第5話 2018.10.25の夢

 逃げなければ。とにかくも逃げなければ。


 全速力で走り抜け、大勢の人がひしめき合う広間に出た。至る所に橙色に怪しく光る灯りがともされ、仮装した人々が練り歩いている。今日は、年に一度のお祭りだ。いわゆるハロウィンというやつだ。


 本来ならば僕だってこの賑やかな空気を楽しみたいのだが、そうもいかない。仮装した人々の群れを掻き分けて、ひたすらに走る。


 もう何度こうして彼女から逃げているだろう。数えきれないほどこの逃走劇を繰り返している気がする。彼女はいつも背後に潜み、一瞬の隙を見せればあっという間にこの命を奪っていくのだ。そうして目覚めれば、僕はまたハロウィンの夕暮れにいる。夜が終わらないのだ。これほどまでに夜明けを待ち望んだことなど、今まで一度も無かった。


 怖い怖い怖い。早く、誰か助けて。


 人混みの中、僕は一つに結んだ髪を揺らして彼女から逃げ惑う。何人もの人にぶつかったが気にしていられなかった。


 お菓子に群がる長蛇の列を前にして、走る足を休め、限界を迎えた肺を少しだけ落ち着かせる。こうしている間にも彼女との距離は縮んでいるはずだ。今回もこうして殺されてしまうのか。恐る恐る背後を振り返る。


 だが、そこに広がるのはお祭りのような空気を楽しむ若者たちばかりで、彼女の姿はなかった。こんなこと、初めてだ。一瞬呆気にとられたように辺りを眺めていたが、すぐさまその場から離れる。


 これはチャンスだ。これを逃したらもう二度と逃げられないかもしれない。この終わらないハロウィンの夜を、終わらせられるかもしれないのだ。夜明けを、この怪しい灯りを掻き消す美しい朝日を拝めるかもしれない。僕は全力で足を動かした。口の中一杯に血の味が広がるが、気にしていられない。


 ふと、黒いローブを纏う仮装した男の子の姿が目に入った。あのローブがあれば、彼女の目をいくらか誤魔化せるだろうか。僕は迷うことなく男の子に詰め寄ると、その胸倉を掴んで頼んだ。


「お願いだ、その外套を貸してほしいんだ。頼むよ……」


 少年は突然のことに目をぱちくりさせていたが、返答を待っている余裕はない。彼の肩から外套をはぎ取ると、すぐに自分の肩に羽織った。そうして自分の一つに結った長い黒髪をナイフで切り取り、少年に渡す。


「この髪を人形師のもとへ持って行け。それなりの値で売れるだろう」


 強引に取引を済ませ、僕はフードを深く被り再び走り出した。バッサリと髪を切ったせいか頭が軽い。フードが取れぬよう気を付けながら、僕は人気のない旧邸宅街を目指した。


 次第に人影が減っていく。怪しい橙色の光も少なくなった。このまま夜の闇に身を潜めて、夜明けを迎えられたらいいのだが。古びた邸宅の壁に身を寄せ、軽く息を整えながら思った。


 化け物や魔女に仮装した人々が溢れる今日、彼女も人々と似たような服装をしている。黒いワンピースにマントのような外套を羽織り、一見すれば魔女の仮装をした可愛らしい少女だ。だが、僕だけは彼女の正体に気づいてしまった。


 彼女は、本物だ。紛れもない魔女だ。なぜ、皆は気づかないのだろう。あんなにも恐ろしい雰囲気を纏っているのに、どうして微笑みかけられるのだろう。


 壁に寄りかかったままずるずると下がり、そっと膝を抱える。どうしてあの魔女に目をつけられたのだろう。もう、この夜を繰り返すのはうんざりだった。命が欲しいのならばくれてやろう。だから、早くこの街に夜明けを迎えさせてくれ。


「あら? そうなの? 案外、自己犠牲タイプの人間なのね。つまらないの」


 鼻にかかるような甘い少女の声。膝にうずめていた顔を上げれば、目の前には黒い衣装に身を包んだ彼女の姿があった。


「どう……して……」


「私から逃げられると思ったの? 馬鹿ね、そんなこと今まで一度も無かったでしょ?」


 魔女はにやりと笑って、その冷たい手を私の首元に添えた。


「あら、髪切ったのね。勿体ない、綺麗な黒髪だったのに」


「……お前から逃げるために切っただけだ」


「あら、私のため? 嬉しいわ」


 私は首元に添えられた魔女の手を掴んだ。爪を食い込ませるほどの力でその白い手を握りつぶす。


「……この命が欲しければくれてやる。だから、この夜を終わらせてくれないか」


「あら、本気なの? うーん、それもいいけどね、私、まだ満足してないの」


 魔女は不敵に笑い赤い舌を覗かせた。


「そうだなあ。君が命をくれるのなら、今年の夜は終わらせてあげる。でも、来年は……君の妹ちゃんと鬼ごっこしようかな」


「何を言って―――」


「可愛い妹ちゃんだね? まだ本当に幼いし……楽しい鬼ごっこになりそうだわ」


 妹は僕ほど速く走れない。魔女に追いかけられたら、きっとあっという間に捕まってしまう。


「駄目だ……それだけは、やめてくれっ――」


「そうでしょう? だから、まだ君が遊んでね?」


 その瞬間、首元に鋭い痛みが走る。鋭利な氷が突き刺さったような感覚だ。息苦しさを感じたのも束の間に、自分の首から噴き出す赤に茫然とした。


「次はどこまで逃げられるかな? 楽しみだね?」


 氷のような微笑を浮かべた魔女の姿を最後に、視界は薄れていった。また、繰り返すのか。誰か、この夜を早く終わらせてくれ。もう耐えられないんだ。


 石畳に頬をつけ、横に流れる涙を感じながら僕は祈った。


 神様、早く、夜明けをください。この夜を終わらせてください。


 もう何度目か分からない祈りを捧げながら、僕は命の灯が消えていくのを悟ったのだった。

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染井由乃の夢 染井由乃 @Yoshino02

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