ニーナに欠けたもの

千羽稲穂

ni-na

 四つ、彼についてまとめることができる。彼は私の中に大きなものは残さなかったけど、四つ全体で見れば、それはそれは大きなものを残していったのだと思はなくはない。きっと他の人にとってそれらはとっても悲惨な出来事に映る。私にはいつもどおりの日常にひびが入っただけなんだけど。

 でも、うん、やっぱりこれは四つの出来事を伝えてから、これを聞く人に判断してほしい。私はやっぱりなんにも変わらなかったから。私がおかしいのか、それともこの世界がおかしいのか、客観的に見る私にはわからないから。

 だから、話す。

 欠けてしまった私の世界のお話を。



【ニーナ】

 私にはお気に入りのキーホルダーがあった。高校生にもなってバックにキーホルダーをしているとやっぱり変な目で見られるし、そもそもそのキーホルダーは何年ものあいだつけていて、黒ずんでいてみすぼらしかったからよけい奇異な目で見られた。丸い藁色のパステルカラーのお耳は細長くなってしまっていて、黒いもやがかったように見える。

 その名は『ニーナ』。

 藁色の手のひらサイズのビックベア。

 まだほんの小さな頃、赤いランドセルをしょっていた頃、どこか遠くへ転校した友達からもらったものだ。赤色のランドセル時代は、藁色は映えていて、背中をぶんぶん振り回すと大きなベアが右へ左へ踊った。

 今思えば律儀につけすぎていたかもしれない。友達が転校したんなら、普通はそれでもらったものも思い出も薄れていってバイバイするし、子どものころの出会いなんてすぐに忘れてしまう。肝心の友達の顔も名前も、どんな子だったかさえ今は思い出せない。それなのにほんとぉに律義につけていた。それって、なんだかつけているとその子と常に一緒にいる気がしたからかもしれない。もしかしたらいつの日か再会したとき喜んでもらえるように、私に目印をつけていたのかも。きっと、どこかで会える。そう、幼心が高校生にもなって残っていたんだろう。大事だった、のかもしれない。一種の宝物のようなもの、とするには黒ずんだ容姿を見るに、そこまでは言えないとは心の根っこのほうではわかってる。

 実はこのニーナが彼との出会いの始まりだった。

 どうでもいい、大事な宝物。黒ずんでいて、頭の銀色の数珠つなぎになっているひもに引っ張られて、体がやせてしまったニーナ。高校指定のバックにつければとっても滑稽に見えた。つけていて恥ずかしくないの、と問われれば迷わず恥ずかしかったと答える。しかし、はずしもしなかった。目印はつけたまんまにしたほうが、友達を悲しませない。友達に目印をなくしたことを知らせるほうが恥ずかしさよりも恐怖が募って、やっぱりはずせなかった。

 その日、私はいつも通り踏切をわたっていた。カンカンと背後でおりていく踏切に焦って駆け出した。銀色のひもがぶらぶら揺れて、大きなニーナが前へ後ろへ揺れた。ぶんぶん。ぶんぶん。

 ぷっつん。

 ニーナの頭の鎖がはじけ飛んだ。ニーナは踏切の中におっこちて、私は知らず知らずのうちに踏切をわたりきってしまった。振り返って、あ、と気づく。ニーナが線路上に置いてけぼりになっていて、うるうるとした瞳でこちらを見ていた。黒いビーズから零れ落ちそうな涙を、茜色に照らされた黒ずんだ藁色の塊を、私は茫然と見つめていた。もうすでに踏切はおろされていて、すぐにでもそこに電車が通り、小さな体躯はふきとばされる。ニーナの姿は散り散りになって、跡形もなくなる。でも、仕方なかった。私はニーナのために踏切を超えて命を投げ出す覚悟もなければ、そこまで思いいれもなかった。いつかそんな日がくるんだとは感じていた。もしその日が来たら、と夢にまで見てすぐに答えをだせていた。亡くす自信はいつだって万端だった。

 私はせめてもの償いだと思い顔も声も思い出せない友達を浮かべて、ニーナを最後まで見つめ続けた。

 すると、私の背後から駆けてくる音がした。それは、たたたた、たっと助走をつけて踏み切り、下げられたバーを飛び越えた。ニーナとおんなじ藁色のセーターがその人のブレザーの下からのぞいた。羽のように広げられる黒のブレザー。下に着込んだ藁色のセーターはいやにも目についた。いち、に、とステップを踏み、白色下地の黒ずんだ運動靴のひもが揺れる。さん、のステップでニーナの元に辿りついて、右からくる電車の光る目玉を確認した。そしてこっちに帰ってこず、私の真向いの踏切を軽々と飛び越えた。

 右から二両編成のこじんまりとした電車が走ってくる。向こうの踏切は見えなくなる。暗がりにともった車窓からの四角い明かりは、部屋そのものが車輪をつけて走っているように思えた。

 小さなローカル線だ。私の住むここは小さな町だ。その中でも小さな出来事だ。

 すぐに踏切も上がる。ニーナを救ったその人が私のほうに歩いてくる。

「この子、いつも大事にしてたからさ」

 大事にしていたけど、大切なものではなかったんだ、なんていえるはずもなく。

「ニーナを助けてくれてありがと」

 私はニーナを受け取った。

 なんだかほっとしていた。受け取ると、いつも通りの目印が私につけられたみたいで、私が私であれるようで、やっぱりニーナは必要なものなんだと感じてしまっていた。幼いころからの付き合いはアイデンティティであるみたく、ニーナは私の一部だったのかもしれない。イコールではつながれない。せめてものニアリーイコール。形成された自身のイマジナリーフレンド。

「ニーナっていうんだ」と彼はからっからの笑顔で応えた。私はぷいっと彼から顔をそむけて聞こえないぐらいのちぃさな声で呟いてみた。

「別によかったのに」

 イマジナリーフレンドはいつか捨てなきゃいけない。過去に縋り付いている私が心底恥ずかしかった。だって、過去に縋りついているからこそ、彼は危険をおかしニーナを助けたんだ。何度だって言いたかった。彼を侮蔑し、蔑み、卑しい目で見たかった。

 こんなもののために命の危険を投げ出すべきじゃない。私のために、そこまでしなくっていいって。でも彼はしてしまうのだろう。誰かのために、その身を投げ出すのだろう。


 そう、これが、彼、沙綾さやとの出会いであり、彼がどんな人か悟った出来事でもある。

 くたびれたカッターシャツに、ニーナとおんなじ色のセーターを着こみ、黒ずんだ運動靴に身につける沙綾。男の子の中ではうんと、下層の男の子。でも女の子は、好きかもしれない。だって、彼はいつだってそういうことをするから。私じゃなくっても、命を顧みずに、しょうもないことに命を張って見栄をはるから。

 ぬいぐるみを『この子』だなんて言ってバッカみたい。

 じゃあ、とその後沙綾に思いっきり冷たくしてそそくさと帰った。ニーナの頭から伸びていた銀色の鎖はどこにもなかった。頭の一部分は欠けていて真っ白い綿がそこから伸びていた。伸びた綿を指でつまんで抜き出してみた。どこまでもわたあめみたくふわふわしていて、真っ白で、黒ずんだ見た目からは想像できないものがでてきた。

 まるでニーナみたい。

 何をたとえたかは知らないけど、心の中で嫌味をつげていた。



【暴走列車】

 授業中、ある論題が出題された。

『暴走列車』という論題。よくある倫理的思考問題だ。

 ここに暴走列車がある。ブレーキを踏めない。止まらない。目の前には二つの道。片方の道には十人がいる。もう片方は一人。ハンドルは片方にしかきれない。彼らをどかすにはもう時間がない。ではどうしますか。

 ここでの思考は大半が十のほうではなく一の方に傾くだろう。

 私も、そう。

 ニーナという物言わぬぬいぐるみよりも、人間の彼が電車にひかれるほうが断然怖い。いつだってなんだって、小さな幸福よりも最大の幸福の方が良いと思ってる。遠くの方の人よりも私の周りが幸せな方がいい。世界の原理だ。仕方ない。

 多くの人が十の方に手をあげた。クラスの雰囲気がそんな雰囲気にのまれていた。少数派は許さない。

 でも、彼は手をあげなかった。どちらにもあげられなかった。ずっと悩んでた。どっちにあげてもよかったのに、どっちにもなれなかった。その時、彼の名前が沙綾だって知った。沙綾を称賛する担任がいたから。

 この問題をあげていじめはどうだなんだ、と言い、手をあげなかった人や少数派の意見を聞き、そういう意見もあるんだと理解させた。そして、理解を示さなければ、いじめられた被害者の気持ちを考えることができないんだと諭した。沙綾、沙綾、と周囲の人が担任同様に理解を示し彼の名前を呼んだ。

