第三篇・ノットノウ、ノットナウ
長い長い、夜だった。
「真綺、おかえり。外、寒くなかった?」
玄関で靴を脱いだところで名を呼ばれ、身体を震わせた。
「う、うん」
「そっか。今日はあったかくなるかもね」
「か、勝手に、で、出かけて、ごっごめんなさい」
「出かけるくらいいいのよ。あ、でも、また何かに巻き込まれたかもって心配になるから、テーブルにメモだけでも残してくれると助かるかな」
きっと母親はダイニングの温かい灯りが漏れ落ちる廊下の端で、優しく微笑んでいるのだろう。二十七にもなって定職どころかアルバイトすらまともにできない愚息を、ただの一度も、責めぬまま。
自分は昨晩、死ぬつもりで家を出たのだ。それを彼女は、知らない。
ジワリと情けなさから生まれた涙を隠すように、早足で階段をのぼり、上階の自室へと逃げるように飛び込んだ。枕に顔を押しつけ、呟く。
「死にたい」
家族の誰にも聞かれないように。彼らは、なぜだか悲しそうな顔をするから。
真綺には、わからない。母は自分のせいで恥をかいただろう、父は穀潰しを負担に思っただろう。ならば、消えたところでふたりに利はあれど、害などひとつも無いはずだ。
不気味だと、恐れてしまう。自分を気遣う言葉をかけられるたび、泣きたくなる。理解できない。説明がつかない。本当は殺してやりたいと憎まれているかもしれない。
ああ、他人の心が解せたとしたら、どれだけ良いだろう。
それこそ、どこぞのコマドリのように。
「でも……」
今日に限っては、少しだけ気持ちが穏やかであった。
「ほんとに、心配……してくれてた、の、かな」
声色から、空気から、慈愛が伝わった。それは、ほんの小さな雫ではあったが、空き缶のような冷たい身体の中で、ぴちょん、ぴちょん、と反響し心の奥まで音を届けに来た。論理的な証拠はひとつも用意できないけれど、肉親だからというただそれだけの理由で、彼女は真綺の無事をいつだって祈っている、そんな気が、するのだ。
ズキリ。後頭部が痛んだ。
『空っぽな貴方の、中身を、取り戻しましょう』
少女の真っ白な声が蘇る。
真綺の異常。唄を蓄えるための空っぽの身体。中が満ちるまでは死すら満足に遂げられない身体。それは、わらべうたから与えられた呪いなのだと言う。中身を失ったために元に戻ることが叶わぬ『エンプティダンプティ』。だから、唄を集め内部に詰め込めば、彼は本来の姿を取り戻せる。真っ当に自死に臨める。
或いは、ひょっとすると社会の片隅で縮こまることも希死念慮に苛まれることもなく、まるで多数一般の人間のように暮らしてゆくことすら、夢ではないかもしれない。
「おれがゴミクズなのは、おれのせいじゃないって、こと」
にわかには信じがたい話だ。勿論、そうであればいいと、何度願ったかはわからない。いっそ何か明瞭なトラウマによって引きこもっていたのなら良かった。そうすれば、欠片でも自分が正当化される気がしていた。ずっと。
そんなに辛いことがあったのだから仕方がない、と。
けれど、喉から手が出るほど欲していた理由をいざ眼前にぶら下げられ、鵜呑みにできる真綺ではない。楽観的な生き方は、とうの昔に忘れている。
例えば、隅水三十里の語ったすべてが狂言だとしたら。
「でも記憶を読めるのは、本当……ぽかった」
疑心は瞬く間に打ち消されてしまう。それほどまでに、彼女の言葉には重みがあった。
問題は、彼女の『ハックロビン』なる能力が、真綺へと送り込まれたことでどのように変異したのか、ということだ。質量保存の法則ならば、彼には他人の記憶を掠め取る力が備わるはずだが、現時点でそのような兆候は無い。
『ハックロビンは、もういない』
彼女の涙声が、ぼやけ、にじむ。
『貴方が満たされたと感じたとき、きっと――』
夜通し彼を翻弄していた非日常が、疲労へと姿を変えて眠気を誘う。思考を続けなければと前のめりの理性に反して、瞼はゆっくりと落ちてゆく。
白色の朝陽がさらさらと降り落つ寝床の真ん中で、真綺は身体を丸めて眠りについた。
*
39[やっぱりアキさんはすごいです!]
Aki[突然どうしたのw]
39[すみません。ハンプティダンプティの考察が本当にその通りだと思ったので。]
Aki[え~そうかな? 全然違うかもしれないよ?]
39[そんなことないです。絶対に合ってます。]
*
おのずから目が覚める頃には、太陽はすでに真上を通り過ぎていた。
寝不足で鈍痛を訴える頭を押さえながら寝床より這い出る。
「隅水さんに、会わなきゃ」
半ば無意識に、口を突いて出た意志だった。
わからないことが山のようにあるのだ。彼女ともう一度話をしなくては、と強く思う。
三十里は、呪いを得る前より自分は異端だったと言った。真綺とは違う、と。けれど、きっとそれは間違いだ。夢幻の少女に惑わされ空虚さを棚上げしようとも、人生の滑落は間違いなく彼自身の性質が原因なのだ。
会わなくては。免罪符を手に入れるためだけでなく、自身の異常と真に向き合うために。
「あ……」
玄関で靴を履きかけたとき、今朝方の母親の声がふと頭を掠めた。片足で跳び跳ねながらダイニングまで戻ると、細い鉛筆の走り書きをテーブルに残し、真綺は家を後にした。
さりとて、どうやって三十里を見つけたものだろう。
茜色が迫るなか、闇雲に足を向けた先には帰宅ラッシュを迎える最寄り駅がある。犯罪じみている気がしなくもないが、学生と思しき彼女を捕まえるには改札口前に張り込むくらいしか案が無い。
頭を悩ませ歩みを進めるうち、駅ビルへと繋がる歩道橋に差し掛かる。
最後の一段に足をかけたその瞬間、目に飛び込んできたものを理解しきる前に、真綺は猛スピードで走り出していた。
「っ、待って! お願いします待って‼」
掠れ声に周囲の人間が次々に振り返る。そのなかで、ひとりだけ。ゆったりと波打つ髪を背中に降ろした彼女だけが、真綺の方を見ることなく、
「待てって、言ってんのに‼」
紺色のヒールを履いた足が持ち上がり、欄干を超えようとしたとき、追いついた彼の手が肩にかかる。そのまま力を込め振り向かせたその両目には怒りと涙が溢れんばかりに満ちていて、一瞬怯んだ真綺の隙を女は見逃さなかった。
「離して! アナタには関係ないでしょう!」
痩身からは想像もつかない力で腕を振りほどこうともがく彼女を、羽交い絞めにしようと真綺も抵抗する。カシャ、カシャリ。シャッター音と、ざわめき。人の声。
ぐき、と鈍い音がして身体が傾いだのと、平静さを失った女の手が真綺の首にかかったのは同時だった。背中の上から下へと、鉄の冷たい感触が滑る。爪先から頭へと、重力の気配が移り変わる。
「あ……っ」
昨夜感じたものとひどく似た感覚。
(今だけは、死ぬわけにいかないのに)
世界の速度が落ちる。自分を突き飛ばした女の絶望に満ちた顔がよく見えた。
(あんなに死ぬつもりでいたのに、こんなこと考えるだなんて)
「変なの」
自嘲的に笑った彼の身体は、そのまま車両の行き交う道路へ真っ逆さまに落ちていった。
「泣かないでください。あのひとは、大丈夫です。今にわかりますよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます