浮遊街

pakucyann

路地裏

一般の大学を卒業するころにはそれなりに社会の厳しさというものを覚悟していたつもりであったが、いざ労働者たちの構成する息苦しいヒエラルキーの中へ片足を踏み込むと、見るも一年で私の精気は無残にも心身ともにくたびれ切ってしまった。新人社員として最初は張り切っていたアイロンがけの白いワイシャツも、今はどの個所もしわだらけで見る影も見当たらない。ジグザグに曲がりくねった歪な形の私のネクタイは、社会の厳しさを両側から一心に受け止めた結果、凶悪な金属バットで散々殴られた後のような打ちひしがれようである。


当たり前のように突きつけられる会社の残業は今日も今日とて私の精神と肉体を蝕み、満身創痍の状態で正常な判断を奪い去った後、帰宅の電車もそっちのけで私をいつもの居酒屋へと足を運ばせた。思考回路と四肢の自由だけでなく私の財布の中身まで持っていこうとするとは。まったく残業というやつは忌々しいだけでなくとんでもない家計の悪鬼である。


居酒屋でおぼれるように酒を飲んだ。たちまち酔いは私の全身を回り、疲労困憊した疲れ顔を強引に赤く染め上げた。喉元で急に押し込んだアルコールが、束の間だけ私を苦痛から解放してくれる麻薬のように働いた。酒を飲まずにはやっていられないという言葉は、まさに今の私のような者のために存在する台詞である。頭がぼんやりとしてぷかぷかと浮かんだような酔いどれの感覚は私を世間の重みから解放して、まるで宙へ浮かばせてくれているかのような気にさせる。もちろん、それが明らかに勘違いであることは重々承知している。


この重労働な日々を定年まで同じように繰り返していく。皆黙々と仕事へ赴き、なすすべもないまま過ぎていく時間の一時一時の中で私はたったひとり孤独である。支離滅裂な思考が、空想の中で悲しいイメージを徐々にかたどっていく―――。



絶え間なく稼働する巨大な機械の歯車の中で、耐えかねた小さな部品がネジを外れ暗闇の底へ落ちていく。ほんの小さな部品がなくなったところで、巨大な機械は動きを休めることはない。機械の設計は驚くほど頑丈にできていて、替えのパーツはいくらでも用意してある……。


大量の酒をうまく消化しきれなくなってきたせいか、眩暈とともに強烈な吐き気が私に襲い掛かってきた。おもむろに咳き込み、目元に涙を浮かべた私は、なぜ自分が今泣いているのかもはっきりしないまま朦朧とした意識の中で全て溶けだして消えていくような感覚に襲われた。


その時だ。不意に胸から競りあがってくるものがあり、私はその場で大口を開けて嗚咽を漏らした。てっきり我慢できずに嘔吐したかのように思われたが、違った。口の中から飛び出してきたのは私のため込んだ吐瀉物ではなく、白っぽい丸みを帯びた霊魂のようなものであった。


なんだ、これは……?


私の口から飛び出してきたその霊魂のようなものは、ふわふわとしばらく私の目の周りを漂った後、居酒屋の垂れ幕を潜り抜けて外へ抜け出していった。私にはそれがひどく切なく目に映ったのである。ああ、行かないでくれ。私はいてもたってもいられず、勘定をするのも忘れ、あれはどこへ消えてしまったのかと慌てて店を飛び出した。必死であとを追いかけていく。ほどなくして人影もない軒並みの暗がりに、霊魂のようなものは細い路地裏の奥へ姿を消した。


焦燥に駆られる私もまた、吸い寄せられるように路地裏の奥へ押し入っていく。あれを失うわけにはいかないと、今の私の直感が告げている。泥酔した神経がむき出しになったかのように、胸の鼓動がひと際強く緊張で脈を打った。自分の中から大事なものがぽっかり抜け落ちてしまったような、妙に気色の悪い心持ちである。奥へ奥へ進んでいくも、霊魂のようなものは一向にその姿を現さない。ひょっとすると、もうどこかへ消えてしまったのだろうか?


何かよくわからないうちに、私は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれなかった。しかし今更立ち止るわけにもいかないだろう。見知らぬ路地裏の一本路を、私はひたすらに突き進んでいく。歩きながら、何とも言い難い絶望感に幾度となく襲われた。時折空を仰ぎ見るものの、天には星一つ何も映らない。ここはどこだろうか。私はどこへ向かおうとしているのか――。


長い長い路地裏の道の終わり、とうとう霊魂のようなものは最後まで見つけることはできなかった。


そんな……。


私はため息混じりに頭を抱えるような心境で立ち尽くしていると、そこに突然、一匹の黒猫が足元を通り過ぎて行くのを見た。私の探しているあれではないと一瞬だけ目を剥いてがっかりした私であったが、その黒猫の尻尾が二本に分かれていることを認めると、これはやはり酷く出来の悪い幻覚であるような気も湧いてくる。


改めて周囲を見回してみると、いつの間にか見知らぬ街へやってきてしまったようであった。遠くに古びれて斜めに傾いた立札が立っている。そうだ。この場所の名前は―――、


「おや、迷い人ですかな」


私が目を細めようとすると、隣にいつの間に現れたのか、年老いた老人がちょんと立っていた。ほとんど暗闇の中で声をかけられたので、私には詳細な姿が見えない。いきなり声をかけられた。


「迷い人? いえ、違います。私は探し物があってここへ来たのです」


私は頭痛のする頭を押さえながら、なんとか声を絞り出した。今更だが、私の口元がなんと酒臭いことか。


「ほう。探し物ですか」


老人の声は怪しげに闇の中へ溶けていく。


「それで、その探し物とは?」


「探し物は……探し物です」


私は僅かに言いよどんだ。一見、霊魂のようにも見えるあれを、正確にどう表現していいのか見当もつかなかったからだ。


「あなたはどうやら、何か大事なものを無くされてしまったようですな」


「なぜ、そう言い切れるのです?」


確信めいた老人の言葉に、私は訝しげに問い返した。


「ここは、そういう者が来る場所なのですよ」


老人がそう答えた瞬間、暗闇だった周囲に街灯がともりだし、街の景色が鮮明に目前へ映し出された。私は、思わず顔を強張らせる。そこには異様な光景が広がっていたのだ。


「ようこそ、浮遊街へ」


はっきりと見えるようになった老人の顔は、しわくちゃの頬を吊り上げてにんまりと笑っていた。


老人のつらを見て不気味さを覚えないでもなかったが、なるほど。確かに、遠くの立札にはうっすら「浮遊街」とかすれた文字でそう表記されている。


現に、たった今私が顔を強張らせているのは――この街自体が、紛れもなく宙に浮いていたからであった。

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