河童と雨傘と

里内和也

河童と雨傘と

 初詣はつもうでを終えて帰ろうとしたら、河童かっぱがいた。

 いや。僕はこれまでに、本物の河童は写真でさえも見たことがないから、目の前にいるのがそうなのかどうか確証はない。

 だが、頭の皿といい、背中の甲羅こうらといい、手足の指についた水かきといい、これが河童でなければ何だというのか。これ以上河童らしい河童も、そうそういないだろう。

 その河童が僕に、開いた傘を差し出して言った。

「入っていくか?」

 空からは、こまかな雨が降っている。

 出かける時にはくもっているだけだったので、大丈夫だろうとたかをくくって傘を持たずに来たのだが、甘かった。帰る段になって、こらえきれなくなった空がぽつりぽつりと雨を落とし始めた。

 しまった、とやんだものの、今さらどうしようもない。

 当然ながら参拝客は、傘を持っていれば差し、なければ足を速めている。僕も雨足あまあしが強くならないうちに、少しでもれないうちにアパートへ急ごう、と小走りになりかけたところに――河童である。

 河童は、漠然ばくぜんと思い描いていたよりも背丈せたけが低かった。大学生の男としてはやや小柄こがらな僕の、腰ぐらいまでしかない。まるで幼稚園児か、小学校低学年ぐらいの子供だ。

 その小さな体で僕の頭の上に傘を差しかけようとして、背伸びをし、腕もいっぱいにまで伸ばしている。これではいけないと気づき、僕は腰を落として、河童と目線を合わせた。

 まずは、一番気になっていることをたずねてみる。

「君は、河童だよね?」

 河童はくりくりと目を動かした。

「そうだよ」

「どうして僕を、傘に入れてくれるの?」

「だって、そのままじゃ濡れちまうだろ?」

「いや、そうじゃなくて。他にも傘を持ってない人はいっぱいいるのに、なぜその中から僕を選んだのかなって、思ったんだよ」

 河童はぱちくりとまばたきした。

「他のやつらはだめだよ。俺がここにいたって、気づきもしない」

「え?」

 改めて周囲に目をやると、僕たちのほうに視線を向けている者は誰もいない。まるで、僕も河童も存在しないかのように、次々と通り過ぎていく。

 頭上の傘は、ちゃんと雨を防いでくれているのに。それを持っているのは、すぐそばにいる河童なのに。

 その河童は、きろきろとした目で僕の様子をうかがっている。

「どうするんだ? この雨はしばらくやまないぞ。濡れて帰るつもりなら、止めやしないけど」

「ええと。入れてもらえるのなら、それはありがたいけれど、君はいいの? 僕が帰るのはあっちの方なんだ。行く先が違うのに入れてもらうんじゃ、さすがに申し訳ないよ。それほど遠くないし、走って帰るから」

 アパートがある方角を指さしたら、河童はくちばしのはしをにっとつり上げた。

「俺も向こうへ行くんだ。だからお前に声をかけたんだ」

 そう言われれば、断る理由もない。僕は河童に右手を差し出した。

「傘は僕が持つよ。そのほうが、君が腕を伸ばさなくても済むから」

 自分の物を人に預けるのは嫌がるだろうか、とちょっと身構えていたが、思いのほかあっさり渡してくれた。

 シンプルな黒い傘だ。デザインはともかく、この河童には似つかわしくないぐらい大きい。

 小さな体に合わせて、僕はゆっくり歩を進めた。だが、その必要はなかったらしい。

 河童がぺたくたと足を運ぶさまは、見た目と不釣り合いなほどすばやかった。どうかすると、僕を置いて先へ行ってしまいそうなほど。それでいて、急いでどこかへ行こうとしているようにも見えない。これが河童のペースらしい。

 雨はすっかり本降ほんぶりになった。

 てつき、張り詰めていた空気が湿気を含んでいく。参道の木々もアスファルトも、来た時より柔らかな印象だ。おごそかで、身を正したくなる空気に包まれているのは変わらないのに、また別の場所のようにも感じる。

 歩きながら、ふと浮かんだ疑問を河童にぶつけてみた。

「河童にも、傘を差す必要があるの?」

 河童はくるんと目を回した。

「雨が降ったら傘を差すのは当たり前だろ。なんでそんなことを聞くんだ?」

 きっぱり言い切られて、僕のほうがおされた。言葉足らずだったと気づき、少々あせりながら言いつくろった。

「えっと、河童は頭の皿が乾くと弱ってしまうって聞いたことがあるから。それぐらい体が潤ってなきゃいけないのに、雨をけようとするのが何だか不思議だったんだよ」

 河童はけけけと笑った。

「どんなに好きだろうと必要だろうと、多けりゃ多いほどいいってもんじゃないだろ」

「そうなの?」

「俺はきゅうりが好物だけど、山ほどあったって食べ切れやしない。食べずに置いておけば腐っちまうし、無理やり腹に詰め込んだら体を壊す。水だって同じだ」

 僕にも覚えのあるたとえを聞いて、すとんと納得がいった。自分の体が利用できる限度を超えた量は、負担になるだけだ。

 今度は河童が質問してきた。

「お前はなんで、一人で神社へ行ってたんだ?」

 ぐるぐると動く目が、興味深げにこちらを見ている。

 なぜそんなことを聞くんだろう、と不思議に思ったが、隠すようなことでもないのでありのままに答えた。

「大学の友達はみんな、旅行に行ったり実家に帰ったりしてるんだよ。遠出とおでせずにこの町にいるやつに限って、正月は彼女と二人きりで過ごすなんていうし。一人で初詣なんて、おかしいかな」

