遺書

aninoi

遺書

これは遺書です。


とはいえ、「俺は今から自殺するんだ!」とか、そういう事ではないというのを、先に伝えておきます。


私は、死にたいわけではないので。


これは、「もし明日、事故やら通り魔やらによって突然死を迎える事になったら、俺はどんな想いを抱いて死ぬのか」とか、「とりあえず今から死ぬとしたら……」という想定で書かれています。


まず、なぜそのような想定を思い浮かべたのかを説明させて頂きましょう。


私は、自分がいつ死んでも、周囲に与える影響がほとんど無い人間なのではないかと思うのです。


そりゃ、葬式代とか墓代とかはかかるんでしょうが、ここで言う“影響”というものは金銭の問題ではありません。「俺が死んだら、アイツが悲しむな……」とかっていう、感情的な人間関係の事です。


まぁ、つまるところ、「俺が死んだ程度で悲しむ人間はいないだろう」という勝手な想像なんですが。

でも、私は結構マジにそう思っています。

私が死んで悲しむような人として思いつくのは、もう年に数回しか会えない4人の旧友くらいのものです。


「そんなに友人が少ないのか」と言われれば……、まぁ、NOと言えば嘘になりますね。確かに友人は多くはないです。


とはいえ、この4人以外にも友人はいるんです。

私は、その4人以外の友人の事も、本当に気の良い奴らで、今後ともよろしくしたいと思っています。そして彼らも、私の事を嫌っているわけではないのだと思います。

だが私は、どうしても彼らが私の死を悲しんでくれるとは思えないのです。


彼らは私の事をどう思っているのでしょうか。私は、それが心配でたまらない。

先程言った通り、嫌っているわけではないと思います。話題を振れば応えてくれるし、つまらない事で笑い合う仲です。


友人の少ない私にとって、彼らは正しくかけがえのない存在なのです。


しかし、彼らからして、私はどういう存在なのでしょうか。

私は、お世辞にも面白いとは言い難い人格です。冗談を言うのは下手だし、妙なこだわりがあるせいでむしろ嫌われる側の人間だと思います。というか結構嫌われてます。いや、もはや「好き」とか「嫌い」とか、そういう評価を与えられもしないような、本来なら無関心を貫かれるような人間なのだと思うのです。

私が彼らと多少なりとも親しくなれたのは、詳しくは割愛しますが本当に偶然の事だったのです。どちらかが「コイツ面白そうだ」と思って話しかけた訳でもなく、とある理由により共に生活せざるを得なくなっただけなのです。


そして、なにより重要なのは、私にとって彼らはかけがえのない存在ですが、彼らにとって私は代えのきく存在だという事です。

私は友人が少なく、彼らはとても貴重な存在です。しかし彼らはとても友人が多く、私が突然いなくなっても、私がいなくなった穴などすぐに埋めることができるのではないてしょうか。もしかしたら、私が死んだところで彼らの心に穴なんてあくことすらないかもしれません。


例えば、もし私と別の彼らの友人が命の危機に晒され、どちらかしか助けられないような状況になったら、彼らはきっと私を選んではくれないでしょう。


もちろんこれらは私の勝手な想像です。本当のところで彼らが私の事をどう思っているのか、私は知らないし、知ることができない。人の本心は、誰がどう足掻いても誰にも伝わらないものです。


とても悲しい事だと思います。

それと同時に、仕方のない事だとも思うのです。


だって、彼らは悪くない。

私が彼らにとって、より仲良くしたい存在ではないのがいけないのです。

私は基本的に思ったことは口に出すタイプの人間ですが、日頃特に何も考えずに生きているせいで言う事が全て面白くない。そりゃ、面白くない人間と仲良くなろうとは思わないでしょう。


しかも更に酷いのは、本当に何も考えずに生きているところです。日々を呆然と時の流れるまま過ごしているだけ。


これは、果たして“生きている”と言えるのか。


何か目的があるわけでもない。

何か楽しみにしている事があるわけでもない。

何か為さねばならぬ事があるわけでもない。


こんなの、動く屍だ。


どこかに希望を見るから、生きていると言えるんです。


何かに絶望を抱くから、死んでいないと言えるんです。


しかし、私にはそういうものがほとんど──いえ、全く無いのです。


死にたくはありません。

しかしこれは生存本能が働きかけてるだけで、「コレがあるからまだ死ぬわけにはいかない」っていう明確な理由が無いのです。


誰だってそうなのかも知れませんけれど。


いえ、誰だってそうなんじゃないですか?


