持たざる者

マムシ

1.持たざる者

 木の葉の隙間から差し込む朝日で、ボクは目を覚ました。穏やかで暖かい日差しが差し込み、心地よい風が吹く。

 ボクはムクリと体を起こす。



 小川の近くに生えている大きな木の上。そこにボクの家はある。

 そして木の枝はボクの家を覆っている。今は若葉が生い茂り、夏の暑さからボクらを守ってくれている。



 おはようと声が聞こえた。上を見上げると、ボクよりもずっと大きな影が舞い降りてきた。お母さんだ。


「目が覚めたようね。わたしのかわいい坊や。さ、ご飯を食べなさい」


 お母さんが食事を持ってきてくれた。ボクはお母さんの食事が大好きだ。いろいろな食べ物を運んできてくれる。


「ねえ、こんな大きなもの食べていいの?」


「そうよ、全部あなたの分」


「やったー! お母さん大好き!」


「うふふ。嬉しいわ」


 ボクは勢いよく食べ物に喰らいついた。美味しい。ボクはこうやって食べることで生きていくのか――幸せだ。

 美味しいものを食べたい……そんな時、いつでもお母さんがボクの為にご飯を運んできてくれる。ボクはこの世で一番幸せな生き物なんだと実感した。

 お母さんが美味しいものを運んできてくれて、ボクはそれを食べる。ボクは嬉しい。そんなボクを見てお母さんも喜んでくれる。ボクは幸せだ。本当に……

 こんな生活が、いつまでも続けばいいなと思う。いつまでも、いつまでも……



×××



 一日中照らし続けていた太陽が、ようやく沈みかけようとしている。オレンジ色の光が、木の枝の隙間から差し込んできた。

 ボクはまだ木の外を見たことなんてない。けれど、どんな世界なのかがだんだん分かってきたような気がする。

 お空には太陽があって、この世界を明るく照らし続けてくれている。

 近くにあるのは小さな川だけど、川の水が流れる方向に進んで行くとどんどん川が大きくなっていく。そして木の外にはボクらの仲間がたくさん居て、広い世界を自由に飛び回っている。全部お母さんが教えてくれた。



 楽しいだろうな……外の世界は。美味しい食べ物も、綺麗な景色も……楽しいことでいっぱいなんだろうな。

 ボクは今、空を飛べる体じゃないけれど、食事をしてすくすく育てばいつか飛べるようになると、お母さんは言っていた。

 お母さんはどんな風に空を飛んでいるのだろう? こんなボクでも、お母さんみたいにたくましくなれるのかな? お母さんみたいに空を飛べれば、どんなに楽しくなるだろうか? 

 ボクには興味が尽きなかった。



 けれど、楽しいことばかりじゃないと思う。

 この間、お母さんがいつもより大きな獲物を捕まえてきてくれた日の事。

 お母さんのお腹に傷があったのを、ボクは見てしまった。

 ボクの為に、自らの体を傷つけてまでして、食べ物を運んできてくれた。それを見て、外の世界で生きるボクの仲間はみんな必死で食べ物を手に入れているという事を知った。

 そもそも、外の世界を飛ぶという事はとても恐いんじゃないかな? ボクの家がある木でも凄く高いのに、外の世界では、それ以上の高さで飛ばなければいけないんじゃないのかな?

 まして空を飛ぶなんて、恐いどころの話じゃないと思った。



 お空からたくさんの水が降ってくる日もあって、時には眩く強い光が走るとお母さんは言っていた。

 そんなもの、ボクは見たことがない。綺麗なものなのかな? それとも恐いものなのかな?

 ボクはこうやって、お母さんが捕まえた食べ物を食べていて、ふと感じた事がある。

 ボクらが獲物を食べるという事は、ひょっとしてボクの仲間を食べる生き物も居るんじゃないか? 

 どんな生き物なんだろう? 

 ボクらと同じ姿か、恐ろしい姿か、どんな生き物かは分からないけれど、ボクらよりずっと強いんだろうな。

 そんな世界に、ボクは飛び立つ時が来るのか。

 ひょっとしたらボク、死んでしまうかもしれない!


