思春期症候群の先輩少女は後輩男子の名前を聞きそびれる

南雲 千歳(なぐも ちとせ)

第1話

 それは夏休みが終り、季節も移り変わろうとしていた初秋しょしゅうの頃。

 平日の授業が終わった、る日の放課後──私、桧藤ひとう朋花ともかは、どこからか聞こえて来るピアノの音色に引き寄せられ──気が付けば、音楽室の前に立っていた。

 どこかで聞いた曲だけど、授業の疲れもあって、曲名が上手く思い出せ無い。

 しばらくの間、私はアルミ合金の重たい防音ドアの前に立ち、壮大かつ繊細なその曲を聴いていたが、その内に曲名を確認したい気持ちが抑え切れ無くなり、曲が終わった辺りでゆっくりとドアを開き、中を覗かせて貰った。

 満足そうな表情でピアノの前の椅子に腰掛けて譜面をめくっていたのは──意外にもこの学校の先生では無く、二年生の色の上履きを履いた男の子だったので、私は驚いた。

 そして、私は扉の締まる音に気付いてこちらを向いた彼に声を掛け、勝手な入室の非礼ひれいあやまったったのち、さっき弾いていた曲の曲名を問い質したのだった。

 私の質問に、彼はフランクな調子で答える。

「あれ? この曲知ら無い? これはね、先週アルバムが出た、アニメ映画の劇中曲だよ。遊びで少しアレンジしてピアノで弾いてみたんだけど、こんな有名な曲を知ら無い何て、ひどく珍しい人だね、君は」

「あ、ご、ごめんなさい……。そうね。良く思い出したら、知ってたかも……」

 私は作り笑いをしながら、恥ずかしさに行き場の無い視線をあちこちに逸らす。

「あはっ、やっぱりそう? まあ、別に良いよ。アレンジをすると、何の曲だか分から無くなる人は結構いるしね」

 その後、私は──運指うんしの練習なのか、バッハのBWV772を、『インヴェンションとシンフォニア』第1番エレガントかつ軽やかに弾きながらしゃべ饒舌じょうぜつな彼──と会話する事になった。

 曲を暗記しているのか、彼は譜面も見ずに、格調高いバッハの調べを奏でながら涼しい顔でことげに会話を繰り出す。

「ねえ、君ってもしかして、音楽系の部活に入ってる人?」

「あ、ううん。部活動は美術部。その、ピアノは前に少し習った事があるだけ」

「そうなんだ。習ったって、どれぐらい?」

「小学5年生から始めて、高1の時に辞めたから、5年くらい、かな」

 私のピアノ経歴を聞いて、彼は感心した様に言う。

「へえ、君も少しは弾く方なんだ? ……道理で、僕の演奏が気になった訳だ」

 こう言われて、私は気恥ずかしさで何も言えずに、ただ黙り込んで仕舞う。

「君、名前は?」

「ええと、3年6組の桧藤ひとう桧藤ひとう朋花ともか

「ふぅん、桧藤ひとうさんって言うんだ。僕の場合は、ピアノを始めたのは2歳くらいの時かな。気が付いた時にはピアノを弾いていた。自慢じゃ無いけど、もうプロのピアニストである僕から言わせれば、ピアノをくって言うのは、ただ指で鍵盤を押すだけで済む何て言う生半可なまはんかなものじゃあ無いよ。演奏って言うのは、この横たわるグランドピアノの巨体から、この手で音をつかみ取って、こっちに手繰たぐりり寄せる作業なんだ」

「そ、そうなの……」

 そこでようやく、私は相槌を打つ。

「さて、転校して来たばかりだけど、この学校ではどんな曲を弾く……弾かされる事になるのかな。まさかとは思うけど、君はコルサコフの『くまんばちの飛行』を弾いてくれとか言わないよね? 別に弾け無い訳じゃあ無いけど、あれをピアノできちんと弾き切るのは、プロでも非常に疲れるんだ。どうしてもって言うなら、音階を下げて弾いた物を録音して、それを2倍速くらいで再生すれば良いんじゃ無いかな。それなら楽だから、通常料金でいけど。あの曲を弾くのがどれだけ大変か知りたければ、とりあえずその辺のマリンバかドラムでやって見たらいんじゃ無い?」

 演奏が余りにも見事なので、彼の言葉の中の「演奏にはお金を取る」と言う部分が、割とすんなりと受け入れられて仕舞う。

「そんなに大変なの?」

「ああ、それはもうね。忙しい演奏に余程よほど慣れてる人で無いと、翌日は腕が筋肉痛になるだろうね。……そうだ、この学校って軽音けいおん部はあったっけ? ロックとかポップをやる、あの」

