後編
「あの星」
すらりと伸びた指が、空の一点を指す。その先には、数多の星の中でもひときわ明るい、青白の星が一つ。
「あの一番明るいの?」
聞くと、そう、と頷く。
「知ってる、シリウスでしょ。ぜんぶの星でいちばん明るいんだよ」
理科の授業で習った知識をふり返って答えると、よく知っているな、とちょっとだけ彼の口角があがって、少しうれしくなった。
「それでは、その名前の意味は?」
それは理科では習っていないから、私は首を横に振った。国語が得意ななゆただったら、知ってたんだろうか。
「<焼き焦がすもの>だ」
やきこがすもの。私は口の中でその名前を転がした。確かに強烈な光をはなつ星だけど、冬のイメージの強い青白い星には少々似合わないような気がする。そのことを告げると、男のひとは小さく首を傾げた。
「こうやって今、まだそう夜も更けていない時間にああして見えるけれど、季節によって見える時間が違う、というのは知っている?」
「うん、もちろん」
それも、理科で習った。地球が太陽の周りを回る様子を身振り手振りで説明してあげると、男のひとはそうそう、と頷いてくれた。
「あの星は、八月頃には太陽を先導して地平線に昇るようになる。昔の人々は、それを基準に暦を作ったこともあった」
「じゃ、夏のお星様だって思ってたのかな」
「そう思っていた人々もいる、ということだ。……あの星が昇ると、夏になる。夏については、どう思う?」
「夏? えっとね、夏だからとってもあつい。あと夏休みだから楽しい!」
それを聞いて、男のひとは楽しそうに笑った。
「夏休みがどう、というのは私にはよくわからないが、そう、楽しいかもしれないな。でも、暑すぎたら困るだろう。暑くて苦しくなりはじめる時期に、あんなに目立つ星が夜明け前の空に爛々と輝いていたら、どう考えるだろう」
男のひとのまつげが陰ったように見えた。想像する。ジリジリと大地を焼く太陽の訪れを告げる、燦然と明るい星。
「……その星がちょっと、きらいになっちゃうかも。なんか、その、これから来る苦しさの目印、みたいになっちゃって。苦しいことを思い出しちゃうのかなって。……私、国語が苦手だから、うまく言えないけど――」
しどろもどろになってしまった私の言葉に、言いたいことは伝わっている、と男のひとは優しい声で言ってくれた。
「だからきっと、<焼き焦がすもの>――シリウスだなんていう名前を選んだんだろうな」
あくまで優しい声に、ぎゅっと、胸の奥の重さを思い出した。
なんだか、シリウスがかわいそうだと思った。シリウスは何にも悪くないのに、ただその時期に、というだけで、苦しいことの目印にされたかもしれない、だなんて。
その理不尽さを思うと重苦しさが増す。私だったら多分、そんなことをされたらあっという間に逃げ出していただろう。
冷たい風が、木をゆらす。
「だが、あの星には別の名前がある」
男のひとの声は優しく、明るい。私がまだ重苦しさを飲み込めないでいると、彼はゆっくりと話を続けた。
「時として、あの星は焼き焦がすものであり、天の狼であり、鳥であり、冬の王だ」
そのきれいな青い瞳は、夜空に浮かぶシリウスをまっすぐに見つめていた。
「そしてまたある時は、恵みをもたらすものでもある」
私も視線を辿って、明るい、青白く輝く星を見上げた。男のひとの瞳の青と、ちょっとだけ似てる、とふと思い至った。
「なんだかふしぎ。だって、星自体は変わっていないでしょう? おんなじ星なのに、みんな全然違う名前をつけるなんて」
私のつぶやきに、そうだな、と男のひとは頷いた。
「同じ星でも、いつ、どこから、どのように見るかで全く印象は変わるものだ。――<星野すばる>は、弟の出来ることは何も出来ない。それだけか?」
「だって――」
なゆたは何だって出来るのに。足が速い、木登りが上手、誰とでもすぐ仲良くなれるし、国語も得意。
あ、と思い当たることがひとつだけ。
「……算数と理科なら、なゆたよりも得意……かも?」
そうか、と男のひとは微笑んだ。
「それなら、そのことを覚えていれば良い。国語が苦手な星野すばるも、算数と理科が得意な星野すばるも、どちらも<星野すばる>だ。ひとつの側面だけがすべてではない。どの側面も切り離せはしないが、自分がどうありたいかは、選ぶことが出来るだろう」
少しだけ、呼吸が楽になったような気がした。
今日のお母さんは多分、国語が得意な星野なゆたと、国語が苦手な星野すばるを見ていたんだ。そして、国語が得意な星野なゆたをちょっとだけ優先してあげただけ。理科が得意な星野すばるがテストで満点をとったら、お母さんはきちんと褒めてくれる。いつ、どこから、どのように。私たちのどの側面を見るかが少し違うだけ。
「――うん」
私は顔を上げて頷いた。
満天の星は、変わらず静かに輝いていた。
「……ぅ! すばるー!」
静寂を裂いて私の名前を叫ぶ声に、はっと我に返った。なゆたの声だ。私の名前を呼びながら、こちらに向かってくるようだ。
「あの、私」
帰らなきゃ、と続けようと男のひとを振り返って、思わず息をのんだ。
――とってきれいだ。あの星と同じ、宝石みたいな明るい明るい青白い光を、自らはなっているかのような、その瞳。
星の瞳だった。星を、シリウスをそのままはめ込んだかのような。
男のひとは立ち上がって、黙って微笑んでいた。
「もしかして――」
「あっ、いた! すばる!」
振り向くと、なゆたが息を切らして木々の間を抜けてきた。ダウンのコートにマフラーに毛糸の手袋にととても暖かそうな格好。それをみて、急に寒さを思い出して震えた。すっかり体が冷えてしまっていたようだ。
はぁはぁと、なゆたが息を整える。
「まったくなんでこんなところに……。お母さんもお父さんも心配してるぞ」
「心配?」
「うん。特にお母さんなんて、誘拐でもされたんじゃないかってそれはもう大騒ぎ」
「……ごめんなさい」
星野すばるをまるごと嫌いなわけじゃない。そう思うと、胸の重さが軽くなっていく。
「それ、どうしたんだ?」
なゆたが指さしたのは、あのひとが掛けてくれた紫色の暖かい布。そういえばまだ返していなかったな、と思って、振り返った。
「あのね、このひとが――」
しかし、そこには誰もいなかった。風がさわさわと、先ほどまで確かに彼が立っていた草地を揺らす。
「どうした?」
いぶかしげななゆたの声に、首を横に振る。
「……ううん、なんでもない。家に帰ってから話すから」
「そうだな、帰ろうぜ。寒いし」
あれ、そういえば。
「どうしてここがわかったの?」
その問いに、なゆたはこともなげに答えた。
「双子だから、かな」
……そういえば私、いつあのひとに自分の名前を教えたんだっけ。
もう一度、青白い、燦然と輝く星を見上げた。
「やっぱ信じられないって、そんな話。その男のひとっていうのが、人間の姿になって現れたシリウスだー、なんて言うんだろ?」
目一杯リクライニングさせたアウトドア用のチェアに背を預けながら星空を眺めていて、なゆたはあきれたように言った。
「そりゃ、証拠があるわけじゃないけど。でも絶対そう、あのひとはシリウスだったんだって」
畳んで膝の上に乗せていたあの布をなでた。あの家出のあとすぐに引っ越してしまって、引っ越し先は都会でなかなか星空を見上げる機会にも恵まれず、そのままずるずると保管してきていた暖かな布。
なんとなくだけど、返すのなら今日、ちょうど十年の今日この場所でしかないと急に思い至って、なかなか信じないなゆたをなかば無理やり引っ張ってきてここまで来たのだ。
あれから十年。私たちはすっかり大人になった……と、思う。少なくともあの頃よりは背が伸びて、だいぶ空に近くなった。手が届いたりはしないけど。
それにしても、とちょっとだけ可笑しくなって、ついクスクス笑い出してしまう。
「なんだよ、急に笑い出して」
「いやぁ、いつもはなゆたの方が、UFOだの幽霊だの、こういう話を始めてさ。私が真っ向から否定する側なのになぁって思っちゃって」
「まぁ、なぁ……」
なゆたが曖昧にもごもごしている間に、私は木々の頭から視界に入ったシリウスを見つけた。あの頃と変わらず、煌々と輝く青白い星。
そういえばさ、となゆたがつぶやいた。
「昔さ、おまえがうらやましくてしょうがなかった時があるんだ」
思わず、シリウスから目をそらしてなゆたの横顔をまじまじと見つめた。
「あの家出の頃からかな、すばるがとっても大人に見えたんだ。双子で顔はそっくり、当然年も一緒。でも俺が何にも考えずふらふらしてるときにも、すばるはしっかりして見えてさ。俺もすばるみたいになりたかったけど、どうやったら大人になれるかなんて知らなかったし、空回りばっかりしてた」
なゆたはふふっと笑った。俺ってガキだなぁと小さくつぶやきながら。
「でもシリウスが人間になったー、なんて言うあたり、すばるもまだまだガキなんじゃないのか?」
「むっ、私の方がちょっとだけお姉ちゃんなんだってことを忘れたの?」
二人で顔を見合わせて、ぷぷっと吹き出した。
「どっちも同じくらいガキだよなぁ」
「しょうがないでしょ、双子なんだし」
一通り笑って、また視線をシリウスに戻した。いくつもの名前と象徴を重ね合わせられた、青白い一等星。
私が彼に与えたい名前は、内緒だ。
シリウス あけづき @akedukim
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