第一篇・ カラバコ






 この気持ちを、どう呼び表すのが正しいのだろうか。



 自覚を持ち始めたのは、中学生時代からだったと真綺は記憶している。いつを境としてかは杳として知れないものの、自分だけが世界と切り離されたように思うことが増えた。

 人並みのことはできた。同年代の子どもたちに紛れることもできた。それでも、置いて行かれるという漠然とした焦燥が募る。過ぎ去った年月が増えるほどに、追い詰められた。


「御山車、本当に何も無いのか?」


 大学受験を控えたある日のことだった。白紙の自己PR書を前に、担任教師に突き付けられた言葉が未だに身体の奥深くにずっぷりと刺さったまま抜けずにいる。


「……ありません」


 自分にだけ『唯一』が、無い。

 自分だけが『空っぽ』、なのだ。


 恐怖と孤独の沼は彼を頭まで呑み込んでしまった。中身を持った他人が怖い。光が痛い。がらんどうの心と身体には、自分のすすり泣きが空しく響くだけだ。






「よくわかりませんね」

 

 朝靄に濡れる冷たい空気に、吐き出された言葉は白い。


「えっ、な、何がですか」


 多く見積もっても確実に自分より若いであろう彼女に、真綺は及び腰で問うた。ふたりの手にはそれぞれ同じコンビニコーヒーのカップが握られている。


「貴方が死のうと思った理由が、です」

「か、関係ない、じゃないですか、あな、あなたには」


 ついぞ出会ったばかりの小娘に一大決心を批判され、さしもの真綺も語気を強めた。

 投身場所に突然現れた見知らぬ彼女は、意味不明な自己紹介をしたのち無言で飲み物を真綺に差し出した。それに口が付けられたのを見届けると満足そうに隣に腰掛け、そうして一言のコミュニケーションも無いまま、先の「よくわかりませんね」へと繋がるわけだ。

 長らく他人と話していない。声がうまく出ない。それでも怒らずにはいられなかった。


「はじめましての、ひ、ひとに、おれの、何がわかるんですか」

「わかるんですよ。わかったうえで、わからないんです」


 ところが彼女は、ピシャリと彼の精一杯の反論をはねのける。


「だってすごく曖昧で、感覚的」

「おれはっ」

「高校の自己PR書」


 肩が跳ねた。


「私も先日書かされました。確かに悩みますが、普通、そこまで自分を追い詰める代物でもないでしょう。周囲にはホラ吹きも白紙提出もわんさかいます」


 驚愕を猛スピードで通り抜け、恐怖が全身に広がった。咄嗟に立ち上がった真綺の手から、カップが滑り落ちアスファルトの上に中身をぶちまける。

 チープな値段に不釣り合いな、深い、アロマ。


「なん、で」

「『なんで』?」


 凪いだままの三十里の瞳に、みすぼらしいプリン頭の男が映っている。


「質問で返します。『なんで貴方は生きているのですか?』」


 飛び降りても死ねなかった理由。トラウマを言い当てられた理由。それらは寄ってたかって真綺の不安定な精神を揺さぶった。表面張力が感情の波に負け、両目からぼろぼろと零れ落ちる。


「泣かなくたって……」


 大の男の涙を見て、三十里にも思うところがあったらしい。まろやかな手が、優しさを伴ってそっと彼の指先に触れる。不格好な丸い爪を、温めるように。


「マザーグースを知っていますか」


 コクン、と頷く動作と、スン、と鼻をすすった音のシンクロに、彼女は少しだけ笑ったようだった。小さな子どもへ読み聞かせるように一音ずつ丁寧に、言葉が続く。


「英国のわらべうたの集合、そのなかに、こんなものがあります」



誰が殺した? コマドリの雄を

私が殺した! スズメが言った

私の弓と矢羽を以って

命を奪ったコマドリの



「コマドリのおとむらい、という唄です。別名が、」

「……クックロビン」


 はい、と三十里が首を振る。


「この国での知名度は低い。そもそも、伝承童謡自体が近頃は失われつつあります」


 時代に置いてゆかれた唄たちは何を思うでしょう。人々に存在を忘れられたくはない。全力を尽くして追いつきたいと思うか、足を掴んで引きずり降ろしたいと思うか。


 答えは、両方。


「私は、自分をクックロビンと称しましたが、あれは厳密には間違いなのです」

 マザーグースの子どもたちは、姿を変えて人間の内部に住むことを決めた。

「『何が追い込んだ? 貴方を自殺という選択に』」

「えっ」

「こうした問いを用意することで、私は関連する貴方の思考を、まるでハッキングしたかのように覗き見ることができたのです。ぴったりだと思いませんか、たとえば、」


 口角を吊り上げた三十里の顔は、誇らしげにも、忌まわしげにも、見えて。


「『ハックロビン』、なんて呼び方が」

「そ、それって」


 はく、と出来損ないの声が、呼吸音として真綺の喉から飛び出した。三十里は頷く。


「言ってしまえば、私は特定の条件下で他人の記憶を盗み読むことができます」

「丑三つ時の話も……」

「『考えていたのは何? 飛び降りる瞬間に』」


 たとえば。


『何をしていた? あの日あの時間に』

 見えるのは、当該日時の記憶。


『何を思った? あの話をしたときに』

 読めるのは、湧き出た感情の数々。


『誰が殺した? あのひとを』

 もしかすると、こんな風に問うこともあるかもしれない。


 言葉を継ぐことができなかった。こんなものは設定が凝った小説の中でしかありえないはずだと、言いたくても真綺にはできない。たった今、夜空からアスファルトへと投げつけた無傷の身体が、何よりも三十里の話の支持者であるのだから。

 ぐわぐわと揺れるふたつの眼球を、彼女は静かに見ている。今にも倒れそうに浅い息を繰り返す真綺を、助けようと手を差し伸べることも大丈夫かと声をかけることもせずにいる。彼の体内で渦巻く感情を見透かし、さらには彼がオーバーヒートを起こすことなく、そいつを御しきれると確信しているかのように凪いだ表情で、ただ。


「わ、かんない」

「わかってください」

「でも、だ、だって」

「混乱はただのまやかしです。貴方は、とっくに頭では理解しているでしょう」


 止まりかけていた涙がジワリと瞼に溜まる。鼻が熱い。真綺は言った。


「頭でわかってても、感覚がついてかないこと、ある、もん、あるんです、三十里さんにはわからないかもしれないけど……っ」


 そのとき、初めて三十里の顔に年相応の感情が走ったのを、自分のことで脳内を生めた真綺は目撃することができなかった。


 ほんの、一瞬。


 横っ面を平手で打たれた子どものように、目を見開き、口を引き結び。


「……そうですね」


 真新しい歯型の付いた赤い唇が、言葉を吐く。


「それでも受け入れてもらわないと困ります」


 真綺を強く見返した三十里の瞳にはもう動揺の色は残っていない。


「これからのことを、話さなければならないので」


 そっと両肩に置かれた手のひらには少しも力が籠っていなかったというのに、真綺は、促されるままに一歩、二歩、元の場所へ後退り、そうして駐車ブロックへと腰を落とした。

 平熱のままの三十里の目が、すう、と彼の顔から胴を流れる。


 いつか、どこかで、誰かに、こんな風に見られた経験が、真綺にはあるような気がした。











「次は貴方の話をしましょう。落ちて粉々になったハンプティを、どうして誰も元に戻せなかったのか。破片はそこに、すべてそろっていたはずなのに」



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