「死にたくない」は、あります。それは本能に刻まれているからです。

でも、「生きたい」と願ったことのある人って結構少ないんじゃないでしょうか。


私は、「生きたい」と願った事はありません。


だって、「産まれたい」と願って産まれてきたのではないのですから。

もし私が「産まれたい」と願って産まれてきているなら、こんな人生ではないはずです。もっとアクティブに行動して、楽しいものにしているはずです。


誰だってそうであるはずなんです。「産まれたい」と願って産まれてくる生き物なんていません。


私にとって、私が「産まれてきた事」は、この世で最も忌まわしい事です。


なぜ私をこの世に落としたのか。

こんな出来損ないを、どうして。


これを当人らに言う事は一生無いと願いますが、私の両親は、私を産んだという大罪を犯していると思うのです。


私には兄がいますが、それは別に構わない。私にとって何の問題もない。


ただ、彼らは私を産んだ。それだけで、私は彼らを憎む権利があると思っています。


それは、私だけではありません。


「俺は産まれたいだなんて思ったことは一度たりともないんだ」「なぜこんな出来損ないを創り上げたのか」「俺を創っても誰も幸せにならない」


そう言って親を謗る権利は、誰にでもあります。私の親にすら、親を謗る権利があるのです。


逆に、なぜ他の人はそう思わないのでしょう。

世間には「家族は家族であるという理由だけで仲良くせねばならない」みたいな風潮があるからでしょうか。いつの間にかできたなんの根拠もない、そうしなければ酷い目に合うというわけでもない謎の理論を、どうして信じているのでしょうか。


家族なら、絶対に好意的でないといけないのでしょうか。


では、どうして虐待なんてものがあるのでしょうか。


大人達は子供に対して「産んでくれた親に常に感謝の気持ちを抱きなさい」と言います。


なぜ?

何に感謝するのですか?


私は産まれてきた事をこの世で最も不幸な事だと思っているというのに。


例え感謝するような人生を歩んだとして、その感謝に誠意を込めて答えてくれるわけでもないのに。

だって、感謝されるのは当たり前なんでしょう?

そうしなければおかしいんでしょう?

そんなものに何か返すヤツはいませんよね。当たり前の事に何かを返してくれるようなヤツは。


そもそも見当違いな理論を掲げて、さもそれがこの世の絶対であるかのように何も知らない幼いあの日に仕込んで、そしてその間違いを正すことなく自分で仕込んだ感謝の情に浸り込む。


さぞ、気持ちいいでしょうね。

常に誰かの上に立っていられるのは。


私は剣道をしているのですが、剣道をやめたいと親に伝えた時、父に言われました。


「続けろ」「やめるなら家を出ていけ」「今まで金を出してきたんだから、俺の言葉には従ってもらう」


愕然としました。


その時、始めて私は自分の立場が家の中で最も低い位置である事を自覚しました。


それまで私は、教えられた通りに「家族とは平等で、常に支え合って行くのが普通なんだ」と、疑いもせずに信じていたというのに。


まさか、そんな事を言われるなんて。


家の中に、家族の中に、“立場”なんて概念が存在するだなんて。


父が当たり前のようにそんな事を言うものだから、私は何も言えなくなりました。


だってこれは、父が常に「養っているのだからいくらでも従わせることが出来る」と思っているという証拠なんです。



そんな……、そんなわけがあるかッ!


俺の人生は俺の物だ! 俺だけのものだ!


なぜ貴様にそんな口をきかれなければならないんだ!


俺は貴方の下僕ではない! 奴隷ではない!


貴方がそんな事を言う人だっただなんて、俺は……。



激情が、胸の中を荒らし回りました。


「剣道をやめる程度でそんな……」と思うかもしれませんが、そんな簡単な問題でもないのです。


ある日の事、私はどうしようもないバカな事をしでかしました。それはそれはバカな事を。当然、色んな人に迷惑をかけました。

それ以来私は家の中で、いえ、父の中で「コイツは人間として駄目なやつなんだ」と認識されるようになったのです。

もちろん、そんな認識をされるようになったのは自分が原因ですから、それそのものにとやかく言うつもりはありません。


しかし父は、未だに私に言い続けます。


「人間になれ」と。


どうやら父の中で、私は人間以下の穀潰しのようです。そう言う割に、バイトはさせてくれません。


あれはもう何年も前の事で、それを私がどれだけ反省したか知っているはずなのに。もう二度とあんな事はしていないというのに。


父は、私が少しでも怠けようとするとそう言ってきます。


この出来損ないに「怠けるな」と言うのです。

笑わせてくれます。

そう育てたのは貴方だというのに。


そしてどうやら、この根性なしを叩き直すには剣道──スポーツをさせて根性をつけるしかないと思っているようです。

なんて痛々しい勘違いでしょうか。

私の人格は既に形成し尽くされております。父が思っているほど、私は未熟ではない。それを抑え込んで捻じ曲げるのは教育ではなく、調教と言うのです。


そんなものが通用するのは、精々中学生までだ。


そんなわけで、私が剣道をやめるということは私が私のやりたいことをするための第一歩のようなものでして。これをやめられないということは、私はこれから先、一生縛られて生きていかねばならないのです。


心を、縛られて生きていかねばならないのです。


まぁ、怠けているのも私の責任ですから、そこも強く言えないのですけれど。


しかしそんな話をしたいわけではありません。


そんな背景があるからと言って、「金を出しているのだから云々」と言ってもいいのか、という事です。


そんなの、どうしようもないですよね?


