人の問ふまで
夏祭り当日。
僕らのバンドは大成功だった。竜崎も他のメンバーもやりきった顔をしている。
僕は僕でステージから『彼女』を見つめていた。『彼女』のために歌うつもりで。
想いは届かないと思うけど、知ってか知らずか『彼女』はニコニコと僕に手を振り「アユム!」と何度も叫んでくれた。
そうして僕らの夏は終わり、部活も引退した。新学期が始まると、ある小さな一つの問題に直面した。部室で昼食をとることができなくなったのだ。竜崎と校舎をあちこち探索した結果、屋上へ向かう階段が静かでよい、ということになった。屋上は鍵が掛かっていて入ることはできないが、誰も通りかかることのない踊り場にあるそのドアにもたれて二人並んで弁当を食べた。部室より教室に近くなったこともあり、食後余った時間で音楽を聴きながらウトウトすることも増えた。
その日はちょうど、竜崎が好きなバンドの新譜を聴いていた。ゆったりとしたバラードで甘いボーカルの声にストリングスの音がそっと寄り添う。右耳から聴こえるその音に体を委ね目を閉じていると、しばらくして竜崎が体を起こす気配がした。
そのまま何小節か過ぎ、微動だにしなくなった竜崎を訝しんで目を開けようとした時、唇に何かが触れた。少し湿った柔らかい何か。
竜崎が僕にキスをした。
数秒後、何もなかったかのように竜崎は再び体をドアにもたれかけさせた。
きっと僕が眠っていると思ったのだろう。だから僕も何も言わない。ただ目を閉じ、眠っているように見えることを祈っていた。
竜崎が僕に触れた時、口元にチクっとした微かな痛みを感じた。確実に竜崎が男の体になってきていることを、僕はこの日知った。そして泣きたくてたまらなくなった。
冬休みになり僕と竜崎は別々の高校を受験した。『彼女』も竜崎と同じN高校を受けたらしい。そしてそれぞれが合格したことがわかったのは卒業式の数日前のことだった。
『彼女』は卒業式に来なかった。
理由はみんながわかっていた。小さい町だ。
『彼女』の家が火事になり、両親と家を一度に失ったのだ。風の噂で、施設ではなく知人の家に住まわせてもらうことになったと聞いた。
卒業式が終わり、誰もいなくなった教室で『彼女』の席にそっと座った。
『彼女』はこれからどうするのだろうか、高校へは行くのだろうか。どちらにしろきっともうほとんど会うこともない。
「またね」と声をかけることすらできずに離れ離れになってしまったのだ。そしてそのうちただのクラスメイトだった僕のことなんて忘れてしまうだろう。
引き出しに手を入れると指先に何かが触れた。そっとつまみ出すと、それは『彼女』が愛用していた淡いピンクの色付きリップだった。ゆっくりキャップを開けるとイチゴの匂いがふわっと広がった。
同時に、初めて僕を見た時の『彼女』の笑顔や、夏休みにライブで手を振り叫んでいた『彼女』の声も脳裏に蘇った。
この先、イチゴの匂いを嗅ぐ度に『彼女』を思い出してしまうかもしれない。そんな呪いをかけられたような気がした。
リップをゆっくり口元に運ぶ。許されないことをしているのはわかっていた。リップを上唇にそっと滑らす。冷たい感触と甘い匂いが広がる。下唇をゆっくり二度リップでなぞる。『彼女』との最初で最後のキス。
別れの儀式を行っているはずなのに不思議と涙は出なかった。初恋が未完のまま終わったことを強く認識しただけだった。
教室の入り口に竜崎が立っているのに気付いた。僕を探していたようだ。こちらを見て驚いている。
「アユム、口が赤いよ」
その言い方がまるで僕がとんでもない魔法を使ったかのようだったので、思わず笑ってしまった。
「リップだよ」
『彼女』のリップをそっと振ってみせる。そのまま竜崎の側まで行くと、入り口横のゴミ箱にそっとリップを投げ入れた。
竜崎と並んで廊下を歩く。竜崎は僕よりも数センチ背が高くなっていた。白く長い指も、少し筋張ってきている。今、僕の隣を歩く竜崎は中性的な少年から美しい男へと変化を遂げようとしている。
高校に馴染む頃には僕とのキスなんて忘れ、きっと僕と会うこともなくなるのだろう。
僕はどうなっていくんだろう。
ともあれ、私服の高校に行けてよかった。
ようやく忌まわしいこのセーラー服から解放される。僕は僕として生きて行くんだ。
しのぶれど なっち @nacchi22
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