第6話 あの時の言葉を、もう一度
世間の学生は夏休みだと浮かれているが、社会人にはそんなものなんてない。
週に一度しかない休みの日を利用して、趣味の時間に費やしたり溜まっている家事仕事を一気に片付けたり、やっぱり体の休まらない生活を送っているのだ。
就職と同時に実家を出た俺は、現在アパートの部屋を借りてそこで一人暮らしをしている。
全然できなかった料理も、ろくにやったことのない洗濯や掃除、スーパーへの買い物なんかも、失敗しながらやっているうちに何とか最低限のことはできるようになった。
普段は日曜というと溜まった一週間分の洗濯物を片付けて部屋の掃除をしたら後はのんびり過ごしているのだが、今日はある用事があって駅前のとあるレストランに来ていた。お洒落で美味いと評判らしい、若い女に人気のイタリアン料理の店だ。
冷房がよく効いた店内で、のんびりとメニューを眺めながら待つことしばし。
「ごめんねー、待たせちゃったかな?」
青い薔薇模様のワンピースを着た長い髪の美人が、手を振りながら俺の席へとやって来る。
俺は顔を上げて、よっと片手を挙げて挨拶をした。
「久しぶりだな、怜」
「あー、暑いね。今日も暑い! 日焼け止め塗ってるのに効いてないんじゃないかって思っちゃうくらい暑いねぇ」
運ばれてきた水を飲みながら、怜は肩に掛かった髪を暑そうに掻き上げて背中へと持っていく。
学生時代は肩よりも少し長い程度だった怜の髪は、現在は背中の真ん中くらいの長さになっていた。よく手入れをしているらしく、TVのシャンプーのCMで見るモデルの髪のようにさらさらだ。
「お前、本当に真っ白だな。そんなに日焼けするのが嫌なのか? ちょっとくらい日焼けしたって構わんと俺は思うんだが」
「そう言うてっちゃんは本当に真っ黒になったねー」
「まあ、俺の仕事は外回りが多いからな」
「そっかぁ。まあボクは基本的にずっと建物の中にいるしね。友達もボクは白い方が可愛いって言ってくれるから、それなら日焼けしないようにしようかなって思ってるだけ。もしもてっちゃんがボクも黒く焼けた方がいいって言うんなら、今からでも一生懸命に焼くけど」
「無理して焼かなくたっていいだろ。お前の好きなようにしろよ」
「そう?」
メニューを見ていた怜が、傍にあった呼び鈴を鳴らす。
注文を訊きに来た店員が、注文を聞いて去っていく。
店内の中央にあるドリンクバーからオレンジ色のドリンク(人参メインの野菜ジュースらしい)を持って来て、怜はそれを飲みながら俺のことをじっと見つめて、尋ねてきた。
「てっちゃん、痩せた? 黒くなったからかなぁ……何か高校生の時よりも細くなった感じがするけど」
「いや……別に体重は変わってないけどな。引き締まったんじゃないか? 体の使い方も変わったからな」
俺は今、柔道はやっていない。あれは高校を卒業したと同時にやめてしまった。
だが、仕事が基本的に肉体労働なので、相変わらず毎日筋肉を酷使している。
そのせいか、以前と比べると、肉の付き方が変わったんじゃないか……と、そんな気はしている。
ふうん、と相槌を打つ怜。
「そっかぁ……でも、カッコイイよ。鍛えられた男の体! って感じがしてさ。ボクは好きだなぁ」
「そういうお前も前より丸くなったな。あ、いや……別に太ったって意味じゃないけどな。肩とか、顔とか、随分女らしくなったなって意味で」
「ほんと? 嬉しいなぁ、てっちゃんがそんな風に言ってくれるなんて」
えへへ、と怜ははにかむ。
「体のラインが丸くなったのは、ひょっとしたらホルモン注射のせいかもね。ボク、二週間に一度病院に行って注射してもらってるんだけど、きっとその効果が出てるんだろうね」
怜はタイに行って性転換手術を受けた後も、定期的に病院に通って女性ホルモンの注射を受けているらしい。
これを定期的に続けないと、体自体は元々男だから、男性ホルモンの量が多くなって声が低くなったり髭が生えてきたりと男としての特徴が体に現れてきてしまうのだそうだ。
注射には金もかかるし一生続けないとならないらしいから、新しい性別を維持するって物凄く苦労するんだなと俺は思っている。
「お前も大変だな。大学生だからまだバイトしかできないだろうし、それで毎月の医療費工面するってのは」
「まあね。けど、嫌じゃないよ? ボクが自分に嘘をつかないで生きるために必要なことなんだって思ったら、全然大変なんかじゃない。てっちゃんが応援してくれてるから、ボクはいつだって元気一杯だよ」
それにほら、と言いながら、怜は傍らに置いてある自分の鞄から何かを取り出して俺へと見せてきた。
それは、原付の免許証だった。
怜、免許なんて持ってたのか。まあ原付の免許は基本的に実技がなくて筆記試験に受かれば取れるらしいから、頭がいいこいつは取るのに苦労なんてしなかったんだろうけど。
「此処、見てくれる?」
そう言って怜が指差したのは、性別を記した欄。
そこには『女性』の明記があった。
「二十歳になったから、やっと戸籍変更の許可が下りたんだ。これでボク、国からも正式に女の子だって認められるようになったんだよ! やっとボク……本当の女の子になれたんだ」
怜の顔は笑っていたが、声は微妙に震えていた。
それは、この『結果』を勝ち取るのが怜にとっての長年の悲願で、それがようやく果たされたことに感極まっているという何よりの証であった。
これから怜は、堂々と胸を張って『女』としての人生を歩んでいくわけだ。
男だった頃から十分に女らしい奴だったし、今更これ以上に飾る必要なんてない。こいつは、さぞかし魅力的な女となっていくことだろう。
「後悔はしてないか?」
俺からの質問に、迷わず怜は首を振って。
「そんなわけないでしょ。ボクはずっとこうなりたかったんだから。ちっちゃいけどちゃんとした胸があって、オチンチンのない、誰からも認められる女の子になれたんだから……後悔なんて、あるわけない」
目尻に微妙に滲んだ涙を、指の腹でそっと拭った。
……そういえば、何となく気になっていたことがあるのだが、これを訊いたら変な顔をされるだろうか。
本当は訊くべきじゃないんだろうなとは思いつつ、好奇心に負けた俺は、そっと声を潜めて訊いてみる。
「答えたくなかったら無理して答えなくてもいいが……その……お前、アレは取ったんだよな?」
「オチンチンのこと? 取ったよ、もちろん。そうしないと女の子になれないもの」
今更何を訊いてるんだ、と言いたげに小首を傾げて答える怜。
「あ、ひょっとしててっちゃん、欲しかったの? ボクのオチンチン」
「ばっ、馬鹿、そんなわけあるかっ」
予想外の返答にぎょっとしつつ、俺は質問の続きを口にする。
「そうじゃなくてな。えっと……アレは、あるのか? その……女の……」
「?……ああ」
何とも曖昧すぎる内容の言葉だが、それでも怜は俺が何を訊きたいのかを察してくれたらしい。
けろりとした様子で、答える。
「手術で作ることはできるみたい。でも、ボクは作らなかったんだ。だから、女の子のアソコがあるのかないのかって質問に対する答えなら『ない』かな。ボクのお股には穴は二つしかないよ。見る?」
「見せなくていいっての! ……そっか、やっぱり、金がかかるからか?」
「それもないことはないけど……作った後の維持が大変だからだよ。元々持ってる本来の女の子とは違って、ボクみたいな元男の子にとっては『傷』と同じものだからね」
うーん、と少し眉間に皺を寄せて考え込んでから、説明してくれた。
「ダイレーションって言うんだけどね。手術で作ったアソコはね、何もしないで放っておくとどんどん塞がっていっちゃうんだ。だからそうならないように、形を維持するための処置が必要になるんだよ。作ったアソコに専用の器具を入れて一生懸命穴を広げる作業をしないといけないんだ。強い鎮痛剤を飲んでやるんだけど、それでもすっごく痛いんだって。一日一時間、それを一生やり続けないといけない。ホルモン注射と一緒だね。定期的に病院にも行かないといけないから、その度にお金もかかっちゃうし……だから、ボクは作らなかったんだよ」
身近なもので例えるならピアスの穴と同じものかな、と怜は言った。
ピアスの穴も、一度空けたら常に穴にピアスを通していないと塞がっていってしまうらしい。中には塞がってしまった穴を安全ピンなんかで無理矢理抉る奴もいるとか。
