序曲と終わりの子守歌

朝斗

Ninnananna Fine e Sinfonia

「お帰りなさいませ。本日もお疲れ様でございました」


 馬車を下りれば使用人の出迎えがある。

 丁寧に会釈をする様子へ頷き、家主は石畳から扉までを歩いた。刻限通りの帰着、仕事の進み具合も恙なく予定通りだった。路地風に乗って何処からか歌声が聞こえてくる。まだ若さを残したそれは、もしかすれば幼い妹弟へ贈っているのかもしれなかった。

 役職が変わっても役割が変わるわけではない。日々実直に誠実に、聖なるものであるところの音楽を紡ぎ奏でる。流石に些か勝手は異なるが、歩んできた道程を振り返ってみれば苦痛でもない。寧ろその逆、とても光栄であり幸福、それが彼の人生に対する揺るぎない自己評価だった。

 日が落ちたとはいえ一年のうち気温の高い季節だ。幾分か首元を寛げながら、杖と帽子を渡し尋ねる。


「誰か客人はあったかな」

「昼過ぎにモーツァルト様がいらっしゃいました」


 咄嗟に踵が止まりそうになるのを既の所で耐える。どうせ用立ての算段だろう。不用意に耳にしてしまったその名前に溜息を隠しきれずに、咳払いで打ち消すことになる。

「質問が悪かった。彼を含めずに、誰か客人はあったかな」



 就寝前の子供たちにそれぞれバーチョを贈り、机上を整え終えた後に水で喉を潤した。

 背凭れに身体を預けて深く腰を沈め、漸く息を吐く。

 これで一日の責務は全て終えた。疲労は蓄積しているが調子良く睡魔がやってくるのでもない。つまり、やっと机の上に控えめに置かれたそれに目をやることになる。

 昼に連絡もなしに訪れたという彼が置いて行った紙の束。

 乱雑に折り畳まれ封さえされていない。インクが滲むことも考慮していないのだ、いよいよ彼らしく思えて俄かに口角が上がるのを制した。

 紐解く前から分かっていた、手書きの譜面である。勿論、当の彼の自筆によるもの。しかも驚くべきことに未だ何処に発表されたものでもない、完全な新作。例えそれが、いつぞやから始まった文通紛いの一端だとしても。


 よくもまあ、金にもならないのを承知で延々続けるものだ。それに応える自分も自分だが、と男は力なく肩を竦める。

 先は譜面を追うだけのつもりだった。しかし目を通すうちに案の定、脳内に旋律が反響して、その不明瞭さについぞ席を立ってしまう。結局、宵も更けていると言うのに鍵盤を叩く始末。

 作曲と職務に追われる中では図らずとも格好の息抜きだった。

 指先を譜面台へ伸ばす、慎重に繰りながら音色を追う。途切れさせるのも口惜しく、時折奥歯を噛み締め、せめてもの意趣返しの心算で呟く。

「五線譜の上でも落ち着きのない男だ」

 最後の一音が今、淀んだ中空へと静かに馴染んで消えて行く。

 音の尾を捉えたまま、苦く溜息を吐いた。

 少し考えてから譜面を二枚戻り、幾つかの小節を繰り返す。それで余計に染み渡っていく。

 口元は知らず綻んでいるが、それを指摘するものは彼を含めてこの空間には存在しない。


 相変わらずだ、と一人溜息を零す。

 恐らくウィーンで、否、大陸上で特に秀でた感性の持ち主の一人だった。彼の演奏を初めて耳にした瞬間は、あの感情は今でも薄れることはない。

 しかし憂うべくは、本当に才能だけが突出し、社交性も処世術も倹約心さえ持ち合わせない性分。宮廷作曲家に就けば改善されるかと思いきや現状その兆しは見られない。その上更に芳しくないのは。

「時代が才能に追い付いていない」

 悩ましいのは、それでも彼の音楽から目を離せない男自身にあった。


 ならば、と。

 蓋を閉めて、その上に譜面を広げた。

 喉の奥、脳の内側に行き場なく蟠ったものを具現化する手段として。

 書いては消す、時折声に出して場面を膨らませる。ぽろぽろと鍵盤を鳴らす、じりじりと埋まる楽譜を睨んで、微笑む。さながら病のようだった。白日の夢に似て、神経質に頭を掻きながらペンを奔らせるのだ。

 オペラやミサ曲では使えない、真っ新な場所から湧き上がる音、旋律。感情。創始。

 こうしている間だけは、ただの音楽家で居られる気がした。


 顔を上げる。燭台の火の短さに時間の経過を知る。

「産みの苦しみ、か」

 漸く楽曲として形になったものを、インクが渇くのを満ち足りた心地で見遣って。

「どうせ君には分からない過程なのだろう」

 深く息を吐いた。紐を掛けて装丁を整える。

 ベルを鳴らせば程なく使用人がやってくる。

「これを、アマデウスの邸宅へ届けてくれるか」




 ビリヤード台に譜面をまき散らして、片膝を立てたまま椅子に腰掛けていた。

 傍らに空のグラスが転がっている。無秩序に横切っていくボールを気紛れに手の甲で抑える。

 今はそのどれもよりも彼の心を惹くものが手の内にある。

 音符を目で追いつつ、くすくすと笑みを零した。あまりに静かな様子に怪訝がって途中でコンスタンツェが顔を出したが、手を振って追い払った。

「相変わらず真面目なひとだ。これを愛じゃないと言うには無理がある」

 何枚かを掴んでチェンバロに向かう。もう読む必要もないのだけれど、どうしても手元に置いておきたかった。


 奏でる姿は天使のようで、紡がれる音は悪魔のようだった。

 謳う、舞う、囁く、笑う、見詰める。

 観客の有無は取るに足らず、世界そのものを魅了する。


 自分の作品でもないのに、感情のひとつも取り零すことなく奏で切ってしまう。

 何より、不特定の誰かでなく顔の見える誰かに宛てたものがこんなにも心地良い。

 その証拠に彼の譜面も、皇帝や大衆が求める音色をはみ出して、すっかり羽根を生やして自由に踊っている。

 それは確かに自身へ宛てた――言うなれば小言だった。

 言語化すれば精々、生活費くらい貯めておけだの重鎮の前でくらい大人しくしろだの、わざわざ音色に乗せなくても聴き慣れたものがしっかり滲んでいる。

 まあ抜かりない彼のことだ、近い将来これを基にしたオペラを書くのだろう。そう邪推してまた一人で笑った。


 空瓶に混じって立っていたペンを手繰り寄せる。インク瓶に深く沈めてから、反対の手で空いている五線譜を探した。

 自分でも驚くほどに滑らかに、幾何の時間も必要とせず楽曲が完成していた。

 いや、曲は既に頭の中に組みあがっている。書き起こす手順が億劫なのだ。

 その工程で、そうか、次からは押しかけて直接聴かせてしまえばいい、そのほうがずっと早いと思いついてしまう。

 そうと決まれば、もう羽根ペンさえ必要はなくなって。

 朝焼けの中で使用人の取次より先にドアを叩く自分を見て、苦虫を噛む彼の顔を思い浮かべればいよいよ愉快だった。

 充足した微睡みの中、ワインを煽り直すより先に、向こうはもう眠りに就いただろうかと勝手にその身体を労って。


「さて、サリエリ殿。貴方はどれだけの憎しみ愛情を返してくれるだろうね?」

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序曲と終わりの子守歌 朝斗 @Asatoiro

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