「ええと、無かった……と思う」

「そうか、残念だな。じゃあ、僕のドラムを聞かせる機会も無いかな」

「あなたって、ドラムも出来るの?」

「ああ。でも、腕前はピアノほどじゃ無いけどね。前の学校じゃあ、そう言う所の演奏を手伝ったりもしたよ。僕はまずエレクトーン、そこが足りていればドラム。その後、暇潰しのつもりで気まぐれにドラムの練習を続けたら、セミプロ級になって仕舞ったって訳さ。まあ、これはちょっとした自慢だけどね。そんな風に自分の才能をひけらかさずにはいられない下賤げせんな僕を、君はわらって良いよ。ははっ」

「そんな、わらう何て」

 そう言いながらも、私も彼の笑顔に釣られて笑って仕舞った。

「ドラムの経験は、メトロノーム無しでもテンポを把握しながらピアノの演奏をするには、十分役に立ったと思うよ。楽器が何であれ、きながら正確なテンポを維持するのって、難しいからね」

「そうなの?」

「ああ。ほら、人の感覚って、頼りになるようで、結構いい加減だからさ……。速いように思えて遅い時もあるし、遅い様でいて速い時もある。脈拍やその日の体調によって、同じテンポでも速さが違って感じられたりするものなんだ。これって、僕が軟弱なせいかな」

「違うと思うけど。どうやって正確にテンポを合わせるの?」

「それは、殆どカンだよ。長年の経験のみによってつちかわれるね。でもそうだな、この場所なら、そこの時計の秒針を見ながら、テンポを確認しつついたりもするけどね」

「器用なのね」

「いや、むしろ不器用なんだよ、僕は。音楽と言う一つの方向性にしか努力を発揮出来無いから。マルチな分野で活躍する事は無理なんだ」

「それは、誰でも同じだと思うけど……」

「そうかな。さて──それじゃあ、ウォーミングアップも済んだし、ちょっとまともに弾いてみようかな。短い曲だから、弾き終わるまで君は静かにしててくれる?」

「ええ」

 彼は別の曲を弾き始める。

 この曲は何度も聴いた事があるので知っている──モーツァルトのKV331第3楽章『トルコ行進曲』だ。

 しかし、これほどの演奏を、私は聴いた事が無かった。

 彼は難易度の高いその曲を、サビに当たる山場以外、かなりの高速で弾いているにもかかわらず、速度の変化には全く無理が無い。

 時として花火の如く輝き、時として小川のように流れる演奏を、わずか1分半ほどで一気いっきに弾き終えた彼は、宙に浮かせた両手でグーとパーを繰り返しながら、満足げに深呼吸をする。

「ふう……こんな物かな。ん、どうしたのかな、そんな怪訝な顔をして? 有名なコンテストで優勝した事もある僕の演奏に、何かご不満な点でも?」

 彼は先程のバッハを再度かなでながら、そう私に質問する。

「え? あ、ううん。そうじゃ無くて……」

 彼の弾き方は全く完璧だったが、私は彼の奏でるピアノの音の方に、何か違和感を覚えたのだ。

「その……少し、音の響きが変だなって」

「へえ、どこが? もし君にその箇所かしょが分かるなら、この鍵盤の上で指定してくれる?」

「あ、ええと……。ちょっと、どいて貰え無い?」

「いいよ。はい」

 彼は演奏を止め、椅子から立ち上がってその横に立つ。

「ごめんなさい、邪魔して……。ええと、確か、この辺──」

 私は並んでいる鍵盤の白鍵に当てた指を右へ滑らせ、ある場所で手を止めると、軽く打鍵だけんして鳴らし、そこを始めとして1つずつ音階を上げて行った。

「あっ……ほら、ここ、この辺り……」

 やや抑揚のある音が響く。

「へえ、君も気付いた? そこら辺、音が狂ってるの」

「え、ええ……」

「はは、これは驚いたよ。ここの音楽の先生でも気付か無かったのに」

「それは、調律ちょうりつに使う予算が出せ無いからじゃ……」

「だから気付か無かったフリをした? 違うね。僕は何か変じゃ無いかと直接聞いてみたけど、あれは本当に分かってい無かった。曲を聴きながらここの音の狂いに気付いた、君の音感は鋭いよ」

「え? そ、そう? ありがとう」

 そう褒められて、私はそこはかと無い高揚感を覚える。

 彼は椅子に戻り、言った。

「やっぱり気になるよね……そこ。音が間延びしている。音の振幅を床に例えるなら、全くたいらじゃ無いね。理想的な音を中心として、低音と高音に交互に振れている。基本的には、ピアノの音って言うのは極力、フラットであるべきなんだ」

