存在と永遠
犬井作
終末
始まりは突然で、驚くべき速度で事態は進行した。
男が覚えているのは不気味な空気の静けさと地上を覆うパニックだった。男は無我夢中だった。高いところに逃げなければと思った。そして少年の頃から親しんだ、裏山のヤシの木のことを思い出した。あそこなら万が一があっても、ヤシの汁を啜って生きていける……そういった打算があった。恋人のことも家族のことも、彼がそれまでの人生で為してきたあらゆることが彼の意識の外にあった。差し迫った死を回避することしか考えていなかった。
彼はヤシの木を駆け登り掴まった。一息ついて、ここまでくれば大丈夫だろうと思いあたりを見回した。だが彼が二十メートルの高さから見たものは、遠く逃げ去っていく群衆と、前方に差し迫った赤茶色の大波だった。津波──初めて見る自然界の暴力が彼を呑み込んだ。
強烈な痛みが襲いかかった。彼は必死に幹にしがみついていた。そのことしか考えていなかったから、彼はもみくちゃにされる中で瓦礫や死体にぶつかったことも、その中に自分の父母や、彼が大枚をはたいて購入したばかりの新車や、十年後お金を貯めて購入しようと思っていたマンションが含まれていたことにも、なにも気が付かなかった。
すべての感覚が失われた。
男が次に目を開けたとき、彼は様々なことを忘れていた。自分の名前や、祖国の名前、様々な経験から得られた教訓の数々は、波に溶けてしまっていた。覚えているのはわずかな知識、自分にまつわるエピソードと、圧倒的な力に飲み込まれた絶望感だけだった。
ヤシの木は男の腕の中にあった。顔を上げて息を呑んだ。辺りは一面瓦礫しかなかった。高層ビルもマンションもアパートも、線路の一部も見かけた。様々なものが無秩序に積み重なり山のようになっていた。砕けた人工物ででたらめに作られた山だが、単なるゴミ山のスケールとは比べ物にならない。それは男がいる位置、裏山に生えた二十メートルのヤシの木よりも高く積み上がっているのだ。
下を見ると、ゴミが積み重なったりしていない、裸の、焦茶色の大地があった。まるで島が瓦礫に包まれているようだった。――人ひとり暮らすには十分な面積だと直感的に思った。どうしてそう感じたのかはわからない。――地面が隆起したのだろうか、辺りの瓦礫より一段高い位置に地面があるようだった。男はゆっくり慎重に、木から降りていった。
辺りは薄暗かった。波にさらわれたのだろうか、靴が脱げていたから、男は足の裏で柔らかい土の感触を確かめた。ぐっしょりと濡れていたが、泥にはなっていなかった。土の成分のせいだろうか。男には判断ができなかった。ただ覚えている限り木の真下には草むらがあったはずだ。そのすべてをあの津波が拭い去ったと思うほかなかった。であればこれは、露出した地下なのだと考えるほうが妥当だ。
男は改めて辺りを見回した。全面が、高さはまちまちだが、ゴミの山に包まれていた。男は自分のいる場所に光が届いていないわけを理解した。
なにをすべきかわからず、途方に暮れた。体がずっと動いているような感覚は、体を通り抜けた力の残滓だろうか。それとも錯覚だろうか。男にはそれが自分の心理の反映のように思えた。何かに流され続けている……どこに行くかわからない。先行きが見えない不安が芽生えた。
歩き回れるだけの余裕があったから、あてもなく足を動かした。裸の大地が続く端まで行ってみた。瓦礫がぐいぐいと押し寄せていた。飛び移ろうかとも考えたが、やめた。怪我をしたくなかった。
男はモザイクのように様々な色がぶつかり散らばり合っている、山の側面――というよりは壁――に目を向けた。隙間などなかった。男は走り回る避難民の姿を思い出した。彼らはみな男がいた場所よりもさらに海から遠い方へと向かっていた。ここには誰もいないかもしれない。そう思った途端孤独と寂寥が襲ってきた。咄嗟に叫んでいた。
おおい、誰かいませんかあ。
声は瓦礫に反響して山びこのように繰り返された。おおい、誰かいませんかあ。おおい、誰かいませんかあ。……おおい、誰かいませんかあ。……おおい、……ついに聞こえなくなった。つい先程まで気づかなかった、ゾッとする静けさが訪れた。
男は端から端へと移動しながら叫び続けた。自分の声しか聞こえてこなかった。ひしめく瓦礫が時折立てているのであろう、歯ぎしりのような奇妙な音が、何度目かの静寂のなか聞こえてきた。怪獣の腹の中にいるみたいだと男は思った。だがそんな考えはすぐ消えた。うつむいていた男の目の前で、辺りは光を取り戻し始め、自分の影が顔を出した。太陽が差し込み始めていた。
