柚木さんの完璧な世界

大澤めぐみ

柚木さんの完璧な世界


 わたしが有給休暇を申請すると、案の定、住田係長はとびきりに難色を示した。

「ただでさえ進行が遅れているのに、そのうえ休暇をとりたいなんて申請するほうがおかしい。責任感がない」というのが住田係長の言い分だった。「いったい、この時期に続けて休みを取得しなければいけないほどの、どんな大事な用事があるんだ?」

 けれど、進行が遅れているのはわたしのせいではなく、もっぱら、わたしの事前の忠告を無視してヨタヨタのままプロジェクトを動かし始めた住田係長の責任だし、それにわたしはもう充分に進行の遅れを取り戻している。あとは住田係長が余計な横槍を入れてこなければ、一日二日休暇をとったとしても充分に期日までに間に合う予定だ。とはいえ、確実に間に合うと分かれば住田係長は確実に余計な横槍を入れてくるだろうから、進行に余裕があることを悟られてはいけない。この頭の悪い上司の余計な発案を跳ね除けるのには「今回はそんなことをしている余裕はありません。次回から検討します」というのが一番強力だというのが、これまでの経験から得られた結論だった。

 さて、どうしようかと考えていると「まあ、別にいいじゃないか」と、通りがかった良知さんがわたしに助け船を出してくれた。良知さんは、わたしたちの部署を直接に統括する一番上の責任者で、歳はまだ三十代半ば。住田係長よりも年下だけれど、次長だから職位はずっと上だ。いつもテキパキと効率よく仕事をこなしていて、余計な口出しはせず、アドバイスは常に的確で、そのうえ見栄えも良いものだから若い女子社員からの人気も高い。

「まだ期日までには日にちがあるし、若手がひとり休んだくらいでガタガタになるほど我が社はやわじゃないでしょう。それに、どうしても間に合わないっていうなら僕も手伝うし、なんとかなりますよ」

 住田係長の肩に手を置いて、感じの良い微笑みを浮かべながら良知さんが言う。

「そうは言いますけれどね、こんなのは非常識ですよ。次長は若い女性に甘すぎます」長身の良知さんの顔を見上げて、住田係長はのどの下のお肉をたゆたゆと揺らせながら、顔を歪ませて反論する。「だいたい気安く手伝うとか言いますけれど、この日は次長も出張で不在じゃないですか」

 まあまあと説得しようとする良知さんと、顔を真っ赤にしてのどの下のお肉を揺らせている住田係長の前で、わたしが所在なくもじもじと立っていると「非常識なのはどちらですか」と、氷の矢のように冷たく鋭い声が背後から投げかけられた。

 振り返ると、圭子さんがいつものパーフェクトなプロポーションでスーパーモデルみたいに超然と立っていた。鋭角的な顎をすこしだけあげて、ヴェルサーチの眼鏡の奥で眉根にチャーミングな皺を寄せている。

「有給休暇は取得できることが法律で保証されていますし、取得理由をたずねることじたいが社内コンプライアンスに反しています。わたしたちに許されているのは、彼女に日程の調整ができないかどうかをお願いすることだけです。住田係長、ご自分の立場というものを勘違いなさいませんように」

 圭子さんがカツカツとジミーチュウのかかとを鳴らしながら住田係長に近付いて、言った。

 住田係長はどこかぼんやりとした顔で「よく分かりません」と、返事をする。「期日が差し迫っているのですから、仕事のほうを優先すべきなのは当然のことでは?」

 圭子さんは魂を吐き出すみたいに深く溜め息をつくと、かぶりを振って良知さんのほうへと氷の女王のような鋭い視線を向けた。

「良知さん。あなたの部署では部下へのコンプライアンス教育が行き届いていないようですね」

「そのようです。大変申し訳ありません」と、良知さんはおどけるようにぐるりと目をまわして、肩を竦める。深夜の通販番組の外人のようだ。やれやれジェシー、困ったもんだよ。

「この件は担当部署に報告させていただきます。住田係長には社内のコンプライアンス研修を受けていただくことになると思います。日程などは後日メールでお知らせしますので、よろしくお願いします」そう言って、圭子さんは住田係長の机の上に投げ出されていたわたしの申請書を取り、良知さんに渡す。「これはあなたが承認印を押しておいてください」

「了解しました」と、良知さんは眉をあげ、わたしに目線をおくり、口の端をかたっぽだけクイッとあげて、それから踵をかえし自分の席へと戻る。なにか親密なメッセージを送られたようだけれど、読み解くための親密さがまだ足りないのか、わたしにはその内容が分からない。

 大きく息を吐いた圭子さんに「ありがとうございます」と、わたしが頭をさげると、圭子さんは「いいのよ。社内でコンプライアンス規定が徹底されていないのは、わたしたちの落ち度だから、牧村さんがお礼を言うことじゃないわ。むしろ、わたしたちがあなたに謝らなければいけない話だもの」と答えてわたしの肩に手を置いた。「ところで、実はあなたをランチに誘いにきたところだったの。今日のお昼は空いてる?」と、急に少女のような表情になって、顔を寄せてわたしに微笑みかけてくる。

「あ、はい。もちろん大丈夫です」わたしはなるべく自然な風を装って答える。でも、すこし声が大きくなってしまったかもしれない。いまだに、こんな風に圭子さんに話しかけられると緊張してしまう。

「そう。じゃあまたお昼どきに誘いにくるわね」と言って、わたしの肩をぽんぽんと叩いて、圭子さんは部屋から出ていく。

 自分のデスクに戻ると、隣の席の涼ちゃんがスッと椅子を寄せてきて「圭子さん、かっこいいよね」と、囁いてきた。

「うん。ほんと、ザ・パーフェクトウーマンって感じ。この世の理想が服を着て歩いているかのよう」と、わたしは返事をする。ついつい、とろけるみたいな声になってしまう。

「住田係長の顔見た? ああいうのをきっと吠え面って言うのよね。いいな~憧れるな~、圭子さん。あの調子で、どんどん昭和の化石みたいな古い考えで凝り固まったおじさんたちをばしばし撃破していってほしい」

「涼ちゃんも、圭子さんみたいになりたい?」と、わたしが訊くと、涼ちゃんは「う~ん、どうだろう? 憧れるけど、わたしには無理かなぁ」と言う。「圭子さんだからあれでもやっていけるけれど、わたしたちがあれをそのまま真似したところで、軋轢が大きいしね。わたしは今までどおり、ゆらゆらとくらげみたいに適当に世渡りしていきますわぁ」

 それはそれとして、圭子さんには頑張ってほしいけどね。そう言って笑って、涼ちゃんは椅子を元の位置に戻して、仕事をはじめる。わたしも机のうえをざっと整理して、昨日の続きにとりかかる。


 圭子さんは柚木圭子といって、わたしたちのいるフロア全体を統括している部長だ。柚木というのは創業者一族の名字で、この会社には何人か柚木さんがいるから、だいたいの人が柚木姓の人のことは下の名前か役職で呼んでいる。圭子さんはハーバード大卒で、女性では歴代最年少の部長職で、柚木の家系では分家筋にあたるから七光もそこまでではないにも関わらず、その優秀さから次期経営者とも目されているバリバリのスーパーキャリアウーマンなのだ。

 次長の良知さんの名字も柚木で、圭子さんの夫だ。わたしたちの直属の上司にあたる人で、職位としては圭子さんよりも低いけれど、こちらも奥さんに負けず劣らずのザ・パーフェクトマンとの評判だ。柚木の家に婿養子に入ったかたちだけれど、とても有能だし創業者一族からの評価もいいようなので、まだまだ出世をするだろう。

 圭子さんは仕事をバリバリとしながら、家事だってちゃんとするらしい。けれど、頑なにその半分しか担当しない。残りの半分は良知さんがやることになっているそうだ。仕事の場においては圭子さんのほうが良知さんよりも上役にあたるけれども、プライベートにおいてはふたりは完全に対等の関係で、対等に口をきくし、役割も等しく分担するのだ。

