第四篇・羊を数えど夜は来ぬ






 意識を取り戻した真綺が一番目に見たものは、病院の天井に光る白の蛍光灯だった。


「申し訳ありませんでした、本当に、申し訳ありませんでした……」


 二番目に見たものは、清潔な床に額を擦りつけて謝る、見覚えのある女の姿で、それとすべてが繋がった瞬間、彼はバネのようにベッドの上で身体を起こしていた。


「そ、そのひとを責めないで、ごめんなさい、おれっ、おれはほら無事だしどこも痛くないし、そのひとも辛いことたくさんあったんだよきっと、だから、ね、お願いします」


 何か言わんとしていた母親と、黙りこくっていた父親が、目を見開いて彼を見るので、思いつく言葉をまとまりきらぬままにまくしたてた。

 震える両手が伸びてきて、彼の頬をそっと包む。


「真綺、覚えてる? 何があったか、覚えてるの?」

「う、うん、はい、その女のひとを止めようとして、それでちょっと、歩道橋から落ちて」

「覚えてるのね? 全部、全部」

「? うん」


 頭を打ったことで記憶喪失の心配でもしているのだろうか、と戸惑う彼に、今度は父親が近づき、目を合わせゆっくりと疑問を投げかける。


「痛むところはないか。医者は奇跡的に何も異常が無いと言ってたが」

「な、無い。あ、ちょっと肩と腕、擦り剥いたっぽい。で、でもそれだけ」

「そうか。ほら、これだけしっかり話せてるし、大丈夫だろう」


 肩をさすられた母親が、ぽろぽろと涙をこぼしながら何度も頷く。


 夜空を飛んだあの晩、もしも自分が本当に死んでいたら、どうだったろう。仕事があるはずなのにこうしてわざわざやってきた両親のことだ。取り乱し方も、きっと、このくらいでは済まなかったかもしれない。


 愛されているのだ。


 自分は、愛されていた。


 生きていても、良いのだ。


 落としそうになった雫を目の奥に仕舞い込む。身を乗り出し、真綺は床にうずくまったままの女へと渡す言葉を丁寧に選ぶ。


「あの、顔を、顔を上げてください。おれが言うのも、違うかもしれないんです、けど。あ、あなたは何も悪くないです。来てくださって、謝ってくださって、あり、ありがとうございました」


 のろのろと目線を上げた彼女は、泣きじゃくったからか目元の化粧は崩れに崩れ、やつれたようにも見える頬には傷んだ髪が影を落として一層悲壮な雰囲気を加速させていた。

 何よりも真綺をぎょっとさせたのは、ファンデーションで隠れていたのか、初めに見たときには気がつかなかったほどの青黒い隈が彼女の両目の下にあったことだ。


「申し訳ありません、アナタを、危険にさらすつもりは……ありませんでした。申し訳、ありません。違います、違って、あのとき咄嗟に邪魔されたくないと、ご迷惑をおかけしてすみま、いえ、申し訳ありませんでした……」


 ぽそぽそと寝言のように呟きながら彼女の視線は定まらず、瞼はまばたきを繰り返す。真綺の声すら届いているか怪しいものだった。

 容貌から想像される年齢は、服の系統から察するに実年齢よりも高いはずだ。一般的なオフィスカジュアルよりも洒落た印象を受けるそれはモノトーンでまとめられていて、耳や指に光る小物にも卓越したセンスが滲む。働き盛りの女性、なのだろう。


