5.孤立し者

 更に何日かすると、ボクの体は母親とほぼ同じになった。かつては小さな羽だったものが、日を重ねるごとに、大きな翼へと変わっていった。

 ずんぐりとしたまんまるだった体も、今では立派な鳥らしいスマートな体格になった。



 しかし、ボクは未だに空を飛ぶ事を知らない。母親から外の世界での生き方を教わっていないボクは、ただ単に体が成長しただけで、鳥としての力を身につけたわけでは無い。  

 けれど鳥らしい体になった今だからこそ、自分自身の体そのものが飛ぶ事を求めているんじゃないのか? 

 今更弱気になってどうする、空への道は開かれたようなもんじゃないのか?



 ボクは車椅子に座っているヒナちゃんに向かって、空を飛びたいという気持ちをアピールするようにして鳴いた。

 ヒナちゃんは驚いたけれど、すぐにお母さんを呼んだ。



 ボクは二人の前で、翼をばたつかせた。するとヒナちゃんはボクの気持ちを察したのか、お母さんに飛びたいと思っていることを話した。


「そうね。今練習すれば、うまく飛べるようになるのかもね」


「じゃあ今からあたしの部屋で練習しましょ、チル」


 二人ともボクの練習に付き合ってくれるようだ。



 お母さんは歩けないヒナちゃんを、車椅子で部屋まで押してあげた。ボクはヒナちゃんの掌に乗ったまま、初めてヒナちゃんの部屋に入った。



 ヒナちゃんは車椅子に乗ったまま、ベッドの方を向く。お母さんは部屋の入り口でボク達を見ている。


「いい? あたしがベッドに向かって手を離すから、チルはそこで思いっきり飛ぼうとするのよ」


 ヒナちゃんはそう言いながら、両手をばたつかせる仕草をした。ボクは頷くように鳴く。



 ヒナちゃんがベッドを向き、ボクは彼女の手のひらの上でスタンバイ。やがてヒナちゃんは、「行くよ」の掛け声と共に、僕を空中に放つ。ボクの体が浮いた。

 体を宙に浮かせるのなんて、かつてボクの家から降りる時以来だ。以前に比べ、ボクは体と翼、共に大きくなった。そうだ、ボクだって飛べると信じれば……



 持てる力の全てを出し、翼をばたつかせた。

 かつてのボクらしくない発達した翼で、宙に漂う大気という大気を全身で受け止めた。両足を上げ、足場の無い空気中に少しでも留まろうと両手を動かす。



 しかし必死で飛翔するも、ボクの体はベッドの上に落ちた。同じだ、あの時と全く同じだ。

 その後も何度もヒナちゃんの手を借りて、ベッドの上で飛び立とうとした。しかしその度に、柔らかいベッドの上にボクは叩きつけられた。

 空中で体勢を保つのは難しい。浮き上がったとしても長時間空中にとどまる事はできない。



 次の日も、そのまた次の日も、ボクはヒナちゃんと練習をした。

 朝一番に起きてヒナちゃん達を起こし、眠い目をこすらせながら練習に付き合わせた日もあった。

 けれど、空中を飛ぶ事はできなかった。ボクの悔しい気持ちは、以前よりも膨れあがっていた。



 その日もヒナちゃんが、ボクの飛ぶ練習に付き合ってくれた。

 何度飛び立とうとしても決して飛べないボクを、ヒナちゃんが手のひらの上で優しく撫でた。

 彼女はこれ以上無理はさせたくないと言いたそうな眼差しで、こちらを見ている。



 ボクは何も持っていない自分を責めた。



 テレビの中の鳥のように、空を飛ぶ事なんてできやしない。命からがら生き延びて見ることのできた外の世界なのに、その世界を自由に生きる事ができない。

 また、ヒナちゃんのようにボクは親を持っていない。そして自分自身の素直な気持ちを、鳴く事でしか伝えられない。



 ヒナちゃんを妬む気持ちが、次第に強くなっていく。


「ねえチル……大丈夫?」


 ヒナちゃんの言葉は、ボクのヒナちゃんへの嫉妬を最大限に増幅させた。そして、お前に何が分かると言わんばかりの剣幕で、ヒナちゃんに飛びかかった。



 空を飛べないボクと言えど、子供であるヒナちゃんが翼をばたつかせてくちばしでつつかれたなんて事になったら、平気でいられるはずはない。


「やめて、やめてよチル!」


 頬をつつかれたヒナちゃんは悲鳴を上げる。

 ヒナちゃんに対して、言葉で問いただしたかった。



 まずかつては醜かったボクを、なぜヒナちゃんが拾ったのかが疑問だった。そしてお母さんの居るヒナちゃんから見て、親のいないボクのどこが良いのか。

 聞きたい事は山ほどあるのに、ボクは言葉をしゃべれない。だから、ボクの気持ちは誰にも分かってくれない!