 お互いがお互いを尊敬しあっている、先進的で理想的な夫婦の新しいかたち。

 ふたりの間にはまだ子供はいない。けれど、子供ができたりしたら、ひょっとしたら良知さんのほうが圭子さんを追い越して偉くなっていくのかもしれないなと、わたしは思う。

 わたしたちは女で、どれだけ先進的な企業であろうとも、会社組織や、もっと言えば日本の社会というのはまだまだ男性のもので、圭子さんのような完璧な女性というのは男性から疎まれる。住田係長みたいなのが、のどの下のお肉をたゆたゆと揺すりながら「生意気だ」と言って、顔をしかめる。わたしたちはそれをよく知っている。だから、涼ちゃんもわたしも、男の人たちに対等な扱いをするよう求めて派手に戦ったりはしないで、上っ面ににこやかな笑顔を貼り付けて、ゆらゆらとくらげみたいに適当に世渡りしている。


「あんなやつ、のどの下の肉のお肉をたぷたぷしながら怒鳴りつけてやればいいのよ。桜木花道がやっていたみたいに」

 ランチの席で、圭子さんはそう言って、かわいらしく口をヘの字に曲げた。

「桜木花道?」知らない言葉だったので、わたしは圭子さんにそう問い返して、首をちょっと傾ける。ほんのすこしおでこを前に出すようにして、自然な上目づかいで圭子さんを見る。

「ああ、それ。その首の角度。そういうのが良くないのよ牧村さん」と、笑って、圭子さんはゴブレットでお水を飲む。「そうか。分かんないか、桜木花道。牧村さん、少年漫画とか読まなさそうだもんね」

 わたしは頷いて、返事をする。

「ああ、あまり読まなかったかもしれません。親がけっこう、厳しかったもので」

 言いながら、どうやら桜木花道というのは少年漫画のカテゴリーに属する言葉であるらしいと、脳内のクリップボードに圭子さんの言葉と共にピン留めをする。

「そうね。きっと厳しく躾けられてきたんだろうなって、そういう感じがするよ」

 そう言って、圭子さんはちょっと意地悪そうな、でも寂しそうな悔しそうな、複雑な顔をして笑う。すこしも寒くないわって言っていた時のエルサみたいな表情だ。

「牧村さん、完璧な”受け入れる女”の様式を身に付けているもの。それはきっと、あなたのお父さんが望んだ女性像で、あなたのお母さんもきっとそういう風な人で、なんの疑問も持たずに娘にそういう教育を施して、あなたも何の疑問も持たずに受け入れてしまったんでしょうね」

 言ってしまったあとで、圭子さんは下唇を噛んで「ごめんなさい。言い過ぎました。そういうことを言いたかったんじゃなくて……」と、頭を下げる。

「いえ、いいんです」と、わたしはにこやかに答える。すっかり身体に染みついてしまった”受け入れる女”の所作として、ちっとも気にしてなんかいませんよという、馬鹿みたいな笑顔を見せる。「実際、その通りだと思いますから」

 圭子さんハーバード大学で欧米の先進的な価値観の中で勉強してきた有能な自立した女性で、どこにも欠点のないザ・パーフェクトウーマンで、男社会だろうと古い企業精神だろうと、全部を敵に回して大立ち回りをしてもねじ伏せてしまえるくらいに力があって頭が良くて、そういう女性は大抵、わたしのような女が嫌いだ。古い日本の男性優位社会にどっぷりと首まで浸かって、呼吸するみたいに自然に男に媚びて、男に心地良さを提供して、その見返りに自分の安全を確保するような、そういうやり方を人生の中で学び取ってきた弱い女を嫌っている。わたしたちのような女がいるから、ますます男どもが調子に乗るのだと思っている。

 そして、ある面ではそれは揺るぎない事実でもある。

「だってほらぁ、可愛がられていたほうが、なにかとやりやすいじゃないですかぁ」と、涼ちゃんが悪びれもせずに朗らかに言う。わたしにせよ、涼ちゃんにせよ、若い女の子たちは別に底抜けに馬鹿なだけというわけではなくて、自分たちのそういう卑屈なやり方に自覚的ではあるのだ。

「圭子さんみたいに立場が強ければいいですけれど、わたしたちは弱小ですから、使えるものはなんでも使って、タフに生き抜いていかないといけないんですよ」

「そうね」と、圭子さんも困ったみたいな顔をして、笑う。「あなたたちみたいに優秀な子が、なんの気兼ねもなく能力を発揮できるような環境になればいいのだけれど。我が社がまだそうなっていないのは、わたしの力がまだ及んでいないからだわ。あなたたちに八つ当たりしても仕方がない。ごめんなさい」

