6.飛び立つ者
家の中ではうまく飛ぶことはできないと思ったボクはある日、お母さんに向かって外で飛ぶことを訴えた。
「あらチル……どうしたの?」
必死で鳴いているボクに、お母さんは気がついた。しかし、ボクがなんと言っているのか全く分かっていない。
何が何でも家の外へ出てやる、そう思ったボクは玄関へ向かった。
「ちょっと、どこへ行くの?」
お母さんが呼び止めたけれど、ボクはそのまま歩き、テーブルのふちに立った。さて、どうやって降りようか――そう考えていると……
「こらっ、危ないことしちゃだめでしょ?」
お母さんに捕まってしまった。ボクは必死で振りほどこうとするけれど、離してくれない。
結局ボクは寝床に戻されかけた……が、お母さんが手を離した瞬間、ボクは再びテーブルのふちに向かった。
お母さんは驚いて、落ちそうになったボクを拾い上げてくれた。ボクは玄関に向かって鳴く。
「もしかして、外に行きたいの?」
返事をするように、ボクはもう一度鳴いた。お母さんはしばらく黙っていたが、お母さんは深く首を縦に振ってくれた。
ボクの気のせいかは分からないけど、お母さんの顔が嬉しそうしているように見えた。ボクが本気で空を飛びたい気持ちを示したから、お母さんも嬉しかったんじゃないかな?
「じゃあチル、準備してくるから、ちょっと待っててね」
そう言ってお母さんは奥の部屋に入っていった。
しばらくしてお母さんが部屋から戻ってきた。
綺麗におめかししている。ボクの為にこんな事をしてくれるなんて、胸がちょっと熱くなった。
ボクは、お母さんと一緒に家を出た。外に出るのは結構久しぶりだ。ヒナちゃんが家から居なくなってから、あまり散歩に出かけていなかった。
お母さんが忙しくてなかなか外に出られなくなったのもあるけど、何よりボクが外に出ることを嫌がっていた。
ヒナちゃんと別れたショックは大きく、練習に励む前は寝床で引きこもりっぱなしだった。
けれどボクがやるべきことを見つけた後は、再び外に出たいという気持ちが強くなっていった。
外の美味しい空気と心地よい風――久々に自然を感じた気がした。
しばらく歩くと、やがて大きな川が見えてきた。目の前の坂道の下には原っぱがあり、その先には水がゴウゴウと音を立てて流れている。
原っぱには、小さな子供がたくさん遊んでいる。ヒナちゃんも、もし歩くことができていたならああやって遊べたんだろうな……
あっ! ボク、いつの間にか母親が言ってた、『あなたが飛べるようになっていれば』という言葉と同じような事を考えてる……
ボクが今ヒナちゃんに対して悪意を持っていない様に、ボクの母親もボクに対してやはり悪意は持っていなかった。
今になって母親の気持ちが、しみじみと分かってきた。
遊んでいる子供達の近くで、母親や父親が笑顔で見守っている。ボクにももし親が居たら、ああやって見守られながら育ったんだろうな……
お母さん……会いたいよ……
急に心細くなり、泣きたくなったその時、突然強い風が吹いた。
親を失った時と同じくボクを慰めてくれると同時に、ボクの飛びたい気持ちを後押ししてくれた。
川に向かって吹く、心強い追い風。飛び立つのは今しかないと思った。
お母さんの手の上でボクは立ち上がり、坂の下を見つめる。ボクが以前住んでいた木。その高さを思い出した。それに比べたら大した高さではない。
黒い生き物に襲われ、母親を失い、家に帰れなくなったあの日から、ボクは大きくなった。
あの時の翼の無いボクとは違う!
お母さんの目を盗み、手の指を思いっきり蹴る。
以前に比べて、足の力も強くなっている。体がいつも以上に浮き上がった気がした。体の浮いた状態を維持しようと、すかさず両手をばたつかせる。
しかし体が重いのか、草の生えた地面に墜落しそうになった。危ない、地べたに叩きつけられる……!