「おかしいかどうかは、俺は知らない。ただ、他のやつを見てると、たいてい誰かと一緒にいるみたいだ。だから聞いた」

 言われて、さりなく周囲に目をやった。参道はすでに通り過ぎたが、まだ神社にほど近いので、これから初詣に行くと思われる人や、参拝を終えてきたのであろう人も多く見られる。

 ちょこまかと走り回る子供と、それをたしなめる親。そのまま新年会にでもなだれ込みそうな、友人同士と見られる集団。ぴったり寄り添う、初々ういういしい雰囲気の男女。

 ざっと見たところ、一人で来ていると思われる人はいない。改めて、自分が一人で正月を過ごしているということを突き付けられた。

 これほど一人きりの正月は初めてだった。

 当初は実家に帰ろうかと思っていたけれど、両親が温泉旅行のペア宿泊券を懸賞で当てて、それを正月に使うことにしたというので、その案は消えた。

 アパートでひっそりと大晦日おおみそかや元旦を迎えながら、初詣をどうするか思案した。

 半ば惰性だせいでとはいえ、毎年近所の神社へ参拝に行っている。行かなくてはいけない、とまでは思わないが、一緒に行く相手がいないからやめる、という理屈も何だかおかしい気がした。

 おまけに、バイトをしている店も正月は休みだ。時間はあり余っている。

 迷った末、こうして一人で参拝に来た、というわけだ。

 一人で過ごすことが苦にならない性質たちなので、取り立てて寂しいとは思わない。思わないが、正月という空間のどこに身を置けばいいのか、時折判断しかねる。普段なら一人でいても、こんな風に感じたりしないのだが。

 僕は小さく息をつき、ちょっと苦笑いした。

「今年の僕は、あんまり運が良くないみたいだよ。正月早々、一人で過ごさざるを得ないし、雨に降られるし。そういえば、さっき引いたおみくじも末吉だったっけ」

 河童に話しているとも、ひとり言ともつかないつぶやきが、思わずこぼれ出た。

 愚痴ぐちめかないように、軽い調子で言ったつもりだけれど、実際のところどう聞こえたのかはわからない。

 河童の目が、きょろんと動いた。

「おみくじって何だ?」

 きょを突かれた。昔から語り伝えられている妖怪が、昔からの風習でもあるおみくじを知らないことが、なんとなく意外だった。

 でもよくよく考えてみれば、河童だったら知ってるに違いないなんて、勝手なイメージもいいところか。

「ええと、おみくじっていうのは、この先自分に起きるのがいいことか悪いことかを教えてくれるものだよ。筒の中に棒をたくさん入れておいて、振った時にどの棒が出てくるかで運勢の良し悪しを判断するんだ」

「ああ。吉凶を占うものなのか」

 力が抜けた。そっちならわかるのか。

 河童の目が、再びきょろんと動いた。

「で、なんで『末吉』だと運がよくないんだ?」

「え?」

「『末』に『吉』だったら、今は良くなくても、ずっと先にはいいことが起きるんだろ? それじゃ不満なのか?」

 すぐには何も言葉が出てこなかった。

 そういう解釈もありなんだろうか。

 思わずみがこぼれた。何かとても、貴重なことを教えてもらったような気分だった。

「そうだね。そのうち、ちゃんといいこともあるんだから、それで充分って思わなきゃね」

 それからしばらく、お互い無言のまま歩き続けた。色々聞いてみたい気もしたけれど、何も聞く必要なんてないようにも思えた。

 やがて、僕が住んでるアパートの前にたどり着いた。河童に傘を返しながら、礼を言う。

「ありがとう。助かったよ」

「じゃあな」

「君はどこへ行くの?」

 あっさり立ち去ろうとする背に、慌てて問いかける。河童がどこから来て、どこへ行くつもりなのか、知らないことに今さらながら気づいた。

 河童は半身だけ振り向いて、傘を少し傾けた。

「向こうにある、大きな川だよ。俺は普段はたいてい、そこにいる」

 それだけ言い残して、ぺたくたと歩いて行ってしまった。

 確かに、河童が向かっている方角には大きな川がある。割と自然が残っているし、水もきれいだ。いかにも河童が好みそうな雰囲気ではある。

 ではなぜ、僕と出会ったとき神社のそばにいたんだろうか。そして何より、どうして僕にだけ河童が見えたのか。結局聞きそびれてしまった。

 まあいい。そんなのはきっと、それほど重要なことじゃない。

 

 数時間後に、雨はあがった。

 数日たつと、そこかしこに満ちていた正月の空気も、随分薄れた。

 僕は河童がいるという川へ何度か行ってみたけれど、再び出会うことはなかった。

 そもそも河童なんていないのか、それとも僕に見えないだけなのかはわからない。ただ、雨が降ると無意識のうちに探してしまう――あの黒い雨傘を。


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