完全に理解しているのよね」
私はそうだと答えてうなずきました。今さら隠すことではありません。私の行動を見ているフランさんやヴィクターさんにはもう承知のことでしょう。
「ヴィクター、あれを出してちょうだい」
フランさんが促し、ヴィクターさんが机の上からひと巻きの大きな紙を床に広げます。そこには、言葉が書かれていました。言語を構成する基本的な単位がひとつずつ書かれています。これを何に使うのか、私にはわかりませんでした。
「残念だけど、私たち“ヒト”はあなたの言葉がわからないの。ただの鳴き声にしか聞こえない。だって、あなたの正体を私たちの言葉で分類すると……」
何ということでしょうか。私の言葉はヒトには通じないのです。彼が私の言葉に耳を貸さなかった理由がわかりました。確かに私は言語がどういうものか、耳で聞き、文字で知ることは出来ましたが、それを発する訓練はしていませんでした。
混乱する私の頭には、フランさんが続いて発した言葉の意味をすぐに咀嚼できませんでした。私の正体のことです。
「あなたは生物学的に言うと“ブタ”なのよ」
ブタとはキメラである私のベースとなった動物です。その知識はありました。フランさんが何を言いいたいのか、イマイチわかりません。
「理解できるかしら。たぶん普通のヒトは、あなたを食用に用いられるのと変わらない、ただの“ブタ”だと認識しているわ。確かにあなたの臓器は、ヒトをはじめとして様々な生物を由来としている。そういう風に私が創ったから。でもそれは中身だけで、外見はただのブタなの」
ブタがどんな動物が理解しても、それがヒトの間でどういう意味を持った存在かどうかまで理解していませんでした。食用とはつまり、食べられるもの、被捕食者ということです。彼が私のことを、ただの獲物としか認識していなかった理由もこれでわかります。私はフランさん以外のふつうのヒトにも、ただの食用の動物としか認識されないのです。
「ブタの発生過程の胚にヒトをはじめとする様々な生物の臓器に分化する幹細胞を導入して成長させたキメラ動物。それがあなたの正体ね」
最初から、私とヒトがまともにコミュニケーションをとれるはずがなかったのです。なんと滑稽なことでしょう。フランさんとは研究者と実験動物、それ以外のヒトとは捕食者と被捕食者という関係。こんなにも深い関係の断絶があるというのに、私はヒトを伴侶として求めてしまった。
「ここまでは理解できたかしら。まあ全部理解できなくても良いけど、せっかく私たちの言葉がわかるのだもの。あなたのことも教えてちょうだい。何であなたは、研究所の外に出ようとしたのかしら」
私は今まであったこと、思ったことを素直に吐き出しました。紙に書かれた言葉のひとつひとつを指し示してですので、時間がかかりましたが、フランさんは止めませんでした。フランさんはむしろ楽し気に、うなずきながら私の言葉を読み取っていったのです。
初めて言葉によるコミュニケーションが通じていました。これが、本来ヒト同士が行うものなのでしょう。ただのブタとヒトとでは決して成り立たない、キメラの私と研究者であるフランさんだからこそ通じた、異なる生物種同士の対等なコミュニケーションでした。
言葉のやり取りは朝までかかりました。フランさんは少し疲れた様子を見せつつも満足そうでした。私も気持ちを吐き出して、少し落ち着きを取り戻します。
「あなたの知能は相当ね。ヒトと遜色ないわ。理性的な思考に感情の発達。キメラ動物はまれに本来持ち得ない、あるいは過去に進化の過程で失った臓器を創り出すと言われているけど、何があってあなたはそんな知性を手に入れたのかしらね」
この知性がいつ頃目覚めたのか、私には明確にわかりません。研究者であるフランさんにとっても予想外のことだったのでしょう。
「さて、そんな知性を持ったあなたに提案があるの」
フランさんが口の両端を吊り上げました。悪いことを考えているときの顔です。
「動物実験が許容される理由のひとつに、実験に使われる動物にはヒトのような知性が無いという前提があるわ。その前提は、もうあなたに適用されない。ヒト並に知性を持ったあなたを、今まで通りただの実験動物として扱うのは、ほんの少し倫理的に抵抗があるわ」
ほんの少しというところにフランさんらしさを感じました。この人は必要とあればヒトさえ実験に使うのでしょう。こんな辺鄙な山奥に研究所を建てている変わり者です。
「あなたの知性が確認されたお祝いに、あなたの望みを何でも一つ聞いてあげるわ」
私は考えます。最初抱いた願いのとおり、伴侶となるヒトを創ってもらうのが良いでしょうか。フランさんは有能な研究者です。出来ないことなど無いのでしょう。
この身体ではヒトとのコミュニケーションに難があることは十分に思い知りました。ついさっきのように文字によるコミュニケーションを取れるとしても、もどかしさは取り除けません。
ヒトとブタにしか見えないキメラという、異なる生物種同士にある断絶というものを深く感じていました。もし、またこの研究所に訪れる彼に出会ったとき、今のままでは、あの獲物を見る目で見られるのでしょう。そして、また私の本能は警鐘を鳴らし、生命の危機に落ち着かない気持ちになる。とても対等な関係など築けません。彼に抱いた思いが、このまま何も意味を成すことなく終わることも嫌でした。
ヒトとキメラという、異なる生物だからこそ断絶が生まれるなら、その差をなくしてしまえば良い。
そう考えたとき、私の願いはひとつになりました。
『私にヒトの身体を与えて欲しい』
それが、私の願い。ヒトと同じような知性を得たキメラが、ヒトと対等となる関係を結ぶために本当に求めるもの。
それから、一か月のときが流れ、私はヒトになりました。
フランさんと同様の長い黒髪を頭の後ろでくくっています。顔も含めて身体はまだ整形中の箇所が多いので、包帯がぐるぐる巻きのままなのは、ブタの身体の時と同じでした。
身長はフランさんより高くしてもらいました。フランさんは私の実験の被験者としてだけでなく、助手としも扱うと決めたようで、身体はフランさんより便利なように大きく、手足も長く創られました。
夕方ごろ、猟師の彼が研究所に訪れました。
その手には解体されたイノシシの肉が握られています。
私はそれを受け取りました。まだ、言葉は練習中なので、小さく会釈をして感謝を示します。
彼がヒトの姿の私を見るのは、初めてでしょう。少し驚き、そして照れたように頬をかき目をそらします。以前のように獲物に向けるような視線になりません。
彼はヒト同士のコミュニケーションが苦手なようです。穏やかな沈黙が流れました。
それは、かつてのようなドキドキはありませでしたが、どこか、心地のよいものです。
ヒトとヒトとの対等な関係の再構築。
ここから、私の恋は始まるのです。
キメラだって恋したい~伴侶が欲しいキャリーちゃん~ 棚尾 @tanao_5
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