子供は親にすがる事でしか生きていけないのです。


それをそんな風に言うなんて、そんなの、子供は産まれた瞬間に無条件で親に対して返済不可能な多額の借金を背負わされてるようなものですよ。


なんて……、理不尽。


もとより、この世界が平等であった事など一度たりともないが、しかしこれはあまりにも酷すぎやしないでしょうか。


産まれた瞬間から、こんなに近くに、こんなに当たり前に、自分の格上を創り上げるだなんて。


そんな事を言われたら、逆らえるわけないじゃないですか。


親がいないと働けもしない年齢だというのに。


私はあの言葉を言われて、子供ながらに思ったのです。

ほら、捨て猫を拾って飼うときとか、親って「命に責任を持ちなさい」って言うじゃないですか。子供って、それと全く同じなんだな、って。

拾った命も、創った命も、似たようなものですよ。

その考えに則るなら、親には子供を幸せにする義務があります。

だから親が子供に金を使うのは当たり前だし、それをタテに何かをせびるようなことをしてはいけないんです。


責任が、あるから。


命を創った責任が。


むしろ、「勝手に産んでごめんなさい」と思いながら子供を育てるのが正しい姿勢なんじゃないですか?


そう思いながらも、その思いを隠して「代わりに、絶対に幸せにする」って育てるのが、本当に私が見たい姿です。


しかし、私の父はそうではなかった。

それを言葉にしたがゆえに、私はこんなに下らない、考えたくもない事を頭の中に踊らせた。


あれ以来、私は“家族”がわからなくなってしまいました……。


あの時までは、私は本当に幸せな家庭だと思っていたんです。

家族は皆、真面目な性格で、その中で唯一怠け者で社会不適合者な自分が異質にすら感じてはいたけれど。

それでも、私は無条件で家族が好きでしたし、家族は無条件で私の事を好きでいてくれると思っていたんです。


そうじゃなかった。

足元が崩れた気がした。

父は、私を愛してはいなかった。

私にとって、家族は最も身近な脅威となった。


でも──、でも、ですよ。


母は、そうじゃなかったんです。

母は、本当に優しい人だ。

きっと──父の事があるから断定はできないが、きっと、母は私を愛してくれているのでは、と。


だから私は、家族が、分からない。


母は家族だから私を愛してくれているんです。


でも父は家族だけど私を見てはくれないんです。


“家族”って、なんでしょう。


絆の一種ですよね。


少なくとも、血縁ではないはず。


血縁で結ばれる場合が多いというだけで、血縁関係がなくても家族にはなれます。

現に、結婚すれば血縁上の他人も家族です。


では、戸籍上の都合でしょうか?


いや、私はそんな上っ面だけの話をしているのではない。


家族っていう絆は、どうやったら結ばれるんでしょうか……?


友人とも、恋人とも違うあの絆は。


いや、そもそも“絆”なんて曖昧なもの、一体どこにあるというのか。


少なくとも、私と父の間にあるのは“縁”であって、“絆”なんて心地よいものではないでしょう。


それがひどく、悲しい。


胸を引き裂かれて首を飛ばされ、四肢を切られて腸を引きずり出されたかのように痛くて悲しい。


普通は、大多数の人間はそうできたはずなのに。

私の兄はそうできているのに。


どうして私はできないのか。

どうして私は、父にあんな言葉を言わせてしまったのか。



どうして、どうして────?



本当は、分かって、いるのかも、しれない、けれど。


悪いのは誰か。

狂っているのは誰か。

おかしいのは誰か。


俺は、イビツに歪んで、クサった果実のようにわだかまる、ケダモノよりも下賤な存在だ。


その心には途方もなく大きなカイブツが棲み着いている。世界への憎悪、人間への嫌悪、他人の失敗を嗤う傲慢、肥大な自尊心、他人を貶めてでも手に入れようとする薄汚れた欲望。


そんな自分を、見るのが嫌だ。


でも、その『汚い自分を見るのが嫌だ』って気持ちすらも、外向けの『こんな自分に苦しんでいる』というアピール。悲劇の主人公を演じているだけ。


悪いのは俺だ。

俺が諸悪の根源だ。


家族の中で俺だけが異質だ。

多くの他人と関われないのも、俺が歪な不良品だからだ。


生きて、いたくない。


こんな思いをしながら生きていたくない。


“生”が、怖い。


俺が望むのは“死”だ。

もう何も感じたくない。

考えたくない。


死にたい──。

産まれて、生きて、ごめんなさい。


だから、俺は、縄を、吊るして、俺は、心を。

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