 一体何がここまで憔悴させるほどに彼女を追い詰めたというのか。


「クジイさん。クジイ、メメさん」


 知らぬ声に振り返れば、病室の入り口に二人組の警察官の姿があった。


「はい」


 小さく返事をした彼女が立ち上がり、真綺、母親、父親へと三度会釈をしてから去っていく。何か、何かを言わねばならないと真綺は口を開く。


「し、死にたいのは、わっ悪いことじゃないっておれは思いたい、です」


 メメの瞳が僅かに揺れる。


「でもっ、迷惑かけるやり方だけは、駄目だと思います」

「ありがとう、ございます。本当にごめんなさい」


 血色の失せたその唇で彼女は、笑ったように見えた。


「救急車を呼んでくれたあのセーラー服の子も、同じことを言ってました。彼女にも謝罪と感謝を、お伝えいただけますか、すみません」

「セーラー服……?」


 首を傾げた真綺の脳裏に、ひとりだけ、思い当たる少女の姿があった。






「こんにちは、真綺さん」


 総合病院の一階を見渡せるカフェスペースで、サンドイッチをつまむ隅水三十里の姿を見つけた真綺は、周囲の様子を窺いつつ足早に彼女の席へと近づいた。

 スカート丈の長いセーラー服をまとった少女は、あの晩に彼が出会った人物と相違ない。幻のような不思議な雰囲気がいくらか薄れて見え、少しだけ同世代より大人びた女子高校生といった具合だ。化粧っけのない陶器のような肌が目を惹く。


「あ、あの、通報したの、す、隅水さんって」

「はい。今日は貴方が落っこちるところをよく見るなあ、と」

「ちょっ」

「冗談です」

「真顔で言わないでください……」

「そんなことより、貴方がこうして私を探しに来てくれて助かりました」


 す、と表情を硬くした彼女のただならぬ様子に、真綺も姿勢を正す。


「『ハックロビン』が、まだ私の中にいます」


 告げられた内容に首を傾げれば、三十里本人も得心いかぬという顔で頷く。


「昨晩、貴方に呪いを預けたあと、他人の記憶を盗み見る力は間違いなく私の中から消えていたはずなんです。何度も試して、確信していました」

「じゃあ、ど、どうして」

「メメさんの記憶が見えました」


 貴方が助けた女性の名前です、と手渡されたのは名刺だった。


『株式会社INGRESSO 久路井芽愛』


 洗練された幾何学模様に沿って、向こう側が透けて見えるデザインが施されている。紙とプラスチックの中間のような不思議な材質からも、彼女、芽愛の仕事が何か特別なものであることは察せられた。


「おそらく、ウェブコンテンツに関するお仕事だと思います。そんな記憶が見えました」


 言いながら、けほ、と三十里が咳き込む。眉間に皺を寄せながら彼女はアイスティーのストローに口をつけた。どことなく、顔色が悪い。


「その、記憶、なんですけど……」


 歯切れが悪い。


 見るつもりはなかったんです、いつもの癖で自殺の理由はなんだろうと無意識に疑問をぶつけてしまい見えたのですが。そんな前置きをしてから、三十里は言った。


「発狂せずにいられるのが不思議なくらい、ひどく、混濁していました」


 通常、人間の脳内は睡眠時に情報が整理される。だからこそ三十里も安全に明確な情報を得ることができていた。ところが今回、芽愛の記憶はあまりにも乱雑で、たとえるなら空き巣に荒らされた部屋のような有様だったのだ。


「音が、くぐもって、色も何もかも混ざって、歪んで、あんなもの、あんな、記憶なんてとてもじゃないけど呼べないものでした」


 寒くもないのに両腕をさする三十里の顔は血の気を失い、真綺は慌てて飲み物の入ったグラスを彼女の口元へと運ぶ。液体を喉に通しながら、彼女は平静さを取り戻そうと胸に手を当て深呼吸を繰り返した。


「寝てないんだと、思います」


 真綺の目の前に、三十里の開いた両手のひらが掲げられる。


「十年以上ものあいだ」

「え?」


 突拍子もない数字に、ぽかんと口が開く。


「そんな、まさか……」


 意図しない笑いが喉の奥を震わせた。


「人間がそんなに長いこと睡眠とらずに、生きてられる……わけ……」


 はた、と。ひとつの結論に辿り着く。頭の反対側で、楽観的なもうひとりの自分が笑い飛ばしたような気がしたが、それも霞んで見えなくなる。少女の視線に促されるように、唇が声を形成しようと動いて、そして、



「マザーグースの、呪い」



 瞳だけで、三十里がこっくりと頷いた。











「羊を数えても眠れない彼女を、貴方と私で、救いにいきましょう」



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