シリウス

あけづき

前編

 はてのない漆黒に、砕いた宝石をちりばめた空。

 私たちのはく白い息が、頭上に丸く開けた木々の間から立ち上って黒の中に溶けていく。

 息も、音も、何もかもを吸ってどこまでも透き通った天上。

 満天の星。



「おーい、すばる! 準備全部終わらせたぞ」

 背後からの声に、視線を落として振り向いた。レジャー用の椅子を目一杯リクライニングさせて二脚並べた横の、私によく似た顔。おおげさに肩をもみながら、なんで俺一人で、とぼやきながらも、私が見上げていた空を彼も見上げた。

「ほんとにすげぇな……こんなに見えるなんて」

 でしょう、と私はちょっと自慢したくなって笑って見せた。私自身、ここに来るのはもうしばらくぶりだ。昔、この近辺に住んでいた頃にはまだ小さくて、夜の山は危ないからとなかなか来ることは出来なかった。


 あれがオリオン座、そっちはおうし座。こっちはこいぬ座で、それはふたご座。数え切れないほどの星の中から明るい星を見つけて、見えない線でつないでいく。

「でも何でまた急に、こんなとこ来たいなんて言い出したんだよ?」

「言ったでしょ、返さなきゃいけないものがあるんだって」

 そう答えると、彼――なゆたは、星空から視線をおろして私にあきれた目を向けた。

「あれだろ、昔家出したときの……」

「そう。覚えてるじゃない」

 胸に抱いた、紫色の柔らかな布地をそっとなでる。

「信じられるかよ、あんな話」

「いかにもあんたが好きそうな話なのにね?」

「ははは、そーいう話は好きだし大概信じてるけど、まさかこんな身近で起こるわけないじゃん」

「ふーん、もったいない」

 さらり、と、冷たい風が木々を小さく揺らす。

 あの夜と同じ空だ。




 小さい頃、なゆたがうらやましくってたまらなかった。

 なゆたは足が速い。木登りが上手。勉強は……まぁ、私と同じくらいだったけど、誰とでもすぐに仲良くなれたし、私が怖いものをなゆたは全然気にかけなかった。双子なのに私となゆたは顔以外全然似ていなくて、なんでこうも違うのだろうと、いつもうらやましくてうらやましくて。

 お父さんもお母さんも先生も、みんななゆたばっかり褒めているような気がしていた。最初のうちはそれもただうらやましいだけだったのに、いつしか、胸の内にどろどろと、重くて苦しいものを感じるようになった。

 私はなゆたに出来ることが何一つうまく出来ない。おんなじ双子なのに。

 ――お父さんもお母さんも、きっとなゆたの方が好きなんだ。

 そんな考えが、頭の中を渦巻いていた。


 ちょうど十年前の今日、私は人生で唯一の家出をした。


 なゆたはその日、国語のテストで八十点を取った。なゆたは国語はいつも満点だったから、その点数をみてすっかりしょげかえった帰り道だった。

 私も同じ八十点。しかし、私の足取りは軽かった。国語は一番苦手で、いつも七十点しかとれなかったから。私は飛び跳ねるように、なゆたは足を引きずるのようにして、夕暮れがせまる中を歩いて帰った。

 我が家からはふんわりカレーのにおいが漂って、夕食が大好物なことに私の胸はより一層跳ね回った。

「ただいま!」

「ただいま……」

 荷物も置かず台所に飛び込んだ私に、お母さんはあらあら、と微笑みながら手をエプロンの裾で拭った。

「おかえりなさい。今日、テストだって言ってたわよね?」

「うんっ」

 お母さんにさっそく言われて、私は意気揚々とテストをランドセルからだそうとした。

 が、

「あれ?」

 ない、焦ってファイルを取り落とす。私のテストがない!

 私が慌ててランドセルをひっくり返している隣で、なゆたが少しうつむきながら自分のテストをお母さんに再出していた。

 点数を見て、お母さんは目を丸くする。

「あら、なゆたが国語で……珍しいじゃない」

 怒られちゃうのかな、と思って、探す手を止めてちらりとなゆたの方をみやる。なゆたはずっとうつむいたまま。

 でもお母さんは、困ったように笑って、なゆたの頭をなでた。

「まぁ、そういうこともあるわよ。ちょっと調子が悪かっただけね。次また頑張れば良いのよ」

 ほんのちょっぴり、胸に重いものを感じた。……私が得意な算数であんな点数をとっていたら、お母さんは同じように頭をなでてくれただろうか。

「すばるはどうだったの?」

 お母さんに顔を向けられて、はっと思い出す。そうだ、私のテスト! 慌ててごそごそ探すと、教科書に挟まっていたのを見つけた。

「はいっ!」

 お母さんの目の前で勢いよく広げると、お母さんは困ったような笑顔のまま軽く首を傾げた。

「――すばるはいつもと同じくらいね。もうちょっと頑張らないとねぇ」

 重苦しさが、喉元を締め上げた。


 無我夢中で走っていた。どこをどう走ったかなんて知らない、ただひたすら、重苦しさを振り切るようにして走り続けた。でも、走れば走るほど息は上がって余計に苦しくて、ぼろぼろ流れ落ちる涙が邪魔だと思った。私を呼ぶ声が背後から聞こえた気もしたけど、知らない。なにも知らない。嗚咽だけ抑えながら、私はがむしゃらに逃げ続けた。