「どうしたの? 顔色悪いわよ?」


 考え事をしていたボクを心配したお母さんが、声をかけてくれた。


「お母さんは、外の世界を恐いとは思わないの?」


「恐いことなんてたくさんあるわ。空を飛び回る事は、本当はとても危ないのよ」


 ボクは身震いをした。

 これまで外の世界は楽しいものとばかり聞かされてきたボクが、お母さんから初めて恐い・・と聞いたからだ。


「空だけじゃない。獲物が潜む場所に行くのも大変なの。ここからかなり遠いし、獲物を捕まえるのも一苦労。そして何より、わたしよりもずっとずっと大きな生き物だってたくさん居るのよ。わたしを獲物にしようとしている生き物も居て、そいつらに捕まらないように必死で食べ物を探して、ようやく一つ手に入れて、やっとの思いで巣に戻るの」


 ボクは震えが止まらない。やっぱり楽しい事ばかりじゃなかった……


「じゃあ何でそんな恐い所になんて行くの?」


 ボクは弱々しく、お母さんに問いかけた。


「そんな所に行かずにもうずっとここに居てよ。このままじゃお母さん、死んじゃうよ」


「そうはいかないわ。あなたの為の食事が必要だもの」


 ボクはお母さんのお腹の傷を思い出した。


「……ボクの為に、必死でご飯を持ってきてくれるんだね……」


「そうよ。生きるって事は物凄く大変な事なのよ」


 何だか悲しくなってきた。外の世界を実際に見た訳でもないのに、お母さんの話を聞いただけで恐いと実感してしまうなんて……

 お母さんの言葉を聞いて、ボクは心が苦しくなった。家の中で、『外の世界は美しい』とばかり思い込んでいた自分に少し腹が立ってしまった。ボクはどうして何も知らないんだろう……



 うつむいていたボクを、お母さんが優しく包み込む。


「ごめんね坊や。何もあなたを責めてる訳じゃないの。あなたは外の世界を全く見たことがないもの。知らないのも無理はないわ」


 お母さんの声が、急に優しくなったような気がした。


「でもね、これだけは覚えてちょうだい」


 お母さんがボクの頭をそっと撫でながら言った。


「確かに、外の世界は恐くて厳しいけれど、決してそんな事ばかりではないのよ」


「楽しい事もあるの?」


 ボクは外の世界に対する興味を、ちょっとだけ取り戻して聞いた。


「もちろんよ。気持ちいいわ、空を飛ぶって。あなたは小さいからまだ分からないけど、大きくなったら飛ぶことの素晴らしさが、きっと分かってくるわ」


「そうか……そうなんだ」


 ついさっきまで外の世界は恐いものと思っていたボクが、いずれ自らの力で空を飛べると思うと、また嬉しくなった。

 そんなボクを見て、お母さんはからかうように言った。


「うふふ。あなたって落ち込んだり喜んだり、本当に単純ね」


「えー? 何で分かったの?」


「秘密」


「ねぇ? 教えてよぉ」


「あなたがもう少し大きくなったらね」


 イジワル! とお母さんに当たったら、再びうふふと笑った。お母さんは、話を続ける。


「あなたのような小さい子は、他の家にもたくさん居るわ。何も知らないのはあなただけじゃない。だからね、そんなに落ち込んだりしないで、もっと自信持ちなさい」


「うん! 分かったよ」


「他の家の子も飛べるようになったら、あなたと一緒に飛んでくれるかもしれないわ」


「本当? じゃあボクも飛べるように、がんばるよ!」


 ボクは外の世界に対する興味が強くなっていく。


「でも、できればお母さんとも飛びたいな……」


「んもう。甘えん坊ね」


 お母さんは、またからかうように笑った。








 そうか。ボクだっていつかは、自分の力で空を飛べるようになるのか。胸の奥に潜んでいた、外の世界への憧れが、どんどん強くなっていく事を実感した。

 不意にお母さんが呟く。


「あなたが羨ましいわ」


「えっ?」


 いきなりの発言に、ボクは少し戸惑いながら聞き返す。


「羨ましいってどういう事?」


「……いいえ、何でもないわ」


 お母さんは、にっこりと笑って僕に返した。


「さて、暗くなる前に、ご飯食べて寝ましょ」


「はーい」


 食事をしながらお母さんが、外の世界の様子を話してくれた。いつも通りの会話。平凡な家の、平凡な食事……

 ボクはこの家で大きくなって、お母さんと一緒に空を飛びたいと思った。そして、この家でいつまでも暮らしていたい、それがボクの願いだ。



 お母さんの言っていた、『あなたが羨ましい』という言葉が、妙に引っかかった。

 ボクの何が羨ましいんだろう? どうして羨ましいんだろう? ボクにしか持っていない何かがあるのかな? でもボクから見れば、空を飛べるお母さんが、物凄く羨ましい……

 それ以上考えても何も浮かんでこなかったボクは、考えるのをやめた。



 周囲が夜の闇に染まる中、ボクはお母さんと寄り添って寝た。


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