54話 案件:A子 5
新島裁判長さんがおっしゃった意味は、概ね私たちにも分かっていました。
「評議するにあたって、これまでに得られた経験値や経験則に加え、それぞれの得意分野や専門分野の知識を、判断材料として提供してくださり、それを全員で共有する、これはね、私たちのような職業裁判官に足りないとされる部分なんですよ」
「足りないなんて、そんなことないですよ、ねえ?」
「そうですよ。裁判官さんは、その名の通り、裁判のプロじゃないですか」
「もちろん、プロとして誇りをもって仕事をしていますが、判例に従って犯罪を精査するがゆえに、時には血の通っていない判決なんて揶揄されることもあるんですよ」
「そんな…」「酷いですね」
「いや、本当にそうなんですよ」
そう追随する熊野さん。
「例えば、被害の状況を過去に類似した判例に照らし合わせて、大体このくらいの刑期といった算出をしたとして、現実的に被害者が受けた痛みには、個人差もあれば、状況によっても変わりますし、そうした部分まで数値化されているわけではないので、取りこぼしや、加味しきれない部分が多々あるんだろうな、と」
さらに、稲美さんも付け加えます。
「車のドライバーにしても、提出された証拠しか判断材料がありませんので、補充1番さんのアドバイスがなかったら、私たち裁判官だけで本人と認定するのは難しかったと思います」
もちろん、それは裁判官お三方に限らず、補充裁判員1番(車ディーラー)さん以外の全員にも言えることです。
もし、運転していたのが納刀被告だと断定出来なかった場合、推定無罪の原則に則って、コンビニ駐車場での一連の行為は証拠に含まれないことになり、必然的にその分の量刑が軽くなります。
この一点だけなら、それほど大きな影響はないかも知れませんが、そうした取りこぼしが多ければ、それだけ全体の評価に違いが出ることは否めず、また納刀被告のようなタイプは、それを分かってやっている可能性もあり得るのです。
「いや~自分、昔から『車オタ』って言われてて、周囲に引かれることも多かったんっすよね。だから、こんなんで褒められると、かえって恐縮するっていうか…」
すると、恐縮する補充裁判員1番(車ディーラー)さんに被せるように、ちょっと興奮した口調で話しだした新島裁判長さん。
「車好きといえば、かつて、小学一年生のお子さんが誘拐される事件がありましてね~!」
当時、身代金目的で誘拐されたのは、下校中の小学一年生の女子児童。授業のカリキュラム上、一年生は他学年より下校時刻が早いため、目撃者が少ない時間帯を狙った犯行でした。
現場にいたのは、同学年の児童たちだけで、付き添いの保護者等はおらず、犯人の特徴や当時の状況を尋ねても、ショックと年齢的な語彙力の不足から上手く伝えられず、捜査は難航すると思われました。
そんな中で、一人の男子児童が、『犯行に使われた車のハンドルが、別のメーカーの物に取り換えられていた』と証言。メーカー名は言うに及ばず、その型番や色、さらに加えられた加工部分に至るまで、それはそれは詳細に解説したのです。
子供の言うことなので、あまり期待はしていなかったものの、他に手掛かりもなかったため、一応その線で捜査を開始したところ、
「これが大当たりでしてね! 日本では珍しいメーカーだったこともあって、すぐに特定されて、吃驚する位の早期解決に繋がったんですよ!」
「凄っ!」「普通、ハンドルなんて見ないですよね」
「見ても、多分私には分からないと思います」「私も!」
「その子はどうしてそんなに詳しかったんですか?」
「そもそもその子の父親が車好きで、古い車をレストアする会社を経営していたそうです。そうした環境で育ったことも影響したんでしょうね」
「まさに『好きこそものの上手なれ』ですな」
「その少年も、補充1番くんもよ、ねぇ!」
裁判員2番(女将)さんの言葉に、再び照れる補充1番さん。
これまで彼にとってどちらかといえばネガティブな意味合いの『車オタ』の称号でしたが、自分や少年の車への愛がこんなふうに貢献出来たことが、喜びと自信に繋がったようです。
さらに、新島裁判長さんが続けます。
「正直、いくつかの事実は認定が難しいかも知れないと、半ばあきらめていた部分もあったんですが、Aさんの案件に関して、『分からない』という判断を回避出来たことは、皆さんのお力を結集した賜物だと、私は思います」
「それは勿論、新島裁判長さん、熊野さん、稲美さんも含めて、ということですよね」
裁判員4番(銀行員)さんの言葉に、全員から拍手が上がりました。
こうして皆で力を合わせて出す判決が、新しい判例となって次の審理につながって行くのだと思うと、改めて自分たちが背負った責任の重さを感じます。
「それでは、Aさんの案件に関して纏めたいと思います」
「はい」