男は振り返った。瓦礫の山が音もなく崩れているのだろうか。男は次第にその領域を増す空に違和感を抱いて、じっとその変化に注意した。そして勘違いに気がついた。山が崩れているのではなかった。形はそのまま、高さだけが低くなっている。周囲のすべてがそうだった。混乱した。おろおろとあたりを見回すことしかできなかった。
轟音を立てて、瓦礫の山の一部が崩れた。頬を張ったような音がした途端、自分のいる大地が揺れた。男は思わず膝をついた。余震だろうか。それにしては調子がおかしい。
また山の一部が崩れた。同じようになった。男は手をついて、必死にこらえた。男は目の前の、大地の縁に押し寄せていた瓦礫がすうっと引いていった様子を目撃した。そしてその下から、ちゃぷちゃぷ音を立てながら、黒い水が現れたことに驚いた。目線で瓦礫を追うと、密集していたそれらはばらばらになっていって、それらが覆っていた水面を陽の光に晒した。
男は顔を上げた。山がまるまる一つ消え去っていた。瓦礫の平野の先に白波が見えた。そして故郷が見えた。大きな戦争に蹂躙されたかのように、打ち壊され、廃墟と化した故郷を、祖国を発見した。
かつてあったはずの風景が欠けていた。男は周囲に視線を巡らせた。見覚えのある建物や看板、スナック菓子の袋や清涼飲料のペットボトルが漂っていた。恐ろしい威力で、津波が大地を齧り取ったのだ。男は驚きのあまり声も出なかった。
すべて遠く、小さかった。男は戸惑った。俺は町中にいたはずだった。これじゃまるで、沖に出ているようじゃないか。……
男は現実を認めたくなかった。尻餅をついた。振り返った。辺りを取り囲んでいた瓦礫の山がすうっと流れていこうとしていた。その隙間から大洋が見えた。何一つ障害物のない、まっさらな海――水平線で空と海が交じっている。照りつける太陽が泡立つ海に美しいきらめきを与えていた。ひどく穏やかだ。……
男はまた、故郷を見た。先程よりも遠くなっていた。男は認めざるを得なかった、いま、ヤシの木の根が絡みついていた大地の上にいることを。自分は漂流する孤島に取り残されてしまったことを。……
男は手を合わせた。男の家族は故郷でもひときわ熱心なキリスト教徒で、男は幼少期に何度も教会に連れて行ってもらっていた。だから咄嗟に神を思ったのだ。天にまします我らが神よ……うろ覚えの聖句を唱え、できる限り丁寧な言葉遣いで……その間ずっと、遠ざかる大地を眺めながら、男は祈った。……
それからどれだけの時間が経っただろう。故郷はすっかり見えなくなった。男は、様々な故郷の残骸とともに沖へと導かれていった。もうどれだけ泳いでも辿り着けそうになかった。男は祈り疲れ、ひどくふさぎ込んだ。
誰も俺が生きていることを知らないだろう。誰もが津波に飲み込まれて死んでしまったと、そう思うだろう。……仮に知ったとしてもだめだろう。故郷に生存者を助ける余裕があったとしても、流されていった者を助けるより手近な生存者を助けるはずだ。今の俺は死人同然だ。……
すると、辺りに死体が流れ着きはじめた。男はよろよろと立ち上がった。老若男女、人種を問わず、自然の暴力に蹂躙されたという点で等しい肉体が、瓦礫にぶつかったりしながら、波に運ばれていく。彼らも男と同類だ――誰にも顧みられず朽ち果てていく――
血の匂いを嗅ぎつけたのか、しだいに魚たちが寄ってきた。そして男の眼下で、浮かんでいた死体を貪り始めた。肉が裂かれ、骨の砕ける音が生々しく聞こえてきた。男の曖昧な意識は、次第に濃くなるひどい臭さによって目覚めさせられた。彼は辺りの風景が、突然解像度を取り戻したように思えた。
ある女の死体は仰向けになっていた。その鼻は抉れており、目は飛び出さんばかりに見開かれていた。恐ろしい形相で、女は男を見つめていた。その女の全身に魚が群がり、はらわたや乳房、二の腕に食らいついていた。若い、褐色の美しい肌が血に汚れ、波で洗われ、肋骨がむき出しになった。白かった。男は思わず、胃の中のものをすべて吐き出していた。
原形をとどめていない昼食が足元に飛び散った。しかしそれも僅かな間だった。打ち寄せた波が大地を洗った。裸の大地だけが残った。虫のたぐいも草花も失った土が。
この土は海水で洗われた。きっといろいろな命が奪われたはずだ。雑草が生えることもないだろう――男は砂浜の臭さを思い出した。様々な死骸と流れ着いた海藻が生む腐臭に似た臭さ――かつては肥沃な裏山だったこの大地は、過去を喪い、いまやただの土塊だ。そしていずれ砂に変わっていくのではないか。……
ここには死しかない。男の脳裏に、ハッキリとその考えが浮かんだ。魚や海鳥は冥界への導き手に違いない。彼らは死者を生のシステムに回収している。物質の循環、無限大の時間――始まりも終わりもない永遠の流転に。
男は自分が朽ち果て、全身を鳥や魚に啄まれ、無残に原型を留めなくなる様を想像した。日に焼けた褐色の肌も、ポルトガル系の先祖を持つ父方から受け継いだ高い鼻も、母譲りの整った歯並びも、恋人が好きだと言ってくれた鍛えた肉体のすべてが失われていく。その経過を、驚くほど克明に、細密に想像した。
死にたくない!
俺はまだまだ生きていたい!
発狂しそうなほどの恐ろしさをこらえながら、男はなんとしてでも生き延びようと決心した。そのためには、なんでもしてやると。
男は木陰に入って腰を下ろした。木に凭れかかって、全身を投げ出した。そして潮風や、運ばれてくる臭いや、視界を縦に貫く、大きな積乱雲を眺めながら考えを巡らした。
救助は見込めない。当面生きていく必要がある。そのためにはとにかく飲みものと食い物が必要だ。それから現在位置を確認するなどして、ここから脱出する具体的な手段を考えなくてはいけない。
男は立ち上がった。漂流する孤島の端まで向かって、使えそうなものはないか探そうとした。そして慌てて身をかがめて手を伸ばした。ペットボトルが目の前に流れ来ていた。飲水が入っていた。海面になんとか手が届いた。拾いあげると、やけに重かった。男はペットボトルを視線の高さまで持ち上げた。
悲鳴を上げた。誰かの手が、固くそれを握りしめていた。が、すんでのところでそれを投げ出さなかった。これを投げ捨てれば、自分は水を飲まないまま死んでしまうかもしれない。理性がなんとか衝動を抑え込んだ。
男は恐る恐る顔を近づけた。擦り傷だらけの肌だった。それは右手だった。手首から先はなかった。ちぎれた断面から伸びた血管がぷらぷらと風に揺れていた。浅黒い肌の色が、同じ祖国の人であることを示していた。だが性別はわからなかった。しわがないところを見ると若者だろう。同い年かもしれない。男は想像して気分を悪くした。骨がところどころ見えていた。とくに第二関節などは剥き出しだった。それでも指が緩められた形跡はなかった。生にしがみつく自分の姿に重なった。
慌てていたし、掴んだのは蓋の近くだったから、ボトルの胴を握っていたそれに気づかなかったのだろう。男はそう結論づけた。そして自分に言い聞かせた。生きるためには何だってやる、俺はそう決めたのだ。男は、ペットボトルにしがみついた指を一本ずつ剥がす決心を固めた。
左手と両膝でボトルを押さえ、まず人差し指に手をかけた。離してくれ、離してくれと念じながら力を込めた。しかしびくともしなかった。男は力を込め続けた。そして突然、ボキンと音がして、反対側まで曲がってしまった。骨が折れた。掌が裂けて飛び出てきた。
男は強い罪悪感を抱いた。なんてことをしてしまったのだろうと嘆いた。謝った。少しずつ冷静さを取り戻していった。
男は、他の指と真反対を向いた人差し指をじっと見つめた。爪が剥がれていた。血は流れていなかった。それで男は、すでにこの手の主は死んでいたことを思い出した。
男は骨を折りやすい小指から順に外していった。乾いた音とともに、男から躊躇いがなくなっていった。罪悪感は、単純な達成感に上書きされていった。
男は四本の指を外すと親指を摘んでボトルから引っ剥がし、海へ投げた。弧を描き、どぼんと大きな音を立てて落ちた。手はそれきり見えなくなった。
魚が処理をしてくれるだろう。そう思いながら男はペットボトルを蓋を開け、傾けて、両手を軽くすすいだ。それから少しだけ口に含んだ。口の中に染み渡るようだった。冷たくて心地良かった。身体は力を取り戻し、ようやくものを考えるだけの余裕が生じた。
開封されたあとだから衛生状態が悪いかもしれない。無理に飲んでお腹を壊し体力を消耗したら本末転倒だ。いざというときのために取っておこう。
男は辺りを見回した。故郷からの距離を示す手がかりを探した。男は星の見方など知らなかった。北極星の位置すらわからない。日中、それもまだ時間が経っていない今日の間に確かめる必要があった。しかし海にはコンクリートの欠片や、魚たちが食い残したらしい死体が漂うばかりだった。
