エピローグ


 大きく開けた窓から届いたのは、麗らかな空から訪れた清かな光風と、可愛らしく舞い踊る桃色の花びらたち。この肌を優しく撫でる心地よい感覚は新たな季節の始まりを告げているようで、まるでとろの中に在るかの如く穏やかに流れる時の中、佳麗な鳥たちの玲瓏たる歌声が、この部屋を華やかに満たしていく。


春告鳥はるつげどりの声だわ……もうすっかり、桜がわらう頃になったのね」


 この手で綴るのは、想いの調べ。私とリゼ、そして強い絆で結ばれた仲間たちと過ごした、七色に耀かがよう時間の記憶。それはきっと、これからも果てしなく長く続いていく、私たちの生きる道そのもの。その道先は、数えきれないほど多方に枝分かれしていて、今いる位置から見通すことは全く出来ない。


 しかし抜けるような青を湛える空へと手を伸ばし、自らの指先を諸方へと拡げてはその可憐な花冠を煌かせるあの桜たちを見倣みならって、そのいずれの木末こぬれにも美しい花が咲き誇る、そんな未来が訪れるように、決して驕らずまた油断もせずに、日々の行いをしっかりと積み重ねて、正しく生きていきたいと私は思った。


「メル、そろそろ出掛ける準備をしてください。今日はエフェスの晴れ舞台なのですから、親である私たち二人が思いっきり応援してあげないと!」

「あっ、リゼ。ちょうど今こちらの仕上げも終わったところだから、今から早速準備をするわね」

「ん、仕上げって……あぁ、それって確かメルが少し前から書いていたもの、ですよね? 今書き終わったのですか?」

「ええ。今までずっと手帳に書き留めておいたものを、ここで一つに纏めてみたの。別に多くの人に見せるってわけでもないけれど……一応、私がリゼや皆と一緒に生きてきた証を、何らかのかたちで残しておきたくってね」

「へぇ、それって謂わば自伝みたいなものなのでしょうか? でもすごいですねメルは。私は長い文を書くのは昔からどうにも不得手で、尊敬しちゃいますよ」

「私だって自信があるわけじゃないけれど……今まで読んできた本も参考にしながら、何とかかたちには出来たと思うわ。リゼ、こちらに帰って来てからで構わないから、一度目を通してもらっても良いかしら?」

「もちろんですよ! 私たちのことがどんな風に書かれてあるのかがものすごく気になりますし、今から見るのが楽しみです!」

「う……あまり、過度な期待はしないで頂戴よ? 何しろ、こういったものを書いたのは初めてのことなのだから」

「ところで、表題はどんな感じにしたんですか?」

「えっ、表題……?」


 リゼに言われるまで、私は手帳に記してきた内容をもとに、自分の想いや体験を黙々と書き綴っていたため、そこに付ける表題の存在などは完全に失念していた。もちろん私自身も、ただの自伝とするよりは何かしら表題があった方が一つの書き物として引き締まるような感じがしたため、私は急遽、何かしっくりきそうな名前を考えることになった。


「どうしようかしら……表題のことなんて全く考えていなかったから困ったわ」

「はは、そんなに難しく考えなくたって大丈夫ですよ、メル。こう頭にすっと入ってくるような、単純明快な感じで良いと思います」

「単純明快に? そうね……」

「たとえば、メルが一番最初に何をしたかとか、そんなのでも良いのでは? そこからお話が始まっていく感じがして、何だか面白そうじゃないですか」

「私が一番最初にしたこと……? かつそれを出来るだけ分かり易く……ん? それなら、こういうのはどうかしら」

「あ、何か良い名前が思い浮かびましたか?」

「えっと……貴族令嬢なんて、辞めてやりましたわ! なんて……駄目かしら?」


 その瞬間、私が提案した表題名を聞いたリゼの動きが一瞬止まり、そして間もなく堪えていたであろうものが、堰を切ったかのように彼女の口から溢れ出した。


「ぷっ、ふふふふ……! な、何ですかそれ……あっははは、おっかしい!」

「あ、あら……? そんな、おかしかった、かしら……?」

「あっいえ、すみません。その、メルが大真面目な顔をして口に出したものが、何というかあまりにも真っすぐだったものですから、ちょっと驚いてしまいまして」

「んもう、何よ! こっちは一応真剣に考えたっていうのにあんまりじゃない?」

「ご、ごめんなさい。でも、私は好きですよ、その表題。だって本当にその通りですし……ふふ、あとで読んだら感想を言いますね」

「ええ、ぜひ忌憚きたんのない意見を聞かせてくれると嬉しいわ」

「承知しました! それでは、そろそろ出掛ける準備をしましょうか? 良ければお手伝いしますよ」

「そう? なら今日はどのお洋服が最も合いそうか、少し見てもらえるかしら?」

「お安い御用です。さ、今日はどちらをお召しになられるおつもりですか?」

「ええっとね、今日はエフェスの授業参観だからあまり華美なものは避けるつもりなのだけれど、外は桜がどこも満開のようだから――」


 ――きっとこれからも、リゼと共に過ごす、こうした何気ない日々が連綿と続いていって、何処かでふと振り返った時に初めてその尊さに気付くのだと思う。私に出来ることは、両手から溢れそうなこの大きな幸せがこの命のある限り続くように、今を精一杯生きていくことだけ。


 だけどリゼと二人でなら、何だって出来るって私は信じているから、何物をも恐れることなく、ただこの道が続いている先に向かって進んでいく。


 彼女と一緒に手を繋ぎながらどこまでも、そして、いつまでも。



 完

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貴族令嬢なんて、辞めてやりましたわ! 綾野 れん @pianeige

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