「まず、学校から帰宅し自宅前に到着したAさんに対し、納刀被告が背後から声を掛け、振り返ったAさんを無理やり家の中に押し込め、『騒いだら殺す』などと脅して暴行したと推測され、被告人が主張する『Aさんから援助交際を持ち掛けられた』という内容は、Aさん本人の自宅前という場所柄から考えても、極めて整合性に欠けると考えられる。…と、ここまでで、反対意見はありますか?」
「異議なし」
「その後、ふたりはAさん宅から被告人の自宅へ移動、途中で立ち寄ったコンビニで買い物をした際には、Aさんに対し『逃げたら殺す』という言葉で脅して従わせ、被告人宅で監禁し暴行を続けた。その際、手足を拘束した結束バンドにより、Aさんの手首や足首には深い創傷が出来、手足の自由を奪われたまま暴行を繰り返されたことで、さらに全身に多くの創傷が出来たと考えられる。…と、ここまでは如何でしょう?」
「異議なし」
「次に、被告人による『Aさんが家にいたくないと言って被告人についてきた』という主張について、通常女子高校生が家出したい、もしくは家にいたくないと思う状況を、あらゆる可能性を考慮したうえで、Aさんには該当するような事情は考えにくく、またコンビニではAさん自ら、被告人に気付かれないようヘルプサインを出して助けを求める様子が映像から読み取れることからも、納刀被告による『連れ去り』であったと考えられる。…で、どうでしょうか?」
「異議なし」
「性行為の合意の有無について、はっきりとした抵抗は認められないが、監禁されている間中、手足を拘束され、衣類を脱がされ全裸にされていたこと、また、度重なる暴行と長時間の監禁、『〇〇したら殺す』などの言葉による威圧、さらに身体に受けた傷の痛みや恐怖から、最悪命の危険を感じ、それによって暗黙の裡に出来上がった主従関係に支配されていたと考えられ、服従する以外の選択肢がなかったと思われる。…と、ここまでは大丈夫でしょうか?」
「異議なし」
「また、コンビニの駐車場でAさんを放置した件に関して、被害者が同じ声だったと記憶していること、また、特徴的なアクセルの踏み込み方などから、運転していたのは被告人本人と考えて間違いないと思われ、その際の状況は、保護した店員や客、現場に急行した警察官も『猟奇性を感じた』と証言したほど、怪我をしているAさんに手当てもせず、まるでゴミのように放置したことは、人としてあまりにも酷い行為である。…と、どうでしょう?」
「異議なし」
「以上のことから、Aさんは納刀被告により、恐怖による支配からの心神耗弱状態であったため抵抗することが出来ず、物理的にも、精神的にも、状況的にも、逃げ出すことは困難だったと推察され、その際に負った心の傷から、現在も学校に通えない状態が続くなど、日常生活に多大な支障を来している。…以上でよろしいですか?」
「異議なし」
「それでは、Aさんの案件に関して、有罪か無罪かの評決を採りたいと思います」
その言葉に、付箋を配る熊野さんと稲美さん。
裁判員制度では、補充裁判員は評決には加わることは出来ない決まりになっていますので、正式にはこの2票は加算されませんが、新島裁判長さんの意向で、必ずお二人にも参加していただくことになっています。
全員が記入し終えたところで、それらをお二人が回収し、色別にホワイトボードに貼り出しました。結果は、ピンク(裁判官)有罪3票、黄色(裁判員)有罪6票、ブルー(補充裁判員)有罪2票。
「ということで、全員一致で『有罪』ということで、決定とします」
再び室内に拍手が沸きました。
こうしてAさんの案件が決着し、しばしの達成感に浸る私たちですが、登山でいうなら、せいぜい1合目程度の場所。この先、まだまだやることは山積みなのです。
「この後、Bさん、Cさんの案件に取り掛かるわけですが、正直言って、Cさんの案件は他者が介在する分、Aさんに比べてかなり複雑になります」
「Eさんですよね」「それと二股男」
「さらにそれよりも、比較にならないほど困難なのが、Bさんの案件です」
「とおっしゃいますと?」
「こちらに関しては、物証といえるものがあまりに少なすぎるんですよね」
裁判長さんいわく、Cさんの場合、状況はごちゃごちゃしてはいますが、それだけ判断材料も多いのに比べ、Bさんの場合、拉致されてから保護されるまで、ほぼほぼお互いの証言のみ。
防犯カメラが回る中、車から放り出され放置されたAさんに対し、防犯カメラも目撃者もいない場所で、自力で脱出したBさん。一見状況が似ているようにも見えるこの違いは、後々私たちを大きく悩ませることになるのです。
Justice ~裁判員裁判~ 二木瀬瑠 @nikisell22
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