練習の時、何度も墜落した時のトラウマがよみがえる。落下する恐怖と、墜落したときの痛み。ボクの体と心を蝕んでいくようだ。やっぱりダメだ。
風に身を任せようとしても、思うように体がついていかない……そう思ったその時、この間テレビで見た大きな鳥の映像が頭に浮かんだ。
テレビの中の鳥は、バタバタとなんて飛んでいない。自らの力だけでなく、後ろからの風の援護を受け、両手を広げたまま上手く風と調和していた。
刃向かえば飛んでいる者を無惨に打ち落としかねないという強風をも、見方につけていたんだ。そうか、単に翼をばたつかせていたボクは、風に抗っていただけだったんだ……
背中を押してくれる風に対して、抵抗する必要は一切無い。落ちそうになったボクは、落ち着いて両方の翼を広げる。
……するとどうだろう。このままだと、坂道に叩きつけられていたであろうボクの体は、斜面に沿うように滑らかに舞い降りていった。
草の生えている坂道の上、両手を広げたまま次第に勢いをつけて下っていく。まさに風と一体化し、空気中に自らの体が混ざっていくようだ。
やがて、坂の終わりが近づいてくる。すかさずボクは両足を前に出した。勢いが衰えてゆき、やがて自らの体は地面へと着地した。
今日、この場所でボクが体験したことは、たとえ生まれ変わったとしても記憶に残っているかもしれない……それ程印象に残るものだった。
空を飛びたい、というボクの願いが叶ったのだ。かつて、外の世界を見ることができただけでも満足していたボクが、自らの翼で空中を飛ぶことができた。
今までに二つの願いを叶える事ができたのだから、これに勝る幸せは無いのだと思った。
「チル!」
ヒナちゃんのお母さんの声が聞こえた。
振り向くと彼女が坂を下ってきた。そしてボクを拾い上げ、手のひらで優しく包んでくれた。
「びっくりしたわ。いきなり飛ぶなんて」
お母さんはボクが急に飛べるようになったから、怒るのを忘れてしまったみたいだった。
安心したような顔つきで、ただただボクを見つめるお母さん。
ボクの母親と全く同じ雰囲気を感じとることができた。まるで、自分の子供みたいに優しく接してくれる、温かい笑顔……
この姿、ヒナちゃんに見せてあげたかったな――悔やむ気持ちを少し顔に出してうつむいたその時……遠くから女の子の声が聞こえてきた。
ボクはハッとなって顔を上げ、あたりを見渡した。川の近くの原っぱを、右と左、目を通してみた。しかし、ヒナちゃんらしい子供は見当たらない。
お母さんの表情を伺ってみた。どうやらお母さんには聞こえていないみたいだ。じゃあ川の向こうに――と思ったけれど、対岸の原っぱには人影すら見当たらず、草木が荒れているだけだった。女の子の声は、近くで遊んでいる子供のものだろう。
何だ気のせいか。そうだろうな。
ヒナちゃんが居なくなった日、お母さんは泣いていたもんな。ボクはお母さんに、ヒナちゃんがどうなったかは聞く事ができない。
けれどお母さんの表情を見て、ヒナちゃんに会う事はもうできないのは、人間の言葉を喋れないボクでも分かる。
空を飛べるようになった代償は、あまりにも多く、そして大きいと感じずにはいられない……
「お母さん!」
えっ!? さっきと同じ女の子の声。やっぱり空耳ではなかった。ひょっとして、ヒナちゃん? でも一体どこに……
「お母さん!」
三度目の聞き覚えのある声。声の主は、原っぱからじゃない。もっと高いところから……
「ヒナちゃん!?」
お母さんが叫んだ。見ると坂の上を見つめている。お母さんが見つめている先には……
「お母さん! チル!」
坂の上で大声で呼んでいるヒナちゃんが見えた。
夢じゃないかな? 一瞬そう思ったけれど、この間の飛ぶ練習での痛みがまだ残っているから、どうやら夢ではないらしい。
ボクはお母さんに抱かれたまま坂を上り、ヒナちゃんのもとへ向かった。
ヒナちゃんが座っている椅子を知らない人が押している。ボクはドキッとなったけれど、ヒナちゃんは全く怖がっていないし、お母さんとも普通に話している。悪い人では無さそうだ。
「お母さん! あたし、がんばったよ!」
ヒナちゃんがお母さんに向かって、ニッコリとほほえんだ。
「あたしの思った通りだったわ。手術するとき、自分は絶対に死なない、自分は生きるんだって、ずっと思っていたの。だからね、こうやって今を生きることができたわ」
お母さんは嬉しそうに、ヒナちゃんの頭を撫でた。
お母さんのおしゃれな格好に、出かける前に見せた嬉しそうな表情。お母さんは、ヒナちゃんが帰ってくることを知っていたのかな?
