さいわいなことり

青い向日葵

さいわいなことり

 瀬戸内海に面した気候の穏やかな街で、母と二人、気ままに暮らしていました。父はある日ふと思いついた脱サラで未経験の商売を開始する為、遠い地方へセミナーに参加しに行ったきり、半年に一度たった一晩しか帰りませんでした。

 そんな日々が二年か三年ほど続きました。幼い頃の記憶なので、この辺りの時間の長さが今ひとつわからないのです。

 近所には母の弟である叔父さんが、奥さんと、病気の母親(私から見て祖母)と三人で住んでおり、時々遊びに行きました。叔父さんは画家で、水彩の風景画や人物を得意とし、新聞に漫画を連載しておりました。私は絵を描くのが大好きで、叔父さんは私のスケッチブックを見て褒めてくれました。

 私はぼんやりと、この街で好きな絵を描いて生きて行きたいなあと子供心に思い描いたこともありました。


 ところが。父が研修を終えて、会社の決まり事で、生まれ故郷の遠い地方へ店を出すので、家族で引っ越すと言いました。

 私は間もなく幼稚園を卒園し、学校という未知の世界へ行くことを大きなプレッシャーと不安の中で待っているところでした。

 慣れ親しんだ生まれ故郷の小さな街でさえ不安で仕方がなく、心細くて毎日ドキドキしていたのに、知らない土地の異世界のような場所で、知人も予備知識もなく小学生になるなんて、私はどうしたらいいのかわからなくなりました。

 子供ながらに、絶望したのです。


 引っ越しは、あっという間に進んで、私は雪国の山に囲まれた言葉の通じない場所へ、まさしく異世界に転移するかの如く、転居を余儀なくされました。

 子供は順応性があると言われますが、外国語のような方言をひと月ほどで完全マスターしても尚、馴染んだとは言えず、言葉のイントネーションや童謡の歌詞の違いや振り付けの違いなど、あらゆるカルチャーショックについて嘲笑され、自信をなくして萎縮する私は虐めに遭い、声を失うという神経症状さえ現れました。


 両親は、慣れない初めての商売に四苦八苦して、やがて追い詰められ、夕方に出勤してから翌朝まで帰らない日も多くなりました。病気の祖母が、近畿地方から遥々やって来て、見知らぬ土地で同居し、私の身の周りの世話と躾をしました。祖母は不自由な身体でしたが非常に頭が良く、躾は厳しかったので、私は懐くことなく、どちらかというと苦手でした。幼い子供がこんなに学校や地域でつらい思いをしているのに、優しい言葉のひとつもないのかと、なんて酷い人なんだと思っていました。今思えば、私は祖母に性格がそっくりでした。自分にも他人にも厳しく、真面目に考えてしまうのです。

 祖母は、慣れない土地で、呆気なく亡くなりました。持病ではなく、食あたりでした。半日で死に至る感染症の恐ろしさを子供だった私は目の当たりにしました。


 緊急の葬儀でも、形式や費用のことで夫婦と親族の間で揉めて、母は親を喪った悲しみよりも、申し訳なさと、自分の立場の弱さを悔しがって泣いていました。

 そんな不穏な田舎暮らしでしたが、祖母の死もあって、脱サラから始めた店は挫折し、転職を繰り返しながら、父は立派な学歴も最初に就職していた大企業の面影も虚しく、私たち家族は底辺の暮らしを続けました。

 母は親族と折り合いが悪く、私たちは、父の故郷でありながら異世界のようなその土地で、狭い範囲で引っ越しを繰り返していたのです。引越貧乏などと言いますが、本当にそのままの貧困でした。私は小学校を五回転校しました。


 母も、慣れない土地で友達も居ない環境が寂しかったのでしょう。私の為と言って、人間が暮らすのもぎりぎりの生活の中で、小鳥を飼っていました。

 手乗りのセキセイインコです。よく懐いて言葉も真似ることが出来て、可愛らしい小鳥たちに癒され、束の間の和やかな気持ちを沢山もらいました。

 小鳥たちと言ったのは、一羽ではなくて、何羽も入れ替わりに飼っていたからです。窓から逃げてしまったり、病気に罹ってすぐに死んでしまったり、理由は様々でしたが、小鳥たちは短命でした。

 子供だった私は、母が選んで買ってきて与えるという形に従いながら、出来る範囲で小鳥の世話をして、手や肩に乗せて可愛がっていました。人間より動物が好きだったので、小鳥が友達みたいな暮らしでした。

