第41話南米ケチュア国

日本で起きた、国民100万人のバイオメトリクス情報公開を人質に5000億円を政府に要求した事件は世界中に報道された。総理の決断により、犯人グループに要求の金額は支払われる事はなく、事件は解決に向かった。犯行に使われた巨大な個人情報データベースが隠された、大型トレーラーに連結されたコンテナ型データセンタが、手術ロボットと一緒に政府に押収されて国内の100万人は自分かも知れないと、疑心暗鬼になっていた人々も一応の安心を得た。

警察とサイバーセンターが中心に、押収されたコンテナデータセンタを専門家が詳細に調査して流出した個人情報の確認をひとつひとつ行っているが、全容がわかるのは数年後ということだ。

第三者として勝手に誰かの個人情報を送ってこられた人々は、送付リストに犯罪歴の有る人以外にごく普通の人々が大勢含まれている事を知って、持っている情報をサイバーセンター(この事件の被害者確認の為に設立された政府の外郭団体)に受け取った誰かの個人情報の内容を続々と届けるようになり、流出情報の確認にとても貢献している。

犯人グループは一人残らず逃走してしまった。サーバ隠蔽に使った独自言語の国をハブにしてとても巧妙な逃走ルートを犯人は個別に確保していたようで、追跡調査は困難だ。

あの海上空港からの渡瀬のゆくえもまったく分からない。

この事件の解決を導いた定年再雇用の甘粕刑事は表彰された。

彼の勘ピュータなるものも、今後、AIのディープラーニングのテーマとなるらしい。彼の昭和の捜査ノウハウは警視庁から消滅しないことになった。この事の価値は実はレジーが一番良く分かっているようだ。

 刑事と共に犯人割り出しにラズベリーAIの能力制限を独自判断で開放して事件解決に大きく貢献した成川大臣はこの件で国民の信頼を集め、次期の党総裁が狙える地位にまでになった。

あの三日間で猛威をふるった全国の自警団もみな解散して、普通のお父さんやおじさんに戻った。子供たちも普通に学校に行けるようになった。

親たちは、いくら自分の子供が可愛くとれた写真であっても、WebやSNSに掲載するのは控えるようになった。


国民的には、パスワードやバイオメトリクス認証、SNSや個人情報の利便性と危険性の考え方が一般化し、これからの未来はこのような事件が起きるベースは少なくなったように思える。

彗星のように登場して爆発的な人気だったバーチャルアイドルの「エル・ベリー」はライブ中に普通の女の子に戻りますと突然の芸能界引退を宣言し、自ら宣言した引退日以降はVOXエンタテイメントの技術スタッフがAIインタフェースの指定アドレスに接続しても何も答えなくなった。技術スタッフチームは「エル・ベリー」の残ったデータを使って別の方法でクラフイックスとボーカロイドを再現しようとしたが、なぜかエルの魅力的なキャラクターにはならなかった。VOX総帥の末野代表が、突然出て突然消えるのもバーチャルアイドルのエル・ベリーらしいということで再現の試みは代表命令で中止となった。

ただVOXエンタテイメントは未発表のまま残った本当のエル・ベリーのライブ画像や歌などの未発表コンテンツを大量に持っており、商品としては永遠のアイドルとしてこれからも長く自社に貢献するとみたのだろう。


僕は事件の起こる前とあまり変わらない。

今も都下の箕輪中央病院で、手術支援ロボ ダヴィンチを使って人々の腕にスマホチップを埋め込む仕事を続けている。あの事件以来、僕はダヴィンチの信者になつてしまった。

麻衣さんに叩き壊されたレジーターミナルは新発売のラズベリーパイコンピュータユニットを内蔵して2代目だ。エル・ベリーを引退して普通の女の子に戻ったレジーとはそれなりに楽しくやっている。

この前はレジーと一緒に行った箕輪中央のカラオケボックスで、歌っているレジーの歌を漏れ聞いた隣のボックスの人がこのAIターミナルでデビューしませんかと名刺をくれた。

なんでもAIインタフェースを使った自作ターミナルのボーカロイドが人気で、その人は街に出てAIボーカロイド専門のスカウトをやっているらしい。

街で歌っているAIボーカロイド専門のスカウト?

なんだかわけのわからない世の中になったものだ。


人とコンピュータとの境界線が以前よりはずっと薄れてきているような気がする。

そのスカウトの人の名刺をもらったら、なんとVOXエンタテイメトだった。


今年生まれた子供たちの半分が将来つくであろう、今は存在しない職業なんて想像もつかない。

麻衣さんが言っていた、公の組織に深く入り込んだ謎の組織は僕の前には現われない。

だけど今も存在しているのだろうと思う。誰かの為に特別に何かをやるというのは、人間の本能みたいなものだ。それは良い事も悪い事もコンピュータやネットワークがどれだけ進歩しても続いてゆくのだろう。


初代のレジーターミナルをトレーラーの運転席でモンキーレンチを使って叩き壊した麻衣さんの行方はレジーも分からないそうだ。(本当は知っているのかも知れないが)



南米大陸の西、ペルーとエクアドルに挟まれた山間の一帯が、新しい独立国ケチュアだ。

ケチュアも首都はそれなりの都市だが、中央から離れたこの地域には携帯電話はおろか電気さえも満足に供給されていない。

しかし、強大でありながら、全く文字を持たなかった大インカ帝国の末裔を自負する人々は、電気の事など気にも留めずたくましく生きているのだった。

メルカド(市場)の隅に腰掛けてあたりを眺めている男がいる。

黒い髪。陽に灼けた男の顔は、このあたりのケチュア人と同じ人種に見える。右目には黒い眼帯を付けていた。


男はここからでも2日は掛かる小さな集落の出身らしい。ケチュア語は流暢だ。

ハーフパンツにサンダルといった格好のドイツ人カップルのツーリストがスマートフォンを出して男に何か聞いている。

男は流ちょうなドイツ語で、充電設備は無いし、あってもスマートフォンは基地局が無く使えないと説明している。手振りも交えて、そんなものはここでは何の役にも立たないから、捨ててしまえと言っている。

カップルは肩をすくめて礼を言い去る。


男の子が一人、男に近づいた。

葉書を差し出して真剣な顔で何か頼む。

男は笑いながら手帳と矢形のクリップが付いた銀色のペンを取りだす。

 取りだした手帳に書いてある外国に出稼ぎに行っている字が書けない男の子の父親の住所を調べ、葉書に宛先をスペイン語で書いてやる。

宛先を書いてもらった男の子は笑って葉書を受け取り、何かの果物を無理やり男に押し付け、手を振って人込みに紛れる。

笑いながら男も答えて手を振り返す。

市場の中央で、打楽器の音が鳴り、リズムの後を追ってケーナとチャランゴのメロディーが鳴りだした。


片目の男の前に、一人の女が立った。


三つ編みの髪を両側におさげにして山高帽にカラフルな現地のショール。

背が高く足が長い。人種と格好は現地の女性そのものだ。

女が男に話しかける。男が女を見上げてケチュア語とは違う言葉で何か言った。

遠い日本の言葉で「麻衣」と言ったようだ。


女は少しだけ笑って、男の隣の椅子に場所を作り腰をおろした。

二人はそのまま動かない。静かに夜までの時を数えているようだ。

夕暮れ時が過ぎ、星が全天にきらめき出した。

広場の片隅から獣油ランプの光がひとつ、またひとつと増えていった

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