なつのはじまり
※※※
「古賀明がストーカーだったんなら、古賀は彼女の家を後を尾けるなりして突き止めるだろう。だけど、彼女は古賀の家なんて知っている筈が無いだろう? 彼女が古賀の家を知っている、その事実が既に、事件の図式を反対に捻じ曲げていたのさ」
「大木美沙子が古賀明の家を知っていたなんて、どこにそんな証拠が……」
「だから、手紙がね。全部、大木美沙子の書いたものだったんだ。下書きを何枚も何枚も! レターケースにぎっしり! あて名は全て古賀明だ。相手からの返信は、一枚もなかったんだよ。ゴミ箱に押し込められていたのも、ぜんぶ同じ差出人だったろう」
記憶をさらうと、たしかにその通りだった。
「あて先は次々と変わっていったよ。どうやってかはしらないが、彼女はゆくさきゆくさき彼に追いついて、ひそやかに彼のすぐそばにすみついていたんだ」
「……逆だった?」
「そう。どっちがどっちか、って話しただろう。古賀が大木の部屋にいたんなら、おそらく正位置だったさ」
「部屋がちがったら、古賀が大木のストーカーだったと?」
「そう。だけど、べつに部屋のちがいが重要なのではないよ。一方はエアコンがついていない部屋、一方は比較的すずしいバスルーム、というのが肝要だ」
国分寺は少しわからなくなってきた。
「エアコンが消えていたのは?」
「自分を早く腐らせようとしたんだろ。一日早く死んだ、愛しの彼に追いつくために」
追い越しちまうだろうけど、と先生は加える。
「でもそれって、警察にすぐに知れるんじゃ……」
「そりゃあすぐにバレるさ。あの手紙の束を見れば、いくらなんだって、気付くだろう。ナイフにだって、大木理沙子の指紋がべっとり」
鑑識が調べれば、すぐに判明するだろう。
そう考えれば、洗面器にナイフを沈めていたのは、指紋を消すためだったのか。それとも、愛しい男をさらに小分けにでもして、もちかえるつもりだったのか。たまっていたのは実は熱湯で、不浄を清めていたのか。答えはたぶん、ここにはない。
「私が何でこの結末を選んだのか……わかるだろう?」
「……」
「寅次に、せめて残酷なことを突き付けたくなかった、それだけだよ。大した意味もなく物のように殺された、それよりも、愛するご主人と一緒に眠ってるんだ……そう思っておいたほうが、幸せだろう」
「……嘘をついたんですね」
「伝えない方が良い事だってあるだろう。加害者はもう死んでいるんだ。どちらが狂っていたかだなんて、今となってはどうでもいいことだし、そもそも、私に人間社会のルールを遵守しろ、なんて誰がどの口で言うんだ」
「私という人間の口を借りてるんでしょうが。偽証でとっ捕まったらどうしてくれるんですか」
「たかが馬の骨の与太だよ。偽証? そりゃ責任ある証言に適用されるもんだろう。問題があるとしたら、胡散臭い推理を鵜呑みにする、ミステリかぶれの八王子警察署捜査一課立川警部殿にあるんだろう」
悪びれずに先生はいってのけた。
「あと、きみ、余計な頭を使ったろう」
ぎくりという音がした。
「自分でなにやら考え出して、それがうまい具合に着地したかい? した? してないよな。これが何度目だ。だからきみはいつまでも、はなしの整合が取れてないわけのわからないやつ、なんて呼ばれるんだ」
「だって……悔しいじゃないですか」
「きみのこころの中身になんて誰も興味がないって。むろん、それが私だとしてもね。結論は出したんだから、みちくさ食わないでさっさと帰結すればいいんだ」
国分寺はさすがに憮然とした。
「真実が正しいなんて、限らないのだ。明朗なものが正しくて、暗鬱なものが悪い。人間はそんな風に思いがちだがね、明るいところにも暗いところにも社会があって、そのなかで更に光陰の線が引かれている。警察官にも犯罪者はいる。悪の組織にもヒーローは存在する」
「そんなもんでしょうか」
「そういう考え、きみには理解できないようだ。きみと私の考えは、ぜったいに交わることがなさそう。君の大好きな、コーヒーの深い闇と、私の好きな、まっしろいミルクのようにね」
「……まざれば、カフェオレになるんです。ぼくの器は、あたまでっかちで、あんまり中身が入らないものだから、これからもカフェオレになることはないでしょうけど」
半分だけ、二人はそれをほんとうだと思った。
「とは言っても、一つだけ、きみが正しいと思ったことがある」
先生は背を向ける。
「二人と一匹が死んだ、のくだりだ」
国分寺はじっとそれを聞いていた。
「うまいものは良性、まずいものは悪性とは言ったけど、ははあ、清濁併せ飲むことも、たまには必要なのかもしれない。きみの、最後に言った言葉、生きるよりも幸せなことが、あるのかもしれない。それを聞いてそう思った。まあそれも、きみのわかりやすそうな話題に変えてやるというだけのものであって、私の本心からの迎合とは異なるがね」
「……今度、カフェオレをごちそうしますよ」
サイレンが鳴る。刑事達が引き上げていく。
ぼんやり電信柱の影に立っていた国分寺に気付いた立川警部補が、大股で近づいてきた。
「大木理沙子の部屋で、死体が見つかった。床下収納庫だ」
「……猫はいましたか?」
「お前、何でわかったんだ? くびり殺されたメス猫がな、一匹」
「あと、一匹。小麦色の、鼻筋の通った猫がいるはずなんです。見かけたら、保護してやってください」
警部補はよく分からない顔をしていたが、わかった、と了承する。
「ああそうだ、携帯を教えといてくれ」
「持ってないですよ。住所不定なので」
「……この時代に、不便だろ」
「不便ですよ。でも、良いことも悪いことも、知らされない内は、自分には関係のない話ですから」
「……妙なヤツだなあ」
ははっ、と国分寺はわらった。
「では」
「ああ……あっ、このやろう!」
立川警部補の足元、するりと間をすりぬけた黒い影が、立川警部補を見上げて、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「さっきお前が横切ってくれたおかげで、今日は妙なことばかりだ」
蹴飛ばそうと立川は足を振り回す。
「あっ、ちょっと!」
その前に立ちはだかる、青年一人。
「ぼくの先生に、何てことをするんですか」
国分寺はさっと黒猫を抱き上げて行ってしまった。
「……はああ、先生……?」
刑事たちはその青年が、いよいよおかしくなってしまったのだとへんに納得した。
八王子の夏は、これからだ。
カフェオレのつくりかた 生玉遠間 @relemito
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