「どうしたのヒナちゃん!?」


 悲鳴を聞いたお母さんが部屋に入ってきた。ボクはとっさにヒナちゃんに飛びかかるのをやめた。

 頬を抑えながら涙目になったヒナちゃんを見て、何かあったのと声をかけた。


「チルがね、急に怒ったように襲いかかってきて、ほっぺたをつついたの」


「大丈夫?――うん、大したことは無さそうね」





 お母さんはそう言って、奥の部屋から塗り薬を持ってきて、ヒナちゃんの頬に塗ってあげた。


「毎日練習してるから、チルも疲れちゃったんじゃないの?」


「ううん、そんなことないよ! チルは最近あたしより早く起きて、いつもあたしを鳴き声で起こしてくれてるんだよ! これって、今すぐ練習したいってことなんじゃないの?」


 ヒナちゃんは悔しそうな顔でお母さんに言った。


「あたし、空を飛べる翼をもっているチルが羨ましくて仕方がなかった。歩くことすら出来ないあたしにとって、チルは憧れの存在なの。最初は、飛べないチルと歩けないあたし、似たもの同士で気に入って拾ったけれど、チルに翼が生えてくるとあたしはいつしかこの子に憧れるようになったの。妬むことだってあったわ。けれど、そんな不満をチルにぶつけたところでチルが傷つくだけ。これまでずっと我慢してきたのに……」


 ヒナちゃんの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきた。



 ボクは以前、飛べないというやるせない気持ちを母親にぶつけた。

 けれど目の前の少女はボクと同じような気持ちになろうとも、誰も傷つけたくないという理由で、気持ちをぶつける事をじっと堪えている。ボクは改めて己の気の短さを知った。


「チルはチルで、色々と悩んでいるのかもね」


 お母さんは優しい声で言った。


「……あたし、チルの世話したくない」


「いけません、ヒナちゃんがチルを飼いたいって言ったんでしょ? この子が飛べるようになるまで、しっかり面倒見なさい。お母さんも手伝うから」


「……」  


 お母さんから注意を受けたヒナちゃんはベッドに戻り、ボクはお母さんの手のひらで寝床に戻った。 



 ヒナちゃんとケンカをした。しばらく練習に付き合ってくれそうにないと、ボクは確信した。そうでなければ、あの穏やかなヒナちゃんが世話をしたくないなんて言うはずがない。

 案の定、その日の食事はヒナちゃんでは無くお母さんが用意してくれた。

 ヒナちゃんは、ボクに愛想を尽かしてしまうのかな……

 謝る気持ちを持てば、ヒナちゃんも許してくれるのかな……



 寝床で考え事をしてるうちに、夜になってしまった。

 このままでは、いつになっても飛べないままだ。

 これからどうやって生きていけばいいのか分からないという気持ちのまま、ボクは床に就いた。頭の中でぐるぐる同じことを考えていてもキリがないと判断したボクは、体を寝かせて朝を待った。



 ×××



 次の日、ヒナちゃんは家から居なくなった。

 朝早く、急に彼女の部屋から苦しむような声が聞こえてきて、しばらくするとヒナちゃんは眠ったままどこかへ運ばれていってしまった。



 太陽が昇ってかなりの時間が経った頃、お母さんが帰って来た。

 お母さんのほっぺたに、涙の跡があった。お母さんは何を見たのか、ボクには分かった気がした。



 ボクの寝床がある場所から、ヒナちゃんが居た部屋が見えた。空っぽになった、誰もいない部屋。室内からは昨日彼女が居た時と、居なくなった今とでは、著しい温度差を感じ取ることができた。