 私はずっと前からそういう彼の性格を知っていたけど、うん、でも、理解はできても共感はしなかった。

 思えば私の頭の中にはニーナのような綿は詰め込まれていなかったのかもしれない。いつだって綿のようにほわほわした日常を冷めた目で見ていた。ぶっちん、と頭を切って中身を覗けば案外何も詰まってなくって、この社会という所有者には好かれない性格なんだと、ちょっと思ったりもした。

 でもね、しばらくニーナは捨てられなかった。もう綿もぬいちゃって頭がしおれてくたびれていたのに、ふにゃふにゃになったニーナを部屋に飾り続けた。それを見るたびに、沙綾という彼の性格がわかるような気がした。私にはない何かを持っているような、そんな何かを求めたのかは、知らない。



【花火】

 学年があがり、じゃあ今年は一緒に浴衣着て花火見よぅ、と友達から提案されたから、その日は浴衣を着て、めかしこんで歩いていた。でもって、人が多くて、私は知らず知らずのうちに迷子になっていた。鼻緒が指と指の間に食い込んで靴擦れをおこしていたし、ひりひりと痛む靴擦れに歩く気も起きない。で、周りを見れば知らない道の途中で、人込みからは外れていた。折り畳み式の携帯電話をみても、人が集まりすぎているせいかまったく受信しないし、送信できない。私の居場所なんて教えることもできないし、友達と連絡なんてできなかった。たぶん人込みのピーク時だった。あー、めんどうだなあって、足を気にしつつ、とにかくピークから時間が経つのを待つことにした。ちょうどそこは橋の上で手すりがあって、腰を下ろすには最高の場所だった。フェンスもあって転落はしなさそうだったし、草履から足を離して、腰をおろした。ぷぅん、と蚊が私の周囲をまわった。体がのけぞった。あわてて、はだしで地面に足をつけてしまう。どっかいけーって、手を盆踊りみたいに振ってしまう。

 虫はとってもとっても嫌いだった。細い足に太い胴体は歪だったし、私の肌を刺す針を持っている、あの刃物も意味が分からない。ハエもカもセミも、恐ろしい。小さな虫はなんで殺されるのにもかかわらず人間の周りをぷんぷん回るのか。でもって、私はそんな命を奪うことはしない。殺すのもまた無駄な気がした。ニーナの命も意図的に捨てられないように、虫の命も奪うことはできない、たぶん私は臆病者なのかもしれない。そういう人なんだ。

 だからこそ、そこにいる沙綾が見えたんだけど。虫を追い払うも、結局攻防に負けて、腕に白くまるい腫れ出来上がったとき、橋から見える、住宅街の道を歩いている沙綾に気がついた。

 沙綾の歩く先に小さなアパートがあって、そこで彼はちょうど足を止めた。派手な橋の上の世界とは反してとっても物静かな場所に、沙綾が白いビニール袋を手にさげて立っていた。ぽとんと、落ちそうなほどの水滴が袋にはりついている。持っている中身は缶だ。白いビニールから透けて見えるのはお酒の銘柄に見えた。暗闇に浮かぶ彼の白いカッターシャツは、学校で見かける彼とおんなじ姿。でも、その日は高校は休みだった。袋を持って、淡く光を放つ彼の姿がなんだかおかしくって、違和感があって、目を離せなかった。

 沙綾はアパートの、ある一室の扉の前で逡巡していた。扉のノブに手をつけては離して、その場で立ち止まりぼんやりと佇む。

 そこで私の背後から、大きな音がした。スタートをきる徒競走のピストルがうたれたように、夜空に大輪の花が咲く。世界のすべての人が花火に集中する。だけど、私はそっちじゃなくって、世界がひた隠しするような暗闇を見つめ続けた。沙綾が扉を開ける前に扉の中から勢いよく開かれる瞬間を私は双眼に焼きつける。沙綾は中から現れた男に胸倉をつかまれた。手に持っていた袋が細い手から滑り落ちる。足元に落ち、袋の中からごろごろと鼠色の缶が転がった。缶に背後の花火の彩色が反射する。それはピンクだったり、青だったり。沙綾の顔には赤い斑点。ぱん、となるたびに増えていく。沙綾は全く抵抗をしない。そのまんまを受け入れている。ぼんやりと虚空を見つめて終わるのを待っている。