どれかがコンパスとか、そういったものを持っているかもしれない。そう思って目を凝らした。が、目につく、手の届きそうな死体はどれも衣服をまとっていなかった。多くが尻を突き出していた。ズボンやスカートはもうないと教えてくれているようだった。
男は自分が、死体を単なるモノとして見ていることに気がついた。ゾッとした。顔を振り、座り込んだ。苛立ち紛れにペットボトルをポケットにねじ込もうとした。つっかえたと同時に、硬いものが男の太腿に押し付けられた。スマートフォンを入れていたことを男は思い出した。取り出すと、奇跡的に無傷だった。真っ黒な画面に、泥やゴミをつけた男の笑顔が反射した。
男はロックを解除しようと画面を触ったり、いくつかのボタンを押したりした。しかしうんともすんとも言わなかった。画面は真っ暗なままだった。それはもう、単なる小さな、重たい板にすぎなかった。男は沸き起こった大きな希望が急速にしぼんでいく音を聞いた。落差の激しさが怒りに変わった。男はそれを叩きつけた。大地を跳ねたあと、スマートフォンは錐揉みしながら海に落ちて、消えた。
男は頭をかきむしった。体を丸めた。広大な世界に取り残された孤独感が、いっそう実感できた。
生き延びていたい。だが、どうすればいいというんだ。
男は立ち上がり、木の周りをぐるぐると歩き回った。体を動かして気を紛らわせたかった。なにかを考えていたかった。どうすればいい、どうすればいい……時間が無益に過ぎていった。
男は無意識に尻ポケットを探っていた。硬い感触を手に確かめて、続いて胸ポケットを漁った。タバコを取り出そうとした。だが冷たい感触が肌に触れて、ぎょっとして跳ねた。彼はその時ようやく自分の身なりに気がついた。男はまじまじと自分の体を確認した。
ポロシャツを着ていたはずなのにボロ布をまとったようにしか思えなかった。胸ポケットのタバコは波にさらわれてしまったらしい。……ジーンズもあちこちが裂けていた。だが幸いにしてポケットの類はすべて無事だった。だがそれだけだった。
男は手の中の確かな感触が、夢ではないと祈りながら、そっと開いた。ジッポーライターが収まっていた。蓋を開いて点火した。冷え切った体が熱の味に震えた。くしゃみが出た。涙までこぼれた。
彼は空を見上げた。どこに向ければいいか判らない感謝の念が、燦然と輝く太陽へと殺到した。そしてふと、腕を広げたヤシの枝に目を留めた。三つ四つ、付け根に大きな実がなっている。四方に伸びた枝には風に揺れる枝葉があった。
食料と救難信号を男は発見した。
すぐにでも火を着けようと思い、男は木を登り始めた。しかしその最中、だんだん気持ちが落ち着いてきて、考えが変わった。いますぐ葉に火を着けたところで、誰かに発見してもらえる確証はない。舟や島を発見したら、そのときにつけよう。だいいちまだ、葉は濡れているだろう。あの津波はこの木すら巻き込んだのだ。乾くまで待たなければならない。
彼は登りきったあと、思い切って身を乗り出してみた。腕を伸ばし、葉に触れてみた。想像したとおり濡れていた。乾かせば問題なく使えるだろう。
男は次に、実がどうなっているか試してみた。こぶりなものをぐっと押してみると、あっけなく落下した。下で実が砕けるのが見えた。大きな音がして、土煙が上がった。勢いが凄かったせいだろう、馬鹿馬鹿しいと自分に言い聞かせながらも、男は何度もヤシの実をぶつけたら足元の大地が砕けてしまうのではないかと考えてしまった。
男は降りて実を拾い上げた。太陽に照らされていたせいか毛の生えた殻の表面は暖かく、ごわごわして、生きているように思われた。少し濡れていた。見ると、綺麗に割れ目が生じていて中の汁が溢れている。男は反射的に口をつけていた。産毛の感触も気にせず、舌を伸ばして濡れた部分を舐めた。だがいくら傾けても、汁はちょろちょろとしか出てこない。渇きはいっそうひどくなった。飲んだと感じられる満足感が欲しかった。
男はあたりを見回した。使えそうなものはなかった。腰に手を当てたとき妙案が降りた。ベルトを外して、留め具を用いて抉れないだろうか。男は試してみた。はじめはうまく行かず、留め具は実の表面を滑った。だが試行錯誤の末うまくいった。男は懸命に努力して、ついに、汁が満足に溢れるようになるまでにした。