「へえ……そう」

「しかも、この音の狂いの原因は、この手の学校とかで毎日の様に使われるピアノでありがちな、げんを叩くハンマーの崩れじゃ無い。そう言う酷使こくしされて潰れたハンマーの場合は、音そのものがまるで霧の中の様ににごるからね。このピアノの音は一応澄んでるけど、周波数のグラフで言えば、約2秒ごとに山谷がある。これは、夏暑くて冬寒い、この音楽室の環境がもたらした弦の張りの狂いだよ」

「そんな事まで分かるの?」

「ああ、長くピアノを弾いていればね。僕は色々な場所にあるピアノを弾いた事があるから」

すごいのね……。ええと、この弦の張りを直せば、音が直るのね?」

「ま、そうなるかな」

 私は大きな蓋が開けられたピアノの後ろ側を覗き込む。

「ああ、そこ危険だから、手や頭を入れない方が良いよ。万が一、つっかいが外れたら、挟まって怪我をするだろう?」

「そう、だけど……ねえ、あなた、何か調律用の器具とか、持って無い?」

「一応あるよ。でも君、調律とか出来るの?」

「出来る……と思うけど」

 実際の所、そんな事が出来る自信の根拠は無い。

「じゃあ、やって貰おうかな。調律の種類はなに? 純正? それともキルンベルガー?」

「えっと……」

 聞き慣れ無い言葉を聞いて、私は口ごもる。

「あはっ、今のはただの冗談。じゃあ平均律で良いよ。このピアノは元から平均律で調律されてるからね。どうせだから今直して置こう。大丈夫、君が多少失敗しても、僕が直すから」

「そう、ありがとう」

 どうやら、私は最近読んだライトノベルに出て鴨志田一 著『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』来た病気──思春期症候群にかかり、異能力が備わって仕舞ったらしい。

 自信の無い人でも、根拠の無い自信にもとづいて行動出来て仕舞う能力だ。

 私は彼から器具を借り、幾つかの弦の張りの修正を試みた。

 弦がまるで自分の手足の様に感じ取れるのは何故だろう──そんな事を思いながら、私は調律を済ませる。

 彼は指で鍵盤を何度か叩いた。

「うん、良い音だ。良くやったじゃ無いか。君のおかげで、少なくとも、このピアノの音の狂いは完璧に直ったよ」

「はぁ、そう。良かった……」

 胸を撫で下ろす。

「所で、ちょっと、恥ずかしい事を聞くんだけど……。純正とかキルンベルガーって、何……?」

「えっ? はは……。君は音感は抜群だけど、知識の方はまだまだみたいだね。じゃあ、解説してあげるから、良く聞いてよ? まず、純正律って言うのは、簡単に言えばハ長調用の音階で……」

  そんな会話をしながら、私は彼の演奏を幾つか聴かせてもらった。

 ──ふと、壁に掛かっている大きな丸い時計を見て気付く。

「あ、いけない。私、もう帰らないと……」

「そうだね。学校が閉まる前に、僕も帰らなきゃ。じゃあ最後に帰りの曲を1つ」

 KV331の第1楽章をさらりと弾き終えると、彼はピアノの鍵盤の蓋と上蓋を閉めた。

「さあ、帰ろう」

「あ、私、こっちだから……」

 私は彼とは違う方の昇降口を手で示す。

「あれ? 君って、本当に3年生だったの?」

「え? さっき名乗った時に、私のクラス、教えたと思うけど……」

「ははっ、ばつの悪さから出鱈目でたらめを言ったんじゃ無いかと思ったんだ。その名札とか上履きの色って、3年生の色なんだ? じゃ、しばらくくの間ですが、よろしくお願いしますよ。先輩」

「あ、うん。て言うか、さっきまでタメ口で話してたのに、もう今更いまさら敬語なんめてよ……。後、あなたの名前を教えて」

「あ、僕の名前? 別に今教え無くても、すぐに先輩は知る事になると思うよ。ネットで検索すれば、僕が出たピアノコンペとかの動画を見付けられるだろうしね」

「何よ、それ。名前ぐらい、教えてくれても良いじゃ無いの……はぁ」

 自然と溜息が出る。

 私は、随分ずいぶん意地悪いじわるな後輩と知り合って仕舞った様だ。

「むしろ、君にはそうして欲しいな。音楽室は度々使わせて貰える事になってるから、また来ると良いよ。それじゃあ、さようなら」

「ええ、またね……」

 そう挨拶を交わし──私は心を震わせつつ、家に帰った。

 後で考えると、この時、彼の方もそうだったのかも知れ無い。

 以降、私は放課後に度々たびたび音楽室へとおもむき、ピアノを聴かせて貰いながら彼との会話を交わす事になるのだった。

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思春期症候群の先輩少女は後輩男子の名前を聞きそびれる 南雲 千歳(なぐも ちとせ) @Chitose_Nagumo

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