 たまやー

 観衆の楽し気な声と、拍手が入り混じる。

 かじやー

 ぱん、となぐられる彼の瞳がこっちをむいた気がした。その唇は切れて鮮血が流れている。

 私の見間違いかもしれない。ただの妄想かもしれない。そう、あってほしい。

 空虚に開かれた黒い口から、言葉が見えたんだ。

 彩色豊かな点がまばらに散っていく。炭酸がはじけるような音が周囲に残響する。

 黒い瞳に生気を宿らせて、沙綾は男の手をつかんだ。ほそっこい腕だからすぐに払われたけど、その後も何度もつかんで、離して、そのたんびに倍の力で殴られて、蹴られて、腹を抱えて、呻く。水中から空気を吸っているかのように口がぱくぱく動く。唇の赤がてらてらと生々しい。一方的にやられているのに、目には獣のそれと同じ生気を感じる。男の動きが止まる。肩で息をしていた。息を整えて、一瞬私の背後の花火を見つめてほほ笑んだ。

 大きな花火が上がり、そこで私は意識が背後に逸れた。

 だから、この一瞬に起こった出来事は知らない。

 そろりと顔をまた元の位置に戻したら、もうそこには私の知っている沙綾はいなかった。

 男を押し倒して、馬乗りになって、さっきの男みたいに殴ってた。何度も何度も。手が赤かった。それも全部艶やかな花火に覆いつぶされる。

 ぱん、ぱん、ぱん。

 はじけて、割れて、また花火が上がる。

 花火も大詰めになったのか、周囲の歓声が止まらない。終わるたびに何度も、拍手喝さいが起きる。最後の花火がはじけて、その残像すら消え去った時、沙綾は手を止めた。うつむいて、ぼんやりとその惨状を見つめた。空虚に空いた黒い双眼は濁りきり、ぽっかりとあいた黒い口の穴はその場にあった感情すべて飲み込んでた。

 私は浴衣の袖の中に隠し持っていたカッターナイフを知らない間に握りしめていて、背筋から冷や汗が伝っているのに気づいた。

 なんでだろう、でもね、彼のことを見ても、体が反応していてもごくりと唾をのんでも、こういう言葉しか浮かばなかった。沙綾が頭を抱えてうずくまって何かを言っていても、丸まったカッターシャツの背中を見ても、不思議と何も変わらない。

「別にいいのに」

 ニーナを助けなくってもいい。暴力に訴えてもいい。別にいいのに。

 沙綾は、そこでじっとうずくまっていた。顔がこっちに向いてないから、どんな顔してるかわからないけれど泣いていたのかもしれない。だって、彼は暴走列車で何も答えられないぐらい、かよわい男の子だったから。そのままおっこちている缶を拾って高らかに笑いながら飲み干して、殴った男を蹴り、たばこを吸って見せつけるぐらい、別にいいのに、できない。

 きっと彼はそれをするのが正解。やらないのが不正解。

 沙綾はあまりにも難儀なやつだった。

 私が沙綾のところに行けたらよかったんだけど、あいにく花火が終わったと同時に友達と連絡がついて合流してしまった。

 あの後、沙綾が男をどうしたとかは知らない。そのままに放置してしまったのかもしれない。いや放置してしまったらこの後のことは説明はつかないから、きっと隠したんだろう。あのひよわな体躯で精いっぱい生きるために、見合わない大きな志を捨てて行動したのかもしれない。

 そうしてしまったきっかけなんて、私にはわからない。

 あの時、沙綾がこっちを見たかもなんて、私の妄想もはなはだしいし、それにあの時言った言葉が本当に言った言葉だなんて今となっては証明する手段もないし、確証はない。それを知ったところで、ううん、それはもう最初に言ってたっけ。



【ぶらさがった銀のつぶて】

 沙綾という人に出会って、ちょうど一年経ったころ。三百六十五日が一周回って帰ってきた、凍てつく空気の日。沙綾は花火の日以降あんまり学校に来なくなった。来てもうつろな目をして宙を見ておびえてた。そこに誰かいるかのようにしゃべりだして、突然怒ったり、唐突に頭を抱えてしゃがんだ。シャーペンを落として、クラスメイトに拾われたときは必至の形相で奪い取り、どこかへ駆け出したこともあった。

