2.失いし者
夜明け前の闇の中、ボクはけたたましい鳴き声で目を覚ました。
巣の下が何やら騒がしい。鳴き声と共に、羽音まで聞こえてきた。何かが争っている音。
ボクは思わずお母さんを起こそうとした。しかし、お母さんが居ない……
あれ? と思ったボクは、巣の周りを見回した。やはりどこにも居ない。嫌な予感がする。
ボクは恐る恐る、家の下を覗き込んだ。なんと黒い大きな影が、木の枝の隙間をかいくぐり、こちらに向かってきている。
危ない、このままだと食べられてしまう! と思ったその時、手前の枝の隙間から、もう一つの影が飛び出してきた。
その影が何なのかは、一瞬見えたお腹の傷ですぐに分かった。お母さんだ!
お母さんはこちらに襲い掛かってくる黒い生き物を、必死で追い払おうとしている。
黒い生き物は、お母さんよりずっと大きい。やっぱり、ボクらより大きな生き物は居たんだ!
黒い生き物を相手にして、お母さんの羽根がどんどん抜け落ちていっている。けれどそれに構わず、お母さんは黒い生き物の行く手を阻んでいる。
何度妨害しても、相手は一向に攻撃の手を緩める気配は無い。お母さんが妨害している場所を、相手はどうにかして侵入しようとしている。ボクを食べる気だ!
「お母さん!」
思わずボクは声をあげた。お母さんは一瞬こちらを見る。その目には、話しかけるなと言わんばかりの気迫がこもっていた。
どうしよう、何とかしなくちゃ……
ボクは考えた。しかし、あの大きな相手を追い払うなんてボクには到底無理だ。どうする事もできない……
するとその時、巣の下から悲鳴が聞こえてきた。
「お母さん?」
慌てて巣の下を覗くと、相手は必死にもがいていた。
お母さんはダメ押しをするように、相手を威嚇する。黒い生き物はしくじったと思ったのか、左目を気にした後、木を去っていった。
どうやらお母さんは、相手の目を攻撃したらしい。
お母さんが巣に戻ってきた。全身傷だらけだった。息を切らしており、かなりの時間相手と戦っていた事がボクには分かった。
ボクは気が動転していた。あまりの突然の出来事に、言葉を失ってしまった。
「お母さん、お母さん!」
何度も声を掛けた。
「お母さん、大丈夫?」
心配したボクを見て、お母さんがようやく喋ってくれた。
「大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」
「ねぇ、どうしてボク達を襲ってきたの? あれってボクらの仲間?」
「いいえ。空は飛ぶけれど、わたし達の仲間ではないわ」
夕べお母さんが外の世界は恐いと言っていたので、ボクはある程度の覚悟はしていた。けれど、いざ外の世界の生き物を初めてこの目で見たボクは、驚きを隠せなかった。
外の世界に、あれだけ大きな生き物が居たなんて……
「ねぇ、どうしてボク達の場所が分かったのかな?」
ボクは不安そうな声で、お母さんに聞いた。
「この家が相手の仲間に見つかったみたいね。昨日狩りから帰った時、あの黒い生き物達がこの辺りを飛び回っていたわ」
お母さんがため息をついた。ボクがお母さんの顔を覗き込むと、いつに無く深刻な表情をしていた。
「あいつらに見つかったって事は、もうここには居られなくなっちゃうの?」
「そうね。わたし達の安全を考えると、なるべく早く別のところに移らなきゃね……」
お母さんはそう言って、うつむいてしまった。ボクはちょっとショックを受けた。
そうか、この家をもうすぐ出ることになるのか。
ボクが生まれた時からずっと過ごしてきた場所。大きな木の上にある、ボクらの小さな家……
近くには小川が流れていて、水の流れる音が聞こえる。そして時折吹く風が、木の枝を揺らし、木の葉っぱがさざめく。どちらの音も、ボクの心を落ち着かせてくれた。家の中に居る時、木の枝の隙間から心地よいそよ風が吹き、ボクを眠りへと誘ってくれた。