男は口をつけて大きく傾けた。。少し苦く、甘い酸味が広がった。喉を鳴らして絶え間なく飲み続けた。強く生を実感した。全身に栄養が染み渡っていくような気がした。何度か休憩しながら、男は飲み干してしまった。ゲップが出た。気恥ずかしくて、誰もいないというのに口元を押さえた。
渇きが癒されると、飢えが強く感じられた。男はちょっと悩んだあと、孤島の縁に向かった。膝を曲げて、大地が途切れた角を触ってみた。石が交じっているのか、硬かった。男は意図通りに事が運ぶ確信を得て思わず歓声を上げた。
男は先ほどできた割れ目が当たるようにして、実を何度か振り下ろした。実が大地にめり込んだ。男はそっと持ち上げると木陰へと向かった。実を砕くと、わずかに残った汁の下に、厚い、白いゼリー状の層が皮との間に存在している。男は指ですくって舐めた。いつもの味だ。男は舌を伸ばした。少しずつ食べるつもりだった。だが我慢がきかなくなってむしゃぶりついた。鼻や頬にどろどろがついた。皮を舌で感じるまで綺麗に舐め取ったあと、顔を離し、指ですくって口に含んだ。
その後男は、幹の周りを囲うように残った皮を並べ始めた。こうして天日干しにして放置すれば明日の昼頃には乾いていることだろう。よい着火剤になるはずだ。
男は辺りを見回した。指折り数えながら自分が行ったことを確認した。今やれることは全てやった。栄養分が豊富だから、当面はこれでしのげるはずだ。男はヤシの木を見上げた。大きさに見合った数の実があった。これだけあれば、節約すれば船が通りがかるまで保つかもしれない。……そんな事を考えているうちに、男は気持ち良い疲労感とともに、地面に仰向けに寝転がった。
太陽のおかげで土は乾いていた。なんどか寝返りを打ちながら、満足感に浸った。そしていつの間にか眠っていた。
眩しかった。男は目を覚ました。上体を起こして目をこすり、まぶたを開いた。燦然と輝く光線が瞳に飛び込んだ。男は顔をそらして、少しずつ目を開いた。影が長く伸びていた。雲が遠く過ぎゆく空に宵闇が訪れている。男は前を向き、息を呑んだ。
ちょうど海に日が沈むところだった。黄昏時の群青色──水平線に溶けていく太陽。この上ない福音のように思えた。
眼前の海を漂う死体は数を減らし、目につく瓦礫も小さなものばかりになっている。かつての故郷を思わせるものは減っていきつつある。しかし男の希望は膨らんだ。わけもなく、自分は生きて帰れるものだと思えた。
男は目を閉じた。まどろみが手を引いてくれたおかげで、あっという間に眠りに落ちた。
朝早く目覚めた。瞼の裏からでも解るほどの強烈な眩しさだった。男は寝る前の教訓を覚えていた。顔を手で守りながら、ゆっくり目を開く。光に目が慣れてきた頃、手を少しずつずらして、サンバイザー代わりに、手刀を横にして眉に押し当てた。
水平線から朝陽が昇っていた。散り散りに漂う雲が黄金に彩られている。宵闇はすっかり天頂に追いやられ、瑞々しい水色の空が新しい朝を告げていた。
男はあたりを見回した。依然として周囲に瓦礫や死体が漂っていた。しかしそれらは脱臭され、代わりに浜辺に流れ着く小瓶やガラス片といった様々なものが纏う、あの独特の匂いを発していた。また一つ過去が消えた。男はぼんやりそんなことを思った。
はじめはこの大地。かつては位置が定められ、町の裏山の、ヤシの木が成っている場所として認識されていた場所、多くの動物たちが行き交い、虫がねぐらにしていたこともあったであろう地点は、特定の座標を喪い、漂流する孤島として大洋をあてどなくさまよう。この大地に付与された意味は、男の足場、ヤシの木を生かす浮袋といった程度しかない。
次にこの瓦礫。かつてはマンションを構成したり、食料店を構成していた部分として機能していた木やコンクリートは、いまやその機能の名残を示すだけの物質だ。仮になにかに利用できたら、そのときようやく意味が付与される。しかしそれまでは単なる漂流物、過去も未来もなく朽ちていくだけの虚しい存在だ。
その点でいけばこの死体たちは、無意味の極みとでも言える。かつては生を謳歌していた肉体は朽ち、動物の餌としての意味しか持たない。本来のいのちが持っていた唯一無二のものは失われてしまった。その肉や骨は循環の中へ回帰し、ともすれば新しい生命の部分として利用される。しかし個別の生命としての総体を取り戻すことはない。
様々なものが文脈を失った。その意味を規定するものをなくして、単なる物質と成り果てた。……
だが俺は違うぞ!