 素行不良になっていく彼に誰も寄り付かなくなった。女の子も、触らぬ神にたたりなしって感じで誰も男の子の武勇伝を語らなくなった。どんどん関係が変容していった。

 家にいるニーナなんか、綿がぬかれて布一枚のしぼんだ頭をしていて、元の姿形なんかなくなっていて、もう捨てようか、捨てまいか、としているうちの、ある朝に捨てられてしまった。母親が部屋に入り掃除をしてくれたらしく、壊れたニーナを見てそのままごみ箱にいれたらしい。安心もしなければ、すっきりもしなかったけど、案外踏ん切りはついていた。あの時助けられたニーナは別にどうでもよかったんだ。別に助けなくっても、命が一日延びただけで、それは残酷なことで、だったら最初から別によかった。助けなくってもよかった。覚悟ができていたから、よかった。それなのに、ニーナを捨てられた次の日はなぜかぱっちりと目が覚めた。

 その日はかなり濃く残っている。いつもより早めに起きて、部屋を整理して、服を整えて、ご飯を食べて、家を出た。外の空気は肌をさしてきたけど、朝っぱらのすがすがしい香りがした。まぶしい朝日は茜色。この世の終わりみたいな真っ赤な斜陽が建物を区切ってた。

 事細かに覚えてる。どれほどどでかい出来事が控えていようと前後も、その途中も私の頭の中に置かれている。頭の部屋の中央に陣取り、中身を何度も取り出している。これはきっと大事な思い出なのかもしれない。だから、【ニーナ】と、【暴走列車】と【花火】と【ぶらさがった銀のつぶて】と四つに区切って整理してあるんだ。

 学校につくと点々と鮮血がこぼれていて、道を示すように続いていた。ヘンゼルとグレーテルのあの童話みたく、こっちだよ、と示す道しるべだったんだろう。小さなまぁるい赤い点。私はすることもなかったから辿っていった。小さな点と大きな点があって、しばらく立ち止まったところとか、例えば私の教室の前の点がとっても大きかったこととか、そこで何を考えていたんだろうとか、多分みんなそんなしょうもないことを考えるんだろうけど、私は別にどうでもよかった。

 このお話は何度もして、今更なお話だ。どこに点があったのか、今では客観的に話してしまう。いつだって証言してきた。でも誰も彼のことを見なかった。主観的に接してくれなかった。客観的に心を感じて、それでなんだというんだろう。

 私は覚えてることだけ言える。その点が二階の男子トイレに続いていたことを。そこに入ったら、あのくたびれたカッターシャツの、ニーナの色をしたカーディガンを着込んだ、一年前よりもやせ細った沙綾がいて、垂れ下がったまぁるいわっかがついた縄に手をかけていた。

 私は何かを言おうとした、たぶん。

 沙綾は私ににっこりと笑ってきたから、頭が真っ白になった。いつか見た男の笑顔にそっくりだった。ひどく満足した気持ちの良くないすがすがしい澄みきった笑顔。

 私があの花火の日、彼が変貌した瞬間に何かを見ていたら少しは変わっていたのかもしれない。なぁんて、言っちゃうけど、でも、私が今でもこんなんだから結局のところはどっちにしても変わらなかったんだろう。

 首を縄でつり、沙綾は浮いた。

 ちらりとブレザーの下からニーナが見えた。

 なんだかいたたまれなくなった。

 沙綾の手首は赤でぐっしょりと濡れていたし、男子トイレは血の海だった。思い出の中の映像だからやけに赤が目立つのかもしれない。その時の本当の色彩感覚はどっちかといえばふんわりとした鉄の香りのピンクだった。そのピンクがニーナから抜けた真っ白い綿みたいだった。綿がふわふわと零れ落ちて、頭がしおしおにしおれて、くたびれて、ニーナは捨てられた。

 知らないうちに、私もニーナを助けに踏切を飛び越えていた。手にはいつもカバンに隠し持っていたカッターナイフが握られている。沙綾が吊り下げられた縄を思いっきり切った。途端に縄はちぎれて沙綾は床に落ちた。しりもちをついた沙綾が咳をついた。息苦そうに空気を吸って、私を見上げて変な笑い声をあげた。生気のなくなった首の縄を見て、また笑った。ひひひ、ひひひ、と、ひきつった笑い声をあげて、視線を上下左右にあわただしく動かす。黒い瞳は焦点が合わない。口をあげて、耳をつんざくような笑声をあげた。耳を覆う。

 と、途端に表情が死んだ。じーっと真顔になり正面を見つめてぽっかりと口をあけた。白いかわいらしい歯がのぞく。その奥の闇を見るが、私には理解できない。口がぱくぱく動く。真顔で何か小さい言葉の数々をつぶやく。

 耳を傾けた。

「ニーナ」

 頬がこけた顔で、彼は続ける。

「暴走列車」

 続ける。

「花火」

 一貫性がない言葉ばっかりだった。

「俺がやった」

「やってない」その時になってやっと私はまともに言葉を紡いだ。

「壊れた時計、生活、色彩、パステルのカーディガン、上、浴衣」

「何言ってるのかわかんないよ」もう、涙声だった。

「軍手、記憶、鳩頭」

「教えて、花火の日にさ、何言ったの?」

 それでも脈絡のない言葉がずらずらと続いた。私の知らない沙綾が生まれて、死んだ。冷たいピンクの綿に囲まれて、沙綾は縄を名残惜しそうにみていた。

 ここからは、本当に誰も言わなかったこと。

 私は手に持っているカッターを沙綾にむけた。助けたことをなかったことにしようとした。やっぱり、ニーナを助けたのは「別にいい」ことで、どうでもいいことなんだって思ったから。申し訳なくなって、もう一度彼がしようとしていたことをやろうとした。それが「別にいい」ことをした償いだと、そう思った。

「桜、変な、ああ、やる、ごめんなさい、カッター、電源がついていない携帯……」

 でも、すんでのところで止めた。

ゆう

 ごにょごにょ、と沙綾がしゃべったその言葉に震えが止まらなかった。私の心はさざ波も何もたてていないのに、体が言うことを聞かずカッターナイフが手から滑りおちた。私は、震える声で応えた。

「なぁに、沙綾」

 でも、そこからはそれまで言っていたようにおかしな脈絡のない言葉を繰り返していた。ごにょごにょと。一度たりとも私のことを呼ばなかった。

 カッターが綿の中に沈んでいった。鮮血あふれるあの暗闇に落ちていった。私が私であるものとともに、静かで艶やかな花火の音ともに死んでいく。

 そうして、彼は隠れてしまった。


 やっぱり、この時の沙綾の開いた口の動きは花火の時と似ている。橋の上から彼が抵抗もせず殴られっぱなしだった時、こっちを見たんだ。あの時のこぼした言葉。澄んだ瞳にどう猛な光がともった、あの瞬間。

「優」

 私の名前を呼んだ気がしたんだ。



 あれから彼を見なくなった。くたびれたカッターシャツを着た彼。黒ずんだ運動靴でいつも歩いていた彼。いつも見るたびに誰かを助けている彼。すべてが消え去った。クラスは平常通りで、彼のことを気にかけている人もいれば、我関せずを突き通している人もいる。それこそ暴走列車できり捨てる人もいれば、いない人もいるのとおんなじなんだろう。

 私はといえば、あれからニーナをよく思い出していた。大事じゃない大切なもので、頭についた銀色の縄がついている、黒ずんだ藁色のかわいらしいビックベアのストラップ。

 彼がニーナを助けてから帰り道に踏切を通るたんびに、ニーナの欠けた頭の一部を探すんだけど全く見つからなかった。ニーナがいなくなった今となっては、見つかっても見つからなくってもさして変わらないんだけど、それでも何か不自然な感覚があって、気になってしまう。表は普通に世界が回っているのに、裏では何かおかしい。決定的に何か欠けているのに、何かが足りないのに、その何かは分からない。彼、という存在じゃない。彼じゃない何かが足りない。それは彼がいなくなって初めて欠けて、生まれた空洞。真っ黒な穴だ。最初はただのひびだった。それがどんどん大きくなって膨らんでいって、崩れて大きな穴となった。そういう穴ができた。

 でもわからない。彼という存在がいないだけで、こんなにも変わっているのに、私の心は変わらない。体が油をさしていない機械のように動き、疲れているのに、思い返しているのにどの出来事も劇みたいで、私は観客席から眺めているように感じちゃって、やっぱり変わらない。変わっていない。

 これは私がおかしいのか、この世界がおかしいのか。

 四つにまとめたってなんど思い返したって、これをあなたに伝えたって、私には一生わからないんじゃないかな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ニーナに欠けたもの 千羽稲穂 @inaho_rice

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