「フゥ~、理想が高~い。頑張ってくださいね。わたしたち、圭子さんのこと、応援していますから」

「そうですよ」と、わたしも言う。「さっきも、圭子さんのおかげで滞りなく有給休暇が取得できましたし、感謝することはあっても、謝られるようなことなんかなにもないです」

 わたしたちにおだてられて、圭子さんもまんざらでもなさそうな表情を見せるけれども、でもこの人はそういう「自分にとって居心地の良い環境」というのを反射的に警戒するところがあって、話を逸らせるみたいに「まったく、住田くんも困ったものだわ」と呟いて、顔をそっぽに向ける。

「年頃の女の子の誕生日だもの。有給休暇くらい、ふたつ返事で出してあげるべきでしょうに」

 圭子さんの何気ない返事に、わたしはついドキッとしてしまう。「覚えていて下さったんですね」と、訊くと、圭子さんはこともなげに「ええ」と、頷く。「自分の部署の子の誕生日だもの。だいたいは把握しているわよ」

 ザ・パーフェクトウーマン。どんな小さなところにも抜かりがない。

「彼氏とどこかに出掛けたりするの?」と、圭子さんがまた少女みたいにあどけない表情笑うので、わたしは恥ずかしくなってしまって、照れ隠しに「部長それ、たぶんコンプライアンス違反ですよ」と、返事をする。


 そんなわけで、有給休暇を取得した自分の誕生日。

 わたしは自堕落に昼前までぐぅぐぅとたっぷり眠ってから、のそのそと起きだしてのんびりと身支度を整える。予定は夕方からだから、そんなに慌てる必要もない。小ぶりなトランクに一泊二日ぶんの荷物をぼこぼこと詰め込んで、電話でタクシーを呼んで家の目の前からタクシーで駅に向かう。駅で新幹線に乗って、指定席に収まって、景色になんか目もくれずにまた熊みたいにぐぅぐぅと眠る。

 新幹線を下りたら駅前でまたタクシーを拾って、予約してある温泉宿に真っ直ぐ向かう。交通費も全部出してもらっているから、こういう細かいところでけちけちはしない。三時には旅館に到着して、受付でチェックインを済ませる。

「お二人様でお伺いしておりますけれども」と、受付のおじさんに訊かれたので「もうひとりは後から来ます」と返事をする。

「かしこまりました。お食事の時間はどうなさいますか?」

「たぶん、連れの到着が遅くなると思うので、一番遅い時間にしてください」

 ちょっと良いお値段の旅館なので、トランクは客室係の仲居さんが運んでくれる。案内されて、部屋に入る。露天風呂付きの客室で、そのうえオーシャンビューだった。なかなかのいいお部屋だ。仲居さんから説明を受ける。ここに浴衣があります。あっちに非常口があります。大浴場はあっちで24時間入れます。仲居さんが出て行ってしまうと、もう他にすることもないので、さっそく服を脱いでお風呂にする。ささっと身体を洗って、ぐずぐずに溶けてしまいそうなくらい長々とお湯につかる。のぼせてきたらお湯から出て潮風に当たる。景色はいいけれど、これだとあのへんに望遠鏡とか置かれたら丸見えだなぁ、なんてことを思いながら、あまり気にせずまたお湯に入る。西向きだから、水平線に沈む夕陽を堪能することができて、ああ今年はいい誕生日だったなぁと思う。

 陽が完全に沈んだ頃にお風呂からあがって、浴衣に着替える。髪はざっとアップにして、顔も自然な程度に作り直す。扉がノックされて、わたしは「はーい」と返事をして扉を開ける。男を出迎える。いいお誕生日、終わり。悪いお誕生日のはじまり。

「ごめん。思ったよりも遅くなってしまった」と言いながら、男がのしのし部屋に入ってくる。

「おつかれさま。良知さん」と、わたしはその男の名前を呼ぶ。

 わたしの誕生日に良知さんもちょうど出張だったから、それに合わせてこの温泉宿をとってくれたのだ。良知さんはわたしの腰を抱き寄せて、口づけしてくる。わたしはそれを一旦受け入れたあとで、手を突っ張って「ダメ」と、言う。