男は立ち上がり、ぐっと伸びをした。昨日とは違い、混じりけなく、潮の香りが胸いっぱいに広がった。生まれて初めて、男は自分の生に感謝した。
まだ生きている。祖国に帰る事もできる。自分はまだやれることがたくさんある。
男にはやる気が満ちていた。世間が定める生き方に従って、なにも考えず、慌ただしく一日を送っている間には味わったことのない充実感を、はからずも昨日得たからだ。
今日もたくさんすることがある。そうしてきちんと物事をこなしていれば、いつかツキが回ってくる。男は根拠もなくそう思っていた。
男は干しておいたヤシの実の皮の状態を確かめた。いくつかが波にさらわれてなくなっていたが、被害は予想の範囲内だった。次にヤシの葉を見上げた。昨日は水滴が太陽にきらめいたりもしたが、今日はそうではなかった。男はニヤリと笑った。あとは船が通りかかったり、島が見えたりすればいいだけだ。
男はあぐらをかいて足首をぐっと握った。そうしていないと勇んだ身体をいたずらに動かして、体力を消耗してしまいそうだったからだ。だが体力を回復する手段は少ない。生存のためには強固な意志を保たなければいけない。男は自分にそう言い聞かせた。
そして待った。目を凝らして、視界のどこかに影を見つけたらすぐさま火を着けてやろうと、右手に乾燥したヤシの皮を握りしめた。深く息を吐きながら、ゆっくり辺りに視線を巡らせた。それを何度も繰り返した。
穏やかな陽射しのもと、雲は緩慢に遊弋し、千切れては消え去り、また新しく生まれて、彼の視界を横切った。生成と消滅の繰り返しだった。視界には障害物はなく、白い水平線がどの方角に目を向けても確認することができた。どこまでも空間が伸び広がっている――不思議なことに、今日になると生きものの気配はまったくしなかった。魚が息継ぎする音もしなければ、海鳥が鳴く声も聞こえなかった。波は穏やかで、男が腰掛ける大地にぶつかって、ちゃぷちゃぷと音をたてる他は、不気味な沈黙を保っていた。
男は自分の呼吸を聞いた。胸を押し上げる心臓の鼓動を聞いた。甲高い、弱い耳鳴りを聞いた。だがそれだけだった。
彼の周囲の死体はなにも語らなかった。彼らは虚ろな瞳で水中を眺めたり、空の移り変わりを眺めたりしていた。波のために体を左右に振りながら、内臓をボロボロと海中に撒いていた。しかし昨日と違って魚が寄り付くことはなかった。
とうに彼らの血も、故郷の泥も、拡散して見えなくなっていた。男の周囲にあった赤色は、青色に飲み込まれていた。
海はその役目を終えたものを、少しずつ迎えている。そして物質に還元し、循環の中へ回帰させていく。……
循環とは活動のことだ。海の中では営みが行われている。生きているものの世界がある。死は生の一過程として組み込まれている。
男は空を見上げた。そこも生きものの世界だ。天上は鳥たちのものだ。彼らは自らの営みとして海上に降り、狩りをする。空の下に流れる循環から外れたものは死に、鳥たちの営みの部分として組み込まれる。
空と海の鏡合わせの中で世界が閉じている。男は見えない地上を思った。それも閉ざされた世界の部分だ。生きものは地上か、地中か、海中か、空中に息づき活動する。
だが海面、海上には、一生を終えたものが、それに役割や意味を与えていた文脈を失った死者が漂うばかりだ。生きものはそこを通過するだけで、根城にしたりはしない。だが俺はそこを漂流している。過去を失った大地、死の領土となった大地を根城にして――
男は立ち上がった。焦燥感を振り払おうと、体をめちゃくちゃに動かした。だがすぐにやめた。自分に言い聞かせた。意志を強く保たなくてはいけない。俺は生きるんだ。このなにもない海の上から脱出するんだ。さあ、船よ来い、炎と煙で合図してやる……エネルギーを放出して、生きている証拠を見せつけてやる。
