蟷螂と線香
鹽夜亮
第1話 蟷螂と線香
家の中に虫が出現すると、人は大いに慌てる。不思議なものだが、これも一種の縄張り意識のようなものなのだろうか。それは私にとっても、無論例外ではない。
脱衣所、脱ぎ散らかした灰色のズボンの上に、褐色の異形が居座っている。それは、自慢の大きな鎌をゆらりゆらりと動かしながら、こちらをじっと見つめている。
さて、どうしたものか。蟷螂を嫌う祖父は、そそくさと逃げてしまった。叩き殺すにも、これほど大きいものだと後始末も面倒だ。気持ちのいいものではない。殺虫剤を使うにしても、時間がかかるだろう。それに、無駄な殺生は好ましくないというのが私の思うところでもある。
私は、脱衣所を出て、台所へと移動すると、ドライバーや雑多な様々が詰め込まれた戸棚を探る。そこから、割り箸を手に取ると、そそくさと脱衣所に戻った。
蟷螂は、相も変わらずゆったりとその場所から動く事もなく、居座り続けている。随分と暢気なものだ。見つけたのが私でなければ、まず間違いなく殺されているというのに。
私は割り箸をパキリと二つに分けると、蟷螂の硬い上半身をそれで挟み込む。そのまま持ち上げようとしたが、鋭い鎌や足のかぎ爪のようなトゲがズボンを掴んで離そうとしない。数分格闘したものの、これはなかなか骨の折れる作業だということがわかった。眉間に皺を寄せ、思案する私を前に、蟷螂は逃げる訳でもなく、ただ布に縋り付いている。
私はもう一つ割り箸を台所に取りにいくと、二つの箸を両手にもち、片方で布に食い込んだ細い足や鎌を上手く、そしてできるだけ蟷螂を傷つけないように外しつつ、もう片方で持ち上げようと試みた。
さて、そうしてまた数分が過ぎる。こうして長い間格闘しながら褐色のそれを観察していると、どうやら相当の手負いであることがわかった。自慢の鎌は、左のそれを残して、右のものを失っている。細長い足は、上から見て右後ろにあるものの先がちぎれてなくなっている。そして何より、腹部が半分潰れて、中からグロテスクな内蔵が覗いている。私はそれらを痛々しく感じると同時に、この蟷螂が大した抵抗も見せず、こうして二つの箸に弄られるがままになっていることにも納得する。割合、かなり弱っているのだろう。これだけの傷を負っているならば、さもありなん、というものだ。
なんとか、傷だらけの蟷螂を布から引きはがした私は、落とさないように慎重に、そしてさらに怪我を加えないようにと箸に加える両手の力に細心の注意をはらいつつ、脱衣所から運び出した。居間の窓を開けると、目の前にある南天の木の上のあたり、なるべく居心地のよさそうな場所を探し当て、そこに上手く鎌が引っかかるようにして箸から蟷螂を降ろした。
南天に降り立った蟷螂は、動じるわけでもなくただじっとしている。もしや死んでいるのか、と疑問に思った私が逆三角形をした頭をこつんと箸でつつくと、それを嫌がるかのように、蟷螂はゆっくりと残った鎌を振った。私はそれを見て、ほっと安堵の息を漏らす。特にどうというわけでもないが、わざわざ数十分も格闘して外の世界に戻した命だ、できることなら長生きしてもらいたい。
蟷螂から離れ、居間の窓を閉じた私は、度々その様子を気にしながら、闖入者を排除した日常生活を再開した。
一日が過ぎても、南天の上の蟷螂はわずか数十センチしか動きを見せない。いつの間にか、私はこの蟷螂を心の底から長生きしろと応援するようになっていた。時たま、足掻くように動く鎌や、千切れた痛々しい足、内蔵を晒した腹部が、どこか満身創痍の自分自身と重なって見えて仕方が無い。
人も生き物もすべて同じ命を持つというならば、今私の前、窓を隔てた先の南天の上で必死に生きようと足掻いている蟷螂と、抗鬱剤や睡眠薬に依存しながらボロボロに汚れ切った命をなんとか息長らえている私は、どこか似ているのかもしれない。それが憐憫なのか、共感なのか、ただの傲慢な気まぐれなのか、いったい自分の何からわき上がる感情であるのか、私には判断しかねた。しかし、私の心の中、その関心の視線を一点に集めているのは、間違いなくこの手負いの蟷螂ただ一つだった。
さらに一日が過ぎた。朝、目を覚ました私は、数日前から吸いはじめた煙草に火を点けると、いそいそと蟷螂の様子を見ようと南天の木を目指した。辿りつくと、元気に動き回る蟷螂の幻想に夢を見ながら、南天の葉の隙間を覗き込む。
しかし、そこに蟷螂の姿がない。
丸一日をかけてもわずか数十センチしか動けなかった蟷螂が、急に南天の木から降りるほどの大移動を為し遂げられるだろうか。先ほどとの幻想とは裏腹に、嫌な感覚と予感に苛まれて、南天の下、昨日から降り続いた雨にじっとりと濡れた地面に目を向ける。
蟷螂は、そこにいた。落下したのだろうか、仰向けの体勢で、じっと動く事もなく、濡れた地面の上に横たわっている。そして何より、その蟷螂の状態を物語っているものがあった。横たわる彼の体中には、小さな蟻が這い回っていた。
昨日までは、この南天の上で、瀕死の様相を呈しながらも残った鎌を木に食い込ませ、その生を全うしようとしていた蟷螂が、たった一日で蟻の餌になっていた。
煙草を吹かしながら、私はそれをただ見つめていた。諸行無常、弱肉強食…そして生有る者は必ず死す…そんな言葉たちが頭を過っていた。どれだけ足掻き、どこかの誰かに応援されようが、救済されようが、それは誰に対しても絶対不変の運命として訪れる。その当たり前が、残酷に思えて仕方が無く、まだ吸い慣れない煙草の煙が口の中で苦みを増していく。
「お線香、一本持ってこようか。」
蟷螂をじっと見つめていた私に、母が家の中から問いかける。その声で、私は現実に引き戻されたような気になった。
「…うん。火は、危ないからライターはいらないよ。」
私は、蟻に塗れた蟷螂から目を離す事ができない。まるで、自分の未来を見ているようで、私は、悲観とも諦観とも形容できない曖昧な感情の渦の中を漂っていた。
「はい。蟷螂、死んじゃったね。…。」
母が窓を開け、私に一本の線香を手渡す。
「うん。でも、傷だらけでも、ずいぶん、彼は頑張ったよ。」
私はそれを受け取ると、蟻に貪り食われる蟷螂の上に、そっと置いた。その行為が、何か救済になるとは思っていなかった。ただ、そうしたかった。いやに、蟷螂の死体は私の感傷を刺激した。
手を合わせ、「よく頑張ったな、安らかに眠れよ」と心の中で唱え終える頃には、煙草はほぼ吸い尽くしていた。もう一度、蟷螂の死体をじっと眺めると、私は煙草を吸い殻入れの代わりとして使っている壷の中に捨て、南天の木の下を後にした。
後には、煙草の苦みと死という絶対の神の幻想だけが、私の中に燻って残った。
蟷螂と線香 鹽夜亮 @yuu1201
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