ヒナちゃんは視線をボクに移した。
「チルもごめんね。ケンカした上に心配かけて。あなたとケンカした日の翌朝だったっけ? 急に具合が悪くなって、病院に運ばれたの。あっ、この人は病院のお医者さん。いつもお話しをしてくれて、とても面白い先生なの」
ヒナちゃんは、後ろにいる優しい顔をした人を紹介した。その人もボクを見てニッコリとしている。
病院のお医者さんとヒナちゃんのお母さんが、しばらくの間話をしていた。ボクはヒナちゃんの嬉しそうな顔を見つめてみた。
ヒナちゃんが運ばれていった日、お母さんが涙を流していたという事は、彼女は相当重い病気にかかっていた筈だ。毎日その病と闘っていたに違いない。あの笑顔の裏に、いつ死んでもおかしくないという恐怖と闘っていたのだと思う。そう、外の世界で生きる生物のように……
しかしヒナちゃんは、自分は死なないとずっと思っていた。あの体で、死の恐怖にも屈さず、自分が生きる事だけを考えていた。
生きようとする強い気持ちが、あれ程の病に打ち勝った。その気持ちは、どんなものにも負けないのだと確信した。
「でもねチル。病気に勝てたのは、あたしの力だけじゃないと思うの」
自信に満ちていたヒナちゃんの顔が、少し和らいだ。
「あたし一人だけだったら、もしかしたら助からなかったかもしれない。お母さんに手術してくれた病院の先生、学校の先生に友達……」
ヒナちゃんはそこで一旦言葉を止め、
「あたしね、学校にあまり行けなくて、外で遊べないから、学校の友達なんて居ないのかと思っていたけど、違ったみたい。あまり会うことができなくても、あたしを心配してくれる人が、たくさん居たことに気づいたの。だから、あたしの無事を願ってくれた人に、すごく感謝してるわ」
ボクは、ヒナちゃんの言っていることが立派すぎて言葉が出ない……
話を聞いていたお母さんは、必死で涙をこらえている。ここまで他人を思いやり、感謝のできる子供が他に居るのだろうか。
大きな翼が生えるまでに成長したボクは、なんだか恥ずかしくなってしまった。
ヒナちゃんと先生に、ボクが飛べた事をアピールした。ヒナちゃんはハッとなってボクの頭を撫でる。
「あっ、ごめんねチル。あなたもあたしの無事を願ってくれてたのよね。うふふ、ありがとうチル」
ボクに対して感謝をしてくれたけれど、ボクが飛べるようになった事を、ヒナちゃんはまだ気が付いていない。
どう伝えればいいのか悩んでいたところで、お母さんがヒナちゃんにさっき起こった事を話してくれた。ありがとう、お母さん!
「ええっ!? 本当に!?」
ヒナちゃんは大声を出すように驚いた。ここまで驚いたヒナちゃんは見たことがない。ヒナちゃんもボクが飛べるようになる事は、以前から望んでいたので無理もないかもしれない。
「すごいじゃない、チル! あーあ、あたしも見たかったなぁ……」
ヒナちゃんは、ボクが飛んだ直後にここに来た事を後悔する気持ちで言った。
「わたしの手からいきなり飛び出してね、この長い坂の上を滑るように飛んでいったのよ。気が付いた時には、すでに坂道のふもとの辺りまで飛んで、最後は草むらの上に見事に着地したわ」
お母さんは坂道を指で指しながら、ヒナちゃんに状況を伝えた。
「すごいよチル! きっとあたしの、チルが飛べるようになって欲しいという願いが届いたのね」
ボクが自分の為だけでは無く、ヒナちゃんの為にも飛んでいたんだと思う。
ボクがヒナちゃんの思いを引き継いで飛ぶ決意をし、その気持ちがヒナちゃんに伝わり、彼女を回復に導いた。
一方でヒナちゃんも、病魔と闘っている中で、ボクが空を飛べるようになる事を願っていてくれた。
お互いの願いが、お互いに奇跡を起こさせた――根拠は無いけれど、ボクはこれで良いと思った。
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