男はまた座り込んだ。そしてじっと辺りに注意を払った。太陽は微塵にも位置を変えていなかった。男は深呼吸を繰り返した。男の上を、一世紀もの時間が流れていったような気がした。男はまどろんでいた。緊張の持続には限界があった。どことなく周囲が薄暗く、肌に粘りつくような湿気を感じていた。
霧だった。男は慌てて立ち上がった。これでは葉が濡れてしまう。男は木に登った。一つの枝を蹴って折ろうと決めた。男は幹にしがみついて、落ちないように気をつけながら、手近な枝に踵を何度も打ち当てた。彼の足首が激痛に耐えられなくなったその瞬間、枝が折れ、皮一枚だけ残って、ぶらぶらと垂れ下がった。男は呼吸を整えながら姿勢を戻して、その枝を引き寄せてねじった。十回もねじっただろうか、枝は千切れ、もともとあった繋がりを絶たれた。男は腕に収穫物を抱いて大地に降りた。そしてばさばさと降って、葉の状態を確かめた。少し濡れていたし、葉はまだ活力に満ちていた。火を着けても容易に引火しないだろう。男は自分の迂闊を悔やんだ。
その思いを嘲笑うかのように、巨人の歌声にも似た、大きな音が海に響き渡った。男は顔をあげた。深い霧の中に巨大な影が浮かんでいた。煙突のような突起が見えた。それは男の故郷である海沿いの田舎町では一生お目にかかれないほどに大きな建造物だった。しかし間違いなく船だった。その影の形から、その船が自分の間際を横切るだろうと予想できた。
男は感動のあまり言葉を失った。頭が真っ白になった。大慌てで懐に抱えていた乾燥したヤシの皮を地面に並べ、ライターを取り出した。炎はブルブルと震えていた。腕が、上半身が、全身が緊張と歓喜で震えている。炎を近づけると、勢いよく燃え始めた。細い煙と熱が男の顔をさっと通り過ぎた。悠長にやっていたら火が燃え尽きる。男は他の皮を炎に近づけた。勢いを増し、膝ほどの高さの火柱が生じた。火傷するんじゃないかと思えた。
男は枝を炎に近づけて待った。葉はなかなか引火しなかった。くるくると縮こまって、シュウシュウ水分を失っていった。男は歯がゆくて呻いた。うまく行ってくれ、頼むからうまくいってくれ!
願いが通じた。燃焼が始まった。燃え広がり、松明のように明るい炎を彼は手に入れた。男は船に向かって炎を振った。そして大きな声で呼びかけた。
助けてくれえ! 俺はここだあ!
返事をするように汽笛が鳴った。全身がビリビリと震えた。巨大な影は近づき、いっそう大きくなった。しかし船は減速しなかった。男は必死に呼びかけ続けた。船は彼の目の前を横切っていった。男は仰け反るようにしながら呼びかけ続けた。男は、人々が船の手すりに体を預けて、自分をじっと見つめていることに気がついた。野次馬だろうか。違う。彼らの目には好奇心がない。男は不思議に思ったが、それでも呼びかけた。誰かが浮き輪を投げ下ろしてくれれば、それで助かるのだ。
霧の切れ間から、人々の顔が現れた。男は思わず声を上げた。それは家族だった。母親や妹、十年前に亡くなったはずの父もいた。それだけじゃなかった。そこには顔も知らない先祖が並んでいた。身近な親族は憐れむような目を向けていた。遠い先祖は手招きしていた。
男は自分の目を擦った。他の人々の顔が見えた。見覚えのない、老若男女が入り混じった集団だった。みすぼらしい格好で、船に乗れるような身分にはとうてい思えなかった。その中のひとりに見覚えがあった。それは彼をじっと目を向けていた、魚に食われた女だった。形のいい鼻がその顔に乗っていた。
みな死んだはずの人々だった。
誰かが浮き輪を投げた。男の眼前に落ちた。
死神だ。男は確信した。死神が幻覚を見せている。俺に早く死ねと言っている。俺を迎えてやると、傲慢な態度で、俺に命令しようとしている。ふざけるな、俺は生きてやる、死んでたまるものか。
男は野次馬たちを睨み返した。届くはずもなかったが、炎を彼らに向かって投げた。無数の憐憫が男に注がれた。男は怒鳴り返した。
俺は生きてやる!