ボクにとってこの家は、最高の場所だと思う。外の世界にも憧れているけど、やっぱり今はこの家の中が一番だ。そんな家を出て行かなきゃならなくなるなんてと思い、この家を襲ったやつを許すことができなかった。
そんな事を考えているボクを見て、お母さんは言った。
「あなたが飛べるようになれば、早く安全な場所に移り住めるんだけど……」
その言葉を聞いた瞬間、ボクは目の前が一瞬真っ暗になった。ショックの大きさは、この家を出るという事より遥かに大きかった。
胸に深く突き刺さった、お母さんの言葉……
「……お母さん、ボクが飛べないのが悪いの……?」
「え?」
「ボクが飛べないから、この家が襲われたの?」
ボクは涙目になった。自分自身が元々飛べないと再認識したことと、お母さんがボクのせいで家を出ると言っているように聞こえたこと。
二重の悔しさがボクを襲った。
「何言ってるの? 家が襲われたのはあなたのせいじゃないわ」
「じゃあどうしてこの家が襲われたの?」
「外の世界の生き物は、住処の獲物を狙っているだけなのよ」
お母さんはボクをじっと見つめながら言った。
「今回は偶然、わたし達が狙われただけなの。わたしが狩りをする時だって、獲物となる生き物がたくさん居る場所を探さなきゃ、十分な食料を確保できないわ」
お母さんは、家が狙われたのはボクのせいでは無いということを説明する。しかしボクはまだ腑に落ちない。
「でも、飛べないのはボクがダメな生き物って事でしょ?」
ボクはお母さんに対して、どんどん卑屈になっていく……
「どうしてそんな事を言うの? あなたがダメなわけ無いじゃない」
お母さんは、次第に困惑していく……
「いい? あなただっていずれ、立派な翼が生えてくるのよ。それを信じなさい。それに、今空を飛べないのはあなただけじゃない。あなたの仲間はもちろんそう。それどころか、空を飛べないまま死んでゆく生き物だっているんだから」
お母さんが、慰めるように言ってくれた。
しかし今のボクにはお母さんの言っている言葉すら、信じられなくなっていた。
外の世界には、確かに空を飛べる生き物はいる。それはさっきボクがこの目で実際に見たからこそ言える事だ。
けれど、ボクみたいな翼が生えていなくて、醜い生き物なんて居るのか? ボクの仲間はみんな、生まれた時から翼が生えているんじゃないの? そもそも、仲間なんて本当に居るの?
「お母さんは、単なる慰めのつもりでボクにそうやって言い聞かせているんじゃないの?」
心の声が、つい口から出てしまった。
「あなたって子は……」
お母さんがボクに詰め寄ろうとしたその時だった。
突然、頭上が騒がしくなった。上を見ると、さっきの黒い生き物が翼を広げてボク達を激しく威嚇していた。上から襲われたら逃げる場所が無い。
もうだめだ、と思ったその時、お母さんがボクに対して言った。
「わたしがあいつを追い払うわ。あなたはこの家の裏にある木の枝を伝って、下に逃げなさい」
ボクは即座にお母さんの命令を拒んだ。
「どうして? どうしてボクがこの家から出なくちゃいけないの?」
「この家は、いえ、この木はもうわたし達の住める場所じゃない。あの黒いやつらの住処になるの」
「だったら、お母さんがあいつらを全部追い払って……」
ボクは、ハッとなって話すのをやめた。
ボクの為に命がけで狩りをしている事を、お母さんは話してくれた。
傷を負ってまでして、食べ物を捕ってきてくれるのをボクは知っている。そしてお母さんよりも大きな生き物が居る事も、お母さん自身が話してくれた。なのにボクはお母さんに、何もかも任せてしまおうとしている。
相変わらずボクは何も出来ない。そんな自分に、再び嫌気が差してくる。
そうこうしているうちに黒い影が枝の隙間をかいくぐり、ボク達を捕らえようと近づいてくる。
あれ程の相手をこの状況で追い払うには、一体どうするのか。お母さんは何を考えているのだろう?
