第五篇・バイバイ、ブラック






 何を間違えたのか、わからずにいる。



 正しいと思っていたのだ。素晴らしいことだと信じていたのだ。

 自分にできるすべてを差し出し、それが他人のためになるのだと。意欲に反比例する睡眠時間さえものともせず、がむしゃらに前を向いて走り続けていた。


 結果、待っていたのは真っ黒な沼。


 神経も精神も摩耗し、それでも笑えるほどに体力だけは有り余っている。それを周囲のために使おうと必死になっても、返ってくるのは灼けるような棘だけだ。


 痛みも苦しみも、徐々に判らなくなった。これらが、自分の人生そのものが、夢なのか現なのか。絵具が混ざり混ざった汚いパレットのように。何年と放置され汚濁した色と色。元の色を知ることも綺麗に洗ってやることも、もう、できない。



 もがいても、もがくだけ沈んでゆくのがわかるので、わたしは。






   *






 芽愛のスマートフォンが知らない番号からの着信で鳴動したのは、もうじき新聞配達のバイクが街を走り出すだろうという頃だった。眠らずの身体から腕を伸ばして通話ボタンをタップする。


 電話の向こうの人物に、ある程度の目星はついていた。

 数日前に駅前で自殺を図った際、誤って転落させた青年。或いは、その後にやってきてパトカーと救急車の到着を共に待ってくれた女子高校生。彼にも、彼女にも、謝らなくては。あれ、ああ、謝ったんだっけ。メモを取らなかったから忘れてしまった。


『久路井芽愛様の番号でお間違いないでしょうか』


 少女の声がした。屋外だろうか、風の音がする。頷く。


「はい……わたしです」

『良かった。私、一昨日に名刺を頂いた者です。病院で』

「ああ、はい。覚えて、ます」


 おそらく。制服と、長い髪と、それから、顔立ちはどうだったろう。


『隅水三十里といいます。貴女が歩道橋から突き落としたのが御山車真綺さん』


 ちょっと、と電話の向こうで割り込んだ声にも聞き覚えがあった。やはり、ふたりには面識があった。やはり? なぜ彼女たちが知り合いであると思った?


「スミズミドリさん、と、ミダシマサキさん。はい」


 太腿の下に敷かれていたボールペンを手探りで拾い上げ、忘れないように、ふたつの名を左腕の内側に書き留めた。ミドリ、マサキ、ミドリ、マサキ。反芻する。


「あの、本当に……申し訳ありませんでした」


 姿が相手に見えないとわかっていても頭を下げてしまうのは、身体に染みついてしまった癖だ。社会人になってからは、なんだか謝ってばかりのような気もする。

 思考が絡まる。まともにモノを考えられない。それでも、瞼は閉じようとしない。


 眠れないのではない。そもそも、眠気が襲い来ることがないのだ。


『謝らないでください』


 平坦な声で三十里は言った。


『貴女はじゅうぶん謝ってくれました。なぜ死のうとする人間はすぐに、自分だけが悪いような感覚に囚われるんでしょうか。真綺さんのときも……』


 隅水さん! と悲鳴をあげたのは真綺に違いない。しばらくのあいだ何やら問答があったのち、電話の相手が交代したようだった。


『あの、久路井さん。今日、お仕事は何時からですか』

「謹慎中なので……出勤はありません」

『そう、ですか』


 考え込むような沈黙があった。


『これから言うことは、あの、す、すごく馬鹿げたことです』


 言うか言うまいか、悩んでいるようにも聞こえた。


『あなたが、い、今とっても、追い詰められているとして、それが実は、実、は……欠片もあなたのせいじゃない、と、いうことになったら、久路井さんは』

「そんなわけない」


 濁った意識の中から、その言葉だけがはっきりと出た。


「私のせいなんです、ぜんぶ。頑張り方がわからなくて、何倍もの努力を積むことでしか大勢の他者と同じ高さに立つことができない私のせいなんです。下手なんです、生き方が」


 どうしていいのか、わからない。わからないことさえ、みんなと違う。だから助かる手立てはどこにも無いし、改善の見込みもない。もしも何か策を講じただけで変われるのなら、この十何年ものあいだにとっくに、変われている。


「信じられない話、というのなら私からもひとつお話しできますよ」


 ひとりでに涙が零れ落ちる。無関係の人間に、どうして、何を、こんな。


「今の会社に就職してから私、一睡もしていないんです。睡眠障害ではありません。病院で検査をしてもらいましたが、身体のどこにも、異常は、ありません」


 泣きながら笑った。器用なことだ。


「ここまで『問題なし』と言われておいて、この苦しみが私以外によるものなわけ、ないじゃないですか。ありえないじゃ、ないですか……」

『ありえます』


 いつの間に代わったのか、三十里の声が芽愛の頭を貫いた。


『ありえるんです』


 何をこころの拠り所にすれば、それほど強い言葉を吐けるのだろうか。


『眠りが必要ない身体になったのは、呪いが原因です。医者なんかにわかりやしません、なぜなら、これは超常現象だからです』


 見たでしょう。歩道橋から頭を下にして落ちたのに無傷だった真綺さんを。


「あ……」


 あの日、人体が壊れる音を聞いた。突然に死への恐怖が呼び起こされ尻もちをついた。だというのに、医者は確かに言っていたのだ。『奇跡的に異常はありません』と。


『論拠をもうひとつ示しましょう。南側の窓を開けてもらえますか』


 まさか、と思いながらカーテンをめくった芽愛の目に飛び込んできたのは、彼女の住むマンションの前に立ちこちらを見上げているふたつの人影だった。



『貴女の呪いを、引き剥がす手立てがあります』



 携帯電話を耳に当てている少女の瞳の光が、離れているにもかかわらず眩しく見えた。






 こんな話を信じる自分は、馬鹿なのかもしれない。睡眠を忘れた頭は、もう、とうの昔に正常な判断力を失っている。自分自身も、きっと元から普通ではなかったのだ。


 もしも、この世の大多数と同じに生きられる可能性が、ほんの欠片でもあるのなら。


「どうぞ。散らかってますけど」


 玄関の戸を開き、来訪者らを招き入れる。


「あっあの、あの、本当にすみません、こんな、すす、ストーカーみたいなこと」


 顔色を変えることなく会釈をし、靴を脱ぎにかかった三十里とは対照的に、真綺はせわしなく目をきょどきょどと動かしながら、すみません、と繰り返した。


「でも、これで信じていただけたかと思います。私が、貴女の記憶を盗み見て住居の在処を突き止めました。私も、呪いを受けた人間のひとり、なので」

「何を、」


 芽愛が三十里に詰め寄る。


「何をすれば、わたしは眠れるようになるの」

 三十里の指がまっすぐに伸びて、肩をびくつかせる真綺へと向けられた。

「彼が、呪いの容れ物です」

「容れ物?」

「自分の中にある異物を彼へと流し入れる感覚で、受け渡すんです」


 誘われるように真綺の手を取る。芽愛の細い指が彼の手の甲をなぞった。


「柔らかい……綺麗な手」

「え、あっ、ありがとう、ございます……?」


 こんな非現実的な話を信じる人間はいないだろう。それでも、縋れるのなら縋りたい。


 願わくは、たった一割の可能性を神様がすくい取ってくれますように。


 強く念じた次の瞬間、身体の奥から何かがするりと抜けてゆく感覚と共に、遠い昔に置いてきた懐かしい瞼の重みが大波のように押し寄せ、芽愛は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。











「おやすみなさい。疲れ果てた黒羊に、素敵な夢を」



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カラバコとマザーグース 水崎涼 @misaryo

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