 これからもボクと一緒に過ごしていこうと思ったヒナちゃん。そんな彼女と、こんなにも簡単に別れることになるなんて……

 ボクは二度目の大切なものを失った悲しみを感じずにはいられなかった。



 日が経つに連れ、ヒナちゃんのお母さんは痩せていくように見えた。さらに顔色も悪くなり、悲しみに満ちた表情を伺うことができた。

 わが子を失う悲しみというものは、どれだけ重たいんだろう……

 ボクが親を失った悲しみ以上に辛いものなのかな……



 それでもお母さんは、ボクの為に食べ物を用意してくれた。どんなに苦しくてもわが子の為に愛を持って接してあげるところは、ボクの母親と同じだった。



 ボクは食事をしながら、ヒナちゃんの事を考えていた。

 いつだったかヒナちゃんが言っていた言葉――『チルが羨ましくて仕方が無い』 彼女の言葉を頭の中で反芻していたら、ボクの頭を突然殴られたような衝撃が走った。



 そしてヒナちゃんにひどいことをしてしまったと思った。

 ボクは以前、『親なんて失って当然』と思った自分自身に、深く反省したつもりだった。

 それなのにヒナちゃんに対して、なぜこんな自分を拾ったのか? とか、こんな自分のどこが良いのか? といった不満をぶつけ、彼女の行為を真っ向から否定しようとしていた。

 自分の親のみならず、命を救ってくれた友人をもボクは貶めようとしていた。



 それだけじゃない。ボクが木の上で生活していた時だってそうだ。

 飛べない事をいつも母親のせいにして、『あなたが飛べるようになっていれば』の一言を、自分は何も出来ない生き物だって勝手に解釈していた。

 母親はボクが今飛べない事を説明していただけなのに、ボクは一切飛べないと、自分自身に暗示をかけていただけなんだ。

 母親の言葉には悪意などは無かった。ましてや、ボクの為に毎日エサを運んできてくれたお母さんが、デタラメを言う訳がない。



 そしてヒナちゃんからは何度か、あなたは空を飛べると伝えられてきた。

 その言葉をロクに信じず、飛べない事を苦に、ヒナちゃんに当たった。結局命の恩人に、恩返しどころか八つ当たりしかできなかった。



 ボクはどこまで愚かなんだろう――いや、愚かなだけじゃない。激しく卑屈だ。こんなボクが、いつまでたっても空を飛べないのは当然だと思った……

 そうだ、ボクのどこが良いのか? という考えそのものが、ボクの存在を否定しているんだ。



 前へ進まなければならない。今僕自身ができる事をやるために。ボクがヒナちゃんにできる恩返しは、彼女の気持ちを理解することだけでは無かった。



 もうひとつの恩返し、それは空を飛ぼうとすること。空を飛びたいという夢を持つこと。もし飛べなくても、飛ぼうという意思を見せること。ヒナちゃんはボクのそんな気持ちを見たかったんじゃないかな?



 彼女も必死で歩こうとしていたに違いない。結果は変わってしまうかもしれないけれど、ヒナちゃんの思い、ボクが受け継いで見せるよ!

 ヒナちゃんのお母さんが、こちらに向かってきた。


「ごめんなさい、あなたを悲しませて」


 お母さんはそう言いながら、手のひらにボクを乗せてくれた。前に進もうとするボクの背中を、お母さんが押してくれるみたいだった。



 ×××



 それからボクは毎日、テーブルの上の小さな台から、空中に向かって何度も飛ぼうとした。



 ジャンプする直前、ヒナちゃんと練習したときのことを思い出した。

 しかし体を浮かせる度に、足を上げて飛ぼうとする度に、ボクの体はテーブルの上へ叩きつけられる。叩きつけられる度に痛い思いをして泣きそうになる。



 お母さんはベッドを使うように言ってきたけれど、ボクはそれを否定した。

 落ちても痛くもなんとも無い所で練習をしても、過酷な大自然の中では何の役にも立たないと思ったからだ。

 痛みに耐え、次のジャンプで同じ痛みを味わわないようにするにはどの様にすれば良いか考えるのも、生きていく上では大切な事なんだと思う。

 思うように飛べなくても、ボクは諦めずに空中へジャンプした。



 ヒナちゃんのお母さんが近くで見てくれている。ボクが空中へ舞う度に、がんばれと声をかけてくれた。

 いつでも優しく見守ってくれる所が、ボクの母親と似ている。



 テーブル上の小さな台に乗って、ボクはどのようにして飛べるかを考えていた。すると、この家に来て間もない頃、テレビに映った大きな鳥のことを思い出した。

 緑色の草原の上空を軽やかに飛び回り、猛スピードで獲物を狩る姿は、本当に虜になった。

 ほとんど羽ばたく事無く、空をすべる様に飛ぶ様を見ていたボクは、必死に羽ばたこうとするが故に落ちてしまうのではないかと考えた。ほんの一瞬でも風の力を借りて空中を滑れば、体を浮かせることができると確信した。

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