「さあ坊や、木の下に避難しなさい。あいつを追い払ったら拾ってあげるから、それまで待っていなさい」
ボクは首を横に振った。
「どうして? ここに居たら、あなたまで食べられてしまうのよ」
「もう逃げたくない。あいつを追い払って、二度とここに来れなくしてやるんだ!」
「バカなこと言うんじゃありません! 言ったでしょ、わたし達より恐くて大きな生き物は、たくさん居るのよ? あいつらに敵わない事くらい、あなたにも分かるでしょ?」
「敵わなくたって、ボクはお母さんの役に立ちたいんだ」
木の枝を揺らす音がどんどん大きくなる。黒い影が木を掻き分けながら接近してくる。
この距離からは、黒い生き物の姿が良く分かる。
夜空のように真っ黒な翼、獲物を串刺しに出来そうな鋭いクチバシ。そして、お母さんが傷を付けた反対側の目からは、恨みに満ちた様な視線を放っていた。
そんな恐ろしい生物を目の前にしてもまだ逃げようとしないボクに対し、お母さんは口調をさらに激しくして言った。
「言うことを聞きなさい! あなた、空を飛べるようになりたいんでしょ?」
「嘘だ! どうせボクは飛べないのに……飛べない生き物なのに、どうしてお母さんはデタラメばっか言うんだよ!」
次の瞬間、ボクの頬は思いきり叩かれていた。
逃げなさい! と大声を出されたボクは、泣きながら家の後ろ側へ向かった。
×××
足を踏み外さないように枝の道を歩いて行くと、枝が坂道のように曲がっていて、その先っぽが地面から少し浮いた高さまで垂れ下がっていた。木の上ではボクにとっては充分に高い。
坂道はそれほど急ではなかったから、枝を伝って下りる事は難しい事ではなかった。
ヨチヨチと坂を下ったボクは、枝の先端まで来た。後は大した高さではない。
お母さんに頬を叩かれた時の痛みがまだ残っている。ボクの目が再び涙で潤み始めた。
お母さんからの『あなたが飛べるようになれば』の言葉が、ボクの心に深く刻み込まれている。悔しさがこみ上げてきた。
ボクは思わず、木の先端からジャンプした。小さな足で枝を蹴り、ボクの体が宙に浮く。すかさず両手を思い切りバタつかせた。お母さんだってああやって空を飛べるんだ。ボクだって……
一瞬、ほんの一瞬だけど、ボクの体がフワリと浮かんだような気がした。しかしその直後、勢い空しく体は地面に墜落した。
痛みと悔しさでボクはまた泣いた。涙で霞んで辺りが見えない。遠くの方で朝日が昇りかけているのが分かったけど、そんな事どうでもよかった。
朝早く起こされたので眠気がまだ治まらなかったけど、飛べない事への悔しさが睡魔以上にボクを襲った。
ボクはやっぱり、空なんて飛べないんだろうな……そんな事を考えつつ、空を見上げたその時だった! ボクの家がある木から突然悲鳴が聞こえてきた。
聞き覚えのある甲高い鳴き声。
「お母さん!」
ボクは木に向かって叫んだ。当然返事は無い。その後は木は朝焼けをバックに佇み、しんと静まりかえっていた。
嘘だ……お母さんが、やられちゃった? お母さんが居なくなったらボク、どうするの?
お母さんのことばかり考えていたその時、木の上の茂みが揺れた。お母さん? お母さんがあいつを追い払ってくれたのかな?
そう思った次の瞬間、木の上から黒い影が飛び出してきたのが見えた。……それと同時にボクにとって、一番起こって欲しくない事が起きた。
遠くの空から太陽が現れてあたり一面が明るく照らし出された。その時飛び出した黒い生き物の足に、何かが吊り下げられているのが見えた。
ボクは朝日に照らされた
「お……お母さん!?」
ボクは必死で叫んだ。黒い生き物に捕まったお母さんは、ボクに目をやることなく力無く吊り下げられていた。
お母さんが……死んじゃった!? う……嘘だ!
空の彼方へ消えてゆく黒い影に向かって、ボクはただ立ち尽くすしかできなかった。
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