「先に食事を済ませてしまわないと、夕食の時間が終わってしまうから」

 わたしはフロントに電話をかけて、連れがきたので夕食を用意してほしいと告げる。良知さんが脱いだ上着を自然に受け取り、脱ぎ捨てたスラックスを拾って、折り目に沿って丁寧にハンガーに吊るす。浴衣を用意して、着るのを手伝ってあげる。

 部屋に料理が運ばれてくる。海が近いから、鯛づくしだ。瓶ビールの栓を抜いて、良知さんのグラスに注ぐ。自分のグラスにも、半分くらいビールを用意する。

「誕生日、おめでとう」と、良知さんが言って、わたしたちはカチリとグラスを合わせる。「ありがとう」と返事をして、わたしは完璧な”受け入れる女”の微笑みをつくる。

 良知さんは圭子さんの話をする。わたしは良知さんが圭子さんの話をするのを、歓んで聞く。

 良知さんは圭子さんのことを「いつも一緒にいると心が休まらない」と言う。「あいつは料理が上手じゃないんだ。性根のところで、食べられればなんでも一緒だと思っている」「近頃、太ってだらしのない身体になってきた」「まだ子どもを作るつもりはないって言うんだ。もう三十も半ばだっていうのに」

 わたしは良知さんのそういう話を聞きながら、頭の中のクリップボードに圭子さんの情報をピン留めしていく。良知さんを肯定して、ありのままの良知さんを受け入れてあげる。

「男女同権だとか、社内コンプライアンスがどうとかって言うけどさ。やっぱり、女性は女性じゃないか。生まれつき、身体も考え方も違っているんだから、それぞれに適材適所ってものがあるだろうにさあ」

 良知さんは自分のことをやさしく受け入れてくれる女を求めている。けれど、圭子さんがその役割を果たすことは決してない。圭子さんはザ・パーフェクトウーマンで、自分が見下されて差別されることなんか、どんなプライベートな空間においても許さない。毅然と立ち向かう。それが良知さんには面白くない。鬱積した不満は、いつか噴出するだろう。

 だからそれは、わたしが与えてあげる。わたしほど、男にとって見下して差別するのに都合のいい女もそうそういないのだ。有能だけど気取ったところがなくて、気が利くけれど愛嬌もあって、庇護欲をそそる可愛らしいタイプ。内心で見下して、馬鹿にしていてもへらへらとしていて、あまつさえ慕ってもくれる。そのわりに手はあまりかからない。自分のことはそれなりに自分で勝手にやってくれて、躾けが行き届いていて、教育をすればちゃんと覚える。

 ポリティカルコレクトネスも社内コンプライアンスも及ばない密室の中で、甘やかに差別することを受け入れてくれる。そんなやさしい女を好まない男は、そうそういない。

 食事の終わりに、仲居さんが小さなホールケーキを運んできて、わたしは「まあ」と、大げさに感動してみせる。良知さんが子どもみたいに手拍子をしながらハッピーバースデーの歌を歌って、わたしはろうそくの火を吹き消す。

 ケーキを食べ終わった後で、良知さんがわたしに「大したものじゃないけれど」と、小さな小箱を差し出してくる。わたしはそれを受け取って「いま、あけてもいい?」と、かるく首を傾げる。

 箱の中にはかわいらしいシルバーのネックレスがちょこんとお行儀よくおさまっていて、わたしは「ありがとう。とってもうれしい」と、笑顔をつくる。

「でも、わたしはこういうのがほしくて良知さんとお付き合いしているわけじゃないんです。本当に、こういうのは別にいいですから」

 わたしがそう言うと、良知さんは眉尻を下げて、後ろ頭を掻く。

「困ったな。僕は君を喜ばせてあげたいんだけれど、そのためにはどういう贈り物をすればいいんだろう?」

「だから、別に贈り物とかはいいんですよ。ただこうしてたまに会って、話を聞かせてくれれば、それで」

 せっかく露天風呂があるからお風呂にしようか、と良知さんが言うので、わたしはまた良知さんのためにお風呂の準備をする。良知さんの荷物をあけて着替えを出していると、かわいらしい柄のタオルが一緒に出てくる。

「ずいぶんとかわいらしいタオル。良知さんの趣味じゃなさそう」と、わたしが呟くと、良知さんが「ああ、それは圭子が買ったものだよ。いい歳して、そういう女の子っぽいかわいらしいのが好きなんだ」と、言う。