 小鳥の病死や失踪は悲しかったけれど、私たちにはどうすることもで出来なかった、不可抗力だったと、悲しみの中にも一種の諦めというのか、納得するしかない部分があったのです。

 すぐに次の小鳥を購入してくる母もどうかと思いましたが、私の孤独感を紛らわす為にと思っての親心なのだと、あまり深く考えないようにしました。


 歴代の小鳥の中で、一際賢く、よく懐いた可愛らしいインコがいました。上品な白と水色の二色の羽根に黒の波のような模様が入った美しい鳥でした。ここでは仮に名前をクロとします。

 クロは、私が宿題をやっている時には、鉛筆の端に、ご飯を食べている時には箸のてっぺんに止まるなどの悪戯が好きで、私のリアクションを見るとすぐに移動する分別があったので、私は逆に可愛い悪戯が見たくて許していました。

 箸で滑って、熱々のラーメンの中に落ちてしまい、慌てて布巾で冷やしたこともありました。鳥の羽毛には、水や油を弾く機能があるので、皮膚に熱湯が浸みることもなく、ショックではありましたが、無事でした。

 そんな波乱に満ちたクロとの生活の中で、私が生涯忘れられない悲劇は起こりました。


 思い出すのもつらい事件です。

 母はその時、妊娠していました。弟が生まれる直前のこと、妊娠中後期の安定期で、元々健康な母は、せっせと家事を進めていました。

 休日の午後、私は寝転んで本を読んでいて、足の不自由な祖母は自分用の椅子に深々と座っていて、広く空いた部屋の中程にクロはちょんちょんと跳ねて遊んでいました。時々、私の肩に乗ったり、足の先に止まったり、短く羽根を切られた小鳥は、不自由なりに、自由に動き回っていたのです。

 そこへ、干していた布団を取り込んで仕舞いに来た母が、部屋を通って行きました。大きなお腹の所為せいで足元が見えません。後に妊娠を経験した私は、今なら妊婦の視界がよくわかります。自分の真下は殆ど死角となって見えないのです。


 クロは、その時、母の足元を横切ったのです。

 私は、叫びました。

 母は、私が何を叫んでいるのか理解しません。

 母の足が、クロの胴体を全体的に踏み、全体重がその片足にかかりました。

 クロは、無事な頭部と足の先だけを動かして、声もなくもがき、苦しそうに歪んでへしゃげた身体をずるずると滑らせるように回転させて、暫くそうして苦しんでから、動かなくなりました。無数の小さな羽根が飛び散りました。

 私は、母の足がクロに向けて踏み出される前の一瞬に、母を突き飛ばすか、足を引っ掛けて、反対側に倒すことも可能でした。やるべきか、約一秒の間に必死に葛藤しました。結局、何も出来ず、一歩も動けませんでした。

 人として私は、無意識に、おそらく正しい判断を下したのです。クロは犠牲になり、程なくして、母は予定帝王切開で弟を出産しました。

 何ひとつ間違いは犯していないのかもしれません。多分。けれど、罪悪感よりも後味の悪い暗い気持ちが、あの時の自分をどうしても許さないのです。

 私の中の負の感情の全てが噴出したように、その夜、私は泣き喚いて家中の障子を破って撒き散らしました。舞い散る白い紙は、苦しみに果てたクロの羽毛を連想させ、私の悲しみは上塗りされただけでした。もう、小鳥は飼わないと、私は叫び声の中で何度も言っていたそうです。


 クロは、死ぬ間際に私をじっと見ていました。けがれのない真っ黒な瞳で、生きものとの関わりに求めるもの全てを注ぎ込んで飼い慣らした小鳥の無言のメッセージは、苦しみではなくて、もっと優しいものでした。あの目を忘れることが出来ません。

 あれから三十年以上の歳月が過ぎても、小鳥を見るとクロの真っ黒な瞳を思い出してしまう私は、あの日の一秒弱の葛藤から、まだ抜け出せないのかもしれません。


 ──いっぱい遊んだね。楽しかったね。いろんな小鳥が家に来たけれど、クロがいちばん長く一緒に暮らしたね。本当に大好きだったよ。ありがとう。忘れないよ。


 ほんの数秒の時間に、私とクロは無言の言葉を交わしました。


 ──傍に居てくれて、ありがとう。


 何もしてやれなかった私からの言葉は、小さな身体に届いたのでしょうか。


 私には、わかりません。


 人間に飼い慣らされ、羽根を切られた小さなクロは、子供の私と過ごした日々をさいわいなことりとして、生きたのでしょうか。

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