第4話 2018.5.23の夢

「汚らしいその手で、触らないでくれる?」


 そう言って、払いのけられた手。解れたローブの袖がゆらりと揺れる。それと同時に、真っ赤に熟れたトマトが地面へ叩きつけられていた。靴の爪先が赤く染まる。


  相手が落としたトマトを拾おうとしただけだった。たったそれだけだったのに。


 とっさに駆けつけた友人が、私の肩を持つ。私の手を払いのけた当人は、もうこちらにはなんの興味も示していないようでさっさと歩き出してしまっていた。


「大丈夫ですか……?」


  心配そうな友人に微笑みかけて、私はテーブルの上に残されていた青い小さなトマトを手にした。それをみて、小さな妖精たちがわらわらと集まって来る。


  妖精の姿が見えるのは、魔法に満ちたこの世界でも特殊なことだ。その能力は基本的には遺伝して授かるもので、突発的に現れたものは突然変異としか言いようがない。現に、友人にはこの妖精たちの姿は見えない。


  私は青いトマトを水と酢の入ったコップに落とし、それを包み込むように両手で支えた。妖精たちの鱗粉のような輝きが私の周りに降り注ぐ。


 コップの中で浮いたトマトはみるみる赤く、大きくなって行った。数秒と待たずに先ほど駄目にしてしまったものと遜色ないほどの赤く熟れたトマトに変わる。私はそれを取り出すと、妖精たちに差し出した。


「ありがとう」


  妖精たちは口々にそう述べ、赤いトマトに齧り付く。トマトは彼らの好物らしい。一方で、友人は怪訝そうな顔でこの光景を見ていた。彼女にはトマトが少しずつ崩れて行っているようにしか見えないだろう。


  私と彼女は、この街の人々よりも高い魔力を持っている。それも当然のことだった。私は隣国である皇国の皇女、彼女は私に使える使用人なのだから。無論、彼女とは主従関係というよりは、友人と言った方が相応しい仲なのだが。


  怒涛の皇位継承の争いに巻き込まれ、継承権第五位の私はあっという間に表向きは死んだことになり、こうして隣国に流れ着いたのだった。命だけでも助かったのは、兄に仕える爺やが私を憐れんでくれたのか、裏でこっそりと逃がしてくれたからだった。


  さて、逃げ出して隣国にたどり着いたはいいものの、私たちは明らかに異邦者だった。綺麗な亜麻色の髪に茶色の目の友人はともかくとして、白銀の髪、赤い目の私の容姿は明らかに浮いていた。それに、見る人が見ればこの姿だけで隣国の皇女だと知られかねない危険もあった。そのため、下町で買った古着のローブで姿を隠して歩く日々だ。


  持ち出せたお金や宝石も微々たるもので、魔力と妖精の助けがなければ私たちはとっくに餓死していただろう。支配者の家に生まれてよかったと思うことはこの魔力を授かったことくらいだろうか。


「やい、流れ者め」


 不意に、私たちとさして年の変わらぬ少年たちに石を投げられる。ローブのおかげで直撃はしなかったが、石の当たった額は鈍く痛んだ。


「姫様!?」


  慌てて友人が私をかばってくれる。もともと彼女は、メイドのような役回りで護衛は専門外のはずなのに、この国に来てからは彼女に守られっぱなしだ。


「平気よ……早く逃げましょう」


 そう言った矢先、一陣の風がフードをさらった。白銀の髪が風に煽られる。

偶然近くに居合わせた人々の視線が私に集まるのを感じた。ひやりと冷や汗が背中を伝う。


「綺麗……」


 そう呟いたのは小さな女の子だった。この国で暮らす者にとっては、やはり珍しいものだろう。


―― お前の髪は、綺麗だな。


 かつて、指で私の髪を梳きながらそう言って笑った兄の顔を思い出す。私は兄が大好きだった。大好きだったのに、兄に、殺されるなんて。


「隣国の皇女じゃないか……?」


「まさか、そんな、処刑されたはずでは……」


 この下町にしては身なりのいい二人組の男性のその一声を機に、あたりは騒然となる。これは非常にまずい。


「姫様、早く逃げましょう」


 そうだ。それが今唯一できることだ。そのはずなのに。


 私は辺りを見回す。妖精たちも不安げに肩を寄せ合っていた。


「なにか、よくないものの気配がするの……」


「よくないもの? なら、なおさら早く……」


 彼女がその言葉を言い終える前に、不意に巨大な化け物が目の前の館を取り壊しながら現れた。それは、一見するとピエロのようにも見え、得体の知れなさが一層恐怖を煽った。


 これは、皇国でも見たことがある。逃亡する罪人を捕らえ、処刑するために兄が飼っている化け物だ。


「そんなに私は、お兄様に嫌われていたのかしら……」


 継承権第五位なんて、放っておいても継承権第二位の兄にとっては痛くもかゆくもないはずだった。それなのに、どうしてこうも執拗に私を殺そうとするのか。皇国から姿を消したのなら深追いする必要もないはずなのに。


 兄の目的は、私から継承権を奪うことではなく、私を亡き者にすることなのかしら。ここまでくるとそうとしか思えなかった。


 私は友人の手を取り、風の速さで建物の影に移動する。無論気休めだが、この先の方針を考えるにはちょうどいいだろう。


「姫様、あれを倒すことは……?」


「不可能じゃないでしょうけど、誰かは死んでしまう。戦うべき相手じゃない」


「では、一体どうすれば……?」


「この国に、もう用はないわよね?」


「は、はい……」


 私は、澄み渡る青空を見つめた。今も、応えてくれるだろうか。


「それじゃあ、地上にはおさらばしましょうか。しっかりつかまって」


「はい……!」


 私は魔法の出力を最大限に上げ、彼女とともに大空へと舞い上がった。その状態で短く歌を歌えば、純白の天馬が現れる。久しぶりの再会だ。私がまだ皇女として優雅な日々を過ごしていたときに、大切にしていたペットだった。囚われる前に、天馬だけでも、と、自由の身にしたがこうして応えてくれるとは。鼻先を優しく撫で、そっと顔を寄せる。


 再会を楽しんだところで、友人を天馬の背中に乗せ、私も続いてまたがった。今日は絶好の空中散歩日和だ。


「さあ、私たちを安らかな場所へ連れて行って」


 そう声をかけると、天馬は高い声で一声鳴き、大空を羽ばたき始める。友人は少し怖がっている様子だったが、二人一緒ならば行き着く国がどこであれ、なんとでもできる気がした。


ある意味で、兄は私に自由を与えてくれたのかも知れない。こんな空中散歩なんて、城では一生味わえなかっただろう。あとは、これ以上兄の手の者が追ってこないことを祈るばかりだ。


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