「このタオル、わたしが貰ってもいいですか? 誕生日プレゼント」と、わたしがねだると、良知さんは「タオル?」と、怪訝そうな顔を見せながらも「もちろん、そんなものでよければ、全然いいけれど」と言ってくれる。

 うんざりするほどセックスをして、ようやく良知さんが眠った後で、わたしはもう一度お風呂に入って、たくさんの汗と精液をしっかりと洗い流す。海のうえの遠くのほうで、煌々と明るいライトをつけた小さな船がいくつも揺蕩っているのが見える。

 お風呂を出て、備え付けのバスタオルでしっかりと水気を拭き取ったあとで、顔に良知さんからもらったタオルをあてて、わたしは良知さんの隣で横になる。ぐぅぐぅと寝息を立てている良知さんの顔を覗き込む。良知さんは馬鹿みたいに口を半開きにして、熊みたいにぐぅぐぅと眠りこけている。

 獣のような男、と思う。ただの性欲と支配欲と自己顕示欲と、そういった諸々の原始的な欲求をやさしさでコーティングして、それが男らしさというものなのだと合理化して自分自身でも信じ込んでしまっている、この社会に甘やかされた本能だけの獣のような男。

「ねえ、良知さん」

 わたしはすこし身体を寄せて、彼の寝顔に語り掛ける。

「あなたはただ圭子さんの完璧な夫であり続ければいいのよ。進歩的な男女同権主義者で、妻の権利の主張に対しても理解があって、家事も仕事もふたりで協力して分担して支え合って生きていく、そういう理想の夫を演じていればいいの。もちろん、あなた自身はそんな完璧な男性からは程遠くて、保守的で頭がかたくて能力も充分ではなくて、そのくせ自尊心だけは東京スカイツリーみたいに高い取るに足らない下らない男でしかないけれど、それでも演じるくらいはできるでしょう?」

 完璧な世界なんてあり得ない。完全に対等な男女関係なんて幻想だ。上っ面だけでそんなものを演じてみたところで、必ずどこかに歪みは出る。だから、その歪みはわたしがぜんぶまとめて引き受けてあげる。

「頑張って頑張って、完璧な夫を演じ続けて、それで無理が出たら、いくらでもわたしがあなたを甘やかしてあげる。あなたの欠落を補ってあげる。あなたの心の乾きを潤してあげる。だから、あなたは圭子さんの信じる、圭子さんの完璧な世界をちゃんと維持していればいいの。あなたがしっかり圭子さんの完璧な夫を演じている限りは、わたしはこれ以上はなにもしない。けれど、あなたがほんの少しでも圭子さんの完璧な世界を脅かすような真似をすれば、わたしは今こうしているような、あなたの所業のすべてを曝露して、徹底的にあなたのことを台無しにしてあげる。あなたが圭子さんに相応しい夫でないなら、わたしはあなたを圭子さんから引き離す。わたしはあの人さえ幸せなら、他のことはどうだって別にいいのだから」

 ひょっとしたら、この男はまだ起きていて、わたしの声を聞いているだろうか? と、わたしは考える。聞こえているけれど、聞こえてないふりをして狸寝入りをしているのかもしれないし、たんに死ぬほどセックスをして充分に満足して馬鹿みたいにぐぅぐぅと眠っているだけかもしれない。

 別にどっちでもいいと、わたしは思う。

 たとえ、わたしの真意に気付いたとしても、この男はもう逃れられないだろう。わたしが与える、このとろとろの安らぎを捨て去ることなんて、底抜けに意志の弱いこの男には、きっとできない。

 ちょっとどんくさいところもあるけれど、妻に対して理解のある夫。おっとりとしていてかわいげがあって、自分のことを慕ってくれる若い部下たち。圭子さんが見る圭子さんの世界は、これからも完璧であり続ける。世界は彼女が信じるように、公平で公正で、救いがなければいけない。

 良知さんからもらった、圭子さんが買ったタオルに鼻先をうずめて、わたしはようやく覆いかぶさってきた健やかな眠りに身を任せる。タオルから、ほのかにバニラっぽい系統の柔軟剤の香りがする。こんど良知さんに、家で圭子さんがつかっている柔軟剤の種類をきこうと思う。

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