生まれつき備わっていない穴は、その体にとっては大きな傷。どうにかして元の状態に戻ろうと、体が頑張ろうとするというわけか……
「……オチンチンを取って、大きくて可愛い胸を作って、例え女の子のアソコを作ったとしたって、ボクの中にある遺伝子は男の子の形をしたまんま。それはどうやったって一生変えることはできない。『女の子』として国からも正式に認められるようにはなったけど、子供を産んで『お母さん』になることは不可能なんだよ。どんなに望んでもね。……でも、いいんだ。ボクにとっての女の子としての幸せは、それだけじゃないから」
そう言って、怜は自らの胸に手を当てた。
小振りだけど、確かにそこで存在感を主張している、女らしい丸くて膨らんだ胸。
詰め物をして形成するものだから、大きさは自由に選ぶことができるらしい。望めば巨乳にすることもできたのだろうが、敢えて怜はそうしなかったのだという。
何故巨乳を望まなかったのか、その理由は俺には分からないが……怜にとっては、何らかの意味があってのことなのだろうと俺は思っている。
「あ、でも、てっちゃんが望むなら、ボク、作ってもいいかなっ。そうすれば、夜のお相手だってしてあげられるようになるしね! まあ、今のまんまでも一応できないことはないけど……お尻の穴って綺麗なものじゃないから、そんなところに入れるのなんて嫌でしょ?」
「……何を言ってるんだ、何を」
「あはは、冗談だよ冗談。照れちゃって、可愛いなぁてっちゃんは」
「……うるさい」
……どうも怜は、完全に『女』になってからは言動が大胆になったというか、遠慮がなくなったような気がする。
こうして平然と下品なことを言うし、俺をわざと誘惑するような台詞も臆面もなく口にする。
俺たちは別に交際しているわけではない。これは学生時代の頃からと同じ、あくまで幼馴染としての付き合いだ。
二人きりで顔を合わせたのも久々だし、子供の頃と比較すると一緒につるむことは殆どなくなったと言っていい。
でも……だからこそ、実感する。
怜が抱いている気持ちは、あの頃から、全然形を変えていないのだということも。
「ねえ、てっちゃん」
照れている俺の様子を可笑しそうに笑った後、すっと表情を引き締めて、怜はゆっくりと問いかけてきた。
「ボクが初めててっちゃんに告白した時に、した質問。あの時の答えを、ボクが本当の女の子になったら教えてくれるって約束したよね。覚えてる?」
「……ああ」
俺が頷くと、怜はにこりと微笑んで。
「……ボクは、てっちゃんのお嫁さんになりたい。てっちゃんの子供は産んであげられないけれど、その代わりに、子供にあげるはずだった愛もひとつにまとめて大きくした気持ちを、捧げるよ。直した方がいいところは頑張って直すし、お料理もお洗濯もお掃除も一生懸命頑張る。ボクにとって、てっちゃん以外の男の人を相手に選ぶなんて考えられない。ボクには、てっちゃんしかいないんだ。だから……教えて下さい」
あの時俺に投げかけた言葉と全く同じものを、口にした。
「ボクがどんな風になったら、てっちゃんはボクをお嫁さんにしてくれるかな?」
子供の頃から一緒につるんできた、大切な幼馴染。
俺にとってこいつが大事な存在だってことは、今も昔も変わらない。
だから、俺も誠意を持って答えを返す。
あの時は逃げたけど、今回は逃げない。大人の男として、思っていることを正直に話す。
それが……俺たちにとって、何よりも大事なことなのだから。
俺は静かに深呼吸をして──
その言葉を、伝えた。
自宅に続く閑静な住宅街へと続く道を歩いていると、頭上を一匹のトンボが飛んでいくのが見えた。
──もうすぐ、夏も終わりだな。
あっという間に視界から消えてしまったトンボを見送りながら、明日からまた頑張って仕事をしようと、俺はそう独りごちたのだった。
属性は何を選択すればお嫁さんにしてくれますか? 高柳神羅 @blood5
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