第二篇・蠅は見ていた
じきに始発電車が走り出すのだろう。
閑散としていた通りには、ぽつぽつと疲れた顔の人々が見られるようになった。これから働きにゆくのか、家へと帰るのか、傍目からでは判別がつかない。
「本当なら、お、じ、自分も、ああして、生きてたのに、って」
どうせ三十里にはすべて知られてしまうのだから。数分続いた沈黙のおかげでいくらか平静を取り戻した真綺は、消え入りそうな声で呟く。
「働かずして生活することかもしれませんよ、あのひとたちの願いは」
「そう、ですね。で、でも」
誰に羨まれようとも、真綺の苦しみは真綺だけのもので、他の誰にも理解はできない。三十里でさえ、わかっても、決して、わかれない。
結局は、ないものねだりなのだ。
反論をうまくまとめられず口を噤んだ彼の隣で、三十里がふうと息を吐いた。
「すみません。お前の言うことは論理的かつ正論すぎて会話が成り立たない、と言われ続けてはいるのですが、この調子はどうも直せなくて」
「えっ」
「先程も、年上の方を相手に失礼な物言いをして、すみませんでした」
「あっ、いや、ぜんぜん」
彼女の猫のように大きな瞳がわずかに陰り、真綺は慌てた。
「違うんですおれが社会からはみ出たクズだからいけなくて、あなたは礼儀正しくて真っ当なひとだからおれに謝る必要は何ひとつ無くて」
「……」
「おれがどうしようもない愚図で喋るのも下手糞なだけなんです本当にあなたがいけないことはないんです、理論と正論を悪く言う人間はそれを突き付けられると自分に不利になるとわかっている姑息な奴です気にしないでください」
「っふ、」
控えめなくすくす笑いでピタリと真綺の言葉が止まる。口元に手を当て背を丸めていた三十里は、それに気がつくと両腕を降ろし背筋を伸ばした。
「すみません。真綺さんは、ご自分を卑下するときはそんな風にスラスラ言葉が出てくるんだなあと思いまして。驚きました」
「うっ、え、っと」
真っ白な頭で口走った内容を思い出せず、首から上にブワッと熱が集まった。どこか冷たい表情ばかりを浮かべていた彼女が、あまりにも可笑しそうに顔をくしゃくしゃにしているので、戸惑う真綺はただただ俯くしかない。
「しかし、安心しました。きっと貴方は、本来ならばまっすぐで優しいひとです。おそらく私は、初めから他人の感情がわからない人間でした。機微どころか、何もかも。ただでさえ異端だというのに記憶を見る力を持ったことで、よりいっそう道を踏み外したんだと思います」
「そ、んなこと」
「だから、貴方なら絶対に、なおせます。元の姿を取り戻すだけですから」
「む、無理です」
「カウンセリングだとか、そういう話ではありません」
きっぱりと言われ面食らう真綺の手を、三十里は固く固く握りしめた。
人肌の熱が近い。奥で、炎が揺らめくような。
好戦、興奮、どれも合っている。が、おそらく最も近いのは。
「空っぽな貴方の、中身を、取り戻しましょう」
期待?
「――ッ、ぐ‼」
瞬間、呼吸が吹き飛ぶほどの衝撃が彼を襲った。
ズシン。
文字にするならばこれほど当てはまる擬音もない。
脳だろうか、肺だろうか、それとも、もっとほかの内臓か。突如として見えない何かにギュウと全身を圧迫された感覚に、酸素を取り戻そうと喘ぐことしかできない。
「何を、したんですか」
考えられる原因は目の前の少女しかない。震える声で真綺は問うた。
「……うまく、いった」
三十里は、肩を上下させながら大きく息をつく。その両の目の奥が、ぎらぎらと光っているのが見えた。握られた手にじわりと汗が滲む。
「九分九厘、願望だったんです」
彼女の滑らかな額が、動けずにいる真綺の手に押し付けられ、
「私にとって都合のいい話を聞かせてくれる人がありました。それに縋ったんです。でも現実だった。私だけがおかしいんじゃなかった。良かった、本当に」
安堵のため息が無骨なアスファルトの地面に吸い込まれてゆく。『ありがとうアキチカさん』と、愛しいひとか神様か、気高く美しい者の名を讃えるように何度も何度も繰り返す彼女に真綺はおそるおそる問うた。
「どういう、ことですか」
「仮説は証明されました。ハンプティダンプティを元に戻せなかった理由、それは、中身が飛び散ってしまったからなんです。破片が揃っていても、核が無ければ、直らない!」
少女の華奢な身体が迫る。強く、苦しいほどに強く、抱きしめられた。
「言うなれば、貴方は『エンプティダンプティ』」
甘い、バニラの香り。
「わらべうたの容れ物になれるひと。マザーグースの呪いに苦しんでいる人間を救うことができるひと。そして同時に、それは自分自身の大切な中身を取り戻すことになるんです」
絹のような肌の感触と香る体温が、長らく冷えきったままだった真綺の身体をじくじくと蝕んだ。彼女に与えられた胸を潰されるような痛みが、ゆっくり全身へと広がる。
「私の異常を引き受けてくれて、本当に、本当に、ありがとうございます」
三十里の声は泣いていた。
「『ハックロビン』は、もういない」
彼女を世界から引き剥がし、その心に居座った唄は、もういない。
どんなに疑問をぶつけても、他者の脳は最後まで三十里に、本当の答えをくれなかった。気持ちという曖昧なものを渡されたところで、それらを上手に料理し世渡りに活かす術を彼女はそもそも持ち合わせていなかったのだから。
汲み上げた自分と別個の存在の感情を、持て余し、押し潰され、挙句には気味悪がられ。
他人の思考の空を思うままに滑空する翼は、それまで不器用に繋がっていた交友の糸を残酷にも絶つ矢羽であったのだ。少なくとも、三十里自身にとっては。
「マザーグースの呪いと、さよならをしたんです」
真綺の丸まった背中の中心、心臓の裏側を、ひんやりとした手がさする。
「これもまた、貴方を苦しめる呪いでしょう」
中身のないハンプティダンプティ。
塀から落ちて粉々になったとしても、中身が無いのだから壊れるだけ。破片を繋ぎ合わせてしまえば綺麗に元通り。なんて救いのないことでしょう。
「貴方が満たされたと感じたとき、きっと『エンプティダンプティ』もいなくなる」
滑稽なナーサリーライムのように、含蓄があって可笑しな話。正しく中身を失うために、空っぽな男が自分の中身を拾い集めなくてはならないだなんて。
「そしたら、おれはちゃんと死ねるの?」
「はい。きっと」
誰が付き添う? コマドリの雄に
私が付き添う! ヒバリが言った
そこが闇夜でないのなら
ともに参ろうコマドリと
さあ、唄集めをはじめましょう。
「マザーグースの子どもたちから受け取ったものは、果たして呪いだけだろうか」
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