「あっ」

 ふわり、と一瞬体が浮く感覚。すぐにべしゃり、とガタガタのアスファルトに倒れ込んだ。涙でよく見えなくて、木の根っこで隆起したところに蹴躓いてしまった。擦った膝が痛くて、余計に涙があふれ出た。

 重いのか苦しいのか痛いのかわからない涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだったけど、膝の痛みに気が向いたせいか、しばらくわんわん泣いたら少しばかり冷静になって、私はあたりを見渡した。

 気がつけばだいぶ遠くまで来てしまったようで、目の前には見覚えのない小さな山。それに、あたりはすっかり暗くなっていた。走っている間には気づかなかったけど、私はかなりの薄着で出てきてしまった。長袖のシャツに、カーディガン一枚。真冬の夜にこれでは寒すぎる。じっとしていては凍ってしまいそうで、私はぎゅっと身を縮めて手のひらに息を吐いた。

 しんと鎮まり返った暗闇の中で、ふと、空を見上げた。

 息をのむ。

「……すごい!」

 真っ暗だと思っていたのに、そこには砂のような光が溢れかえっていた。見たこともないほどのたくさんの光が。一瞬寒いことも忘れて、ぼうっと星々に見とれていた。

 急に、鋭い光が視界に入って思わず目をつぶる。車のライトだ。

 山のひときわ黒々とした影が目に入る。あそこなら、何にも邪魔されず星を眺められるかもしれない。


 山の真ん中あたりに木々が開けたところがあったから、そこに寝そべって空を見上げてみた。ほんのり湿った土が背中に冷たい。でもそれが気にならないくらい、私は星空に夢中だった。

 視界一面星の海。遮るものもなにもなし、邪魔な光も一切無かった。

 あれはオリオン座、あれはおうし座……私と同じ名前の星のかたまりがあるところ。理科の授業で習った星座を、ひとつひとつ指でなぞった。

 オリオン座の赤い星から斜め左下がこいぬ座、そこから右下の、飛び抜けて青白く、燦然と明るい星がシリウス。……そして、冬の大三角のお隣に、ふたご座。


  ふたご座の神話を、家にあった本で読んだことがある。カストルとポルックスは双子だったけど、弟のポルックスは神様で、兄のカストルは人間だったのだそうだ。神様って言うくらいなんだから、ポルックスはなんでも出来たんだろうなぁ、なんて考えてしまう。

 私となゆたなら、姉の私はきっとカストル。弟のなゆたは、ポルックス。

 カストルは、自分と全然違う弟を、どんな風に思っていたんだろう。

 ……背中の冷たさが、今になって身のうちにしみてきた。帰ろうか、とも思ったけれど、そういえば道が分からないということに気がつく。どうやってここまで辿り着いたかわからないから、どうやって帰れば良いのか全く分からない。

 でも、いっか。みんななゆたの方が好きなんだから、私がいなくなったって誰も困ったりしないんだ。

 胸がまた苦しくなって、星の輪郭がぼやけた。


 ぱさり。急に暖かい何かが落ちてきて、視界が真っ暗になった。

「な、なに」

 咄嗟に身を起こしたけど顔には何かが引っかかったままで何も見えない。

「そんな格好では風邪を引く」

 落ちてきたのはふかふかと手触りの良い、紫色の布だった。降ってきた声は低い、男のひとの声。目の前の障害物をのけると、背の高い男のひとが私のことを見下ろしていた。

 暗くてよく見えないけど、外国のひとみたい。肌が浅黒くて、肩にかかるかくらいの黒髪の先はほのかに青く輝いて見えた。

 でも、一番驚いたのはその瞳だ。とっても澄んでいて、まるで自ら光を放っているような、そんな青い目。

 私は彼を見上げて座り直した。

「……あなたは、だれ?」

 悪いひとではなさそうだけど。男のひとの目は、長いまつげの下で私をじっと見つめていた。

「……おまえはどうしてこんなところに? 寒いだろう」

 私の質問には答えず、質問で返す。きゅっと、布を握る手に力が入った。

「家出したの」

 気がつけば、口からするりと出てきていた。話し出したらもうとまらなくて、私は息せき切って全部話した。なゆたが出来ることは私には出来ないこと、みんななゆたの方が好きなのに違いないこと、そして、今日のテストの話。

 時系列も論理もめちゃくちゃ、勢いに任せきったつたない話し方に違いなかったけど、男のひとはただ黙って、かすかに頷きながら、私の話を聞いてくれた。

「――私はただ、『よくがんばったね』って、お母さんに褒めてもらいたかったのに」

 そう、私は褒めてもらいたかった。なのにお母さんは困ったように笑った。

「きっと、私のことなんか嫌いなんだ」

 男のひとは、そうか、と小さくつぶやいて、おもむろに私の隣に腰を下ろした。きれいな青い瞳が、星空を見上げる。

「少し、話をしようか」

 柔らかい声音で、男のひとがそう切り出した。私が隣で頷くと、耳に心地よい声で、ゆっくりと話し始めた。

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