船は音もなく消えていった。霧の中に見えていた巨大な影は間もなく見えなくなった。
あの船はなんだったのだろう。霧の中で見た人々は幻覚だろうか。それとも死神が俺に手招きしているのか。……
ひときわ高い波がやってきた。ざぶんと音を立て、島に打ち寄せた。男は引き返して木に足をかけた。どれくらい登ろうか思案しながら、何度も何度も打ち寄せる波を見ていた。
そしてふと、大地の輪郭が変わっていることに気付いた。波が抉っていったのだ。故郷を奪ったときのように、海はまた男の生存圏を脅かし始めた。男は途方に暮れ咄嗟に空を見上げた。そしてヤシの葉が昨日よりしなびていることにようやく気がついた。そうだ、ここは海だ。海水は植物の命を奪う。……もしかしたら明日にでも、この孤島を支える木が倒れてしまうかもしれない。
男の胸に絶望めいた強烈な怒りが沸き起こった。
なぜ俺だけがこんな苦しみを味あわなくてはいけないんだ。せめて一人でも同じ境遇のやつがいてくれたら良かったのに……
男は想像した。自分と同じように、津波にあい、大木にひっしと掴まって沖に流されたものの心の内を想像した。観光客だったら、木に登ることのできない連中のほうが多いだろうから、そいつは同郷のはずだ。彼──あるいは彼女──は故郷が抉り取られた風景を見ただろうか。どう感じただろう。そいつが迫害されていたら、きっと喜ぶかもしれない。それでも多かれ少なかれ、故郷が、自分がかつて過ごした大地が海の藻屑となったことに悲しみを覚えるのではないか。そこに流れた時間、遙かなる過去において名前も顔も知らない先祖たちのころから、少しずつ育まれた歴史というものは、永久にこの世から葬り去られてしまったのだから。
男は考え続けた。俺が見てきた風景は、自分が過ごしてきた空間は、かつてそこにあったとしてだけ認識される。たとえば子や孫、震災を生き延びた同胞が、喪われた人々の記憶を知ろうと願っても、確認することは不可能だ。自分が存在してきたという証拠が、一辺たりともなくなってしまった。家族が墓を作ってくれればよいが、もし死んでしまっていたら、先祖の痕跡もろとも消失されてしまう。生き延びて、この死の海から脱出しなければ、俺が存在したという証拠は一切合切消えてしまう。ナントカという男がどこそこで死んだ。そんな記録すら残らないままになってしまう。そんなのは嫌だ、耐えられない!
男は船の人々を思った。彼らはどこへゆくのだろう。霧の中に消えていった彼らは、また物質の循環の果てに人として生まれてくるのだろうか。仮にそうだとしても、彼らは還元と複雑化の試行錯誤の末に不可逆な変化を経験し、もとの人格は喪われるだろう。彼らは自分が生きたことすら忘れ、また生まれてくる。そんなイメージが頭に浮かんだ。
自分もまた、人格を失った命を素に再生産された存在なのかもしれない。男は自分の体の細胞の一つ一つに溶け込んだ命を想った。無数の命のツギハギである自分を想像した。どこからどこまでが自分だと、はっきりと言えるのだろう。自分も循環の産物だ……永遠の生成と消滅にすり潰される命だ……抵抗して、どうなるというのだ。
男はものすごい疲労感を覚えた。力を失い座り込んだ。こんなに苦痛を味わうなら、死ぬことに気づかず死んでいたかった。死んでいれば、生き延びようと必死に行動するなんてこともなかったし、企てが失敗した挫折感を味わうことも、依って立つ大地が少しずつ減じていく恐怖におののくこともなかった。どうすれば死なずにすむだろう。
ふと、かつて見た映画のことを思い出した。死神を見た男が取引を持ちかけるのだ。おれがチェスに勝ったら立ち去れ、負けたら命をくれてやる。そして死神と男は旅をしながらチェスを打ち続ける。
もしもあの船が幻覚ではないとしたら、ここはあの世とこの世の境目かもしれない。であれば、死神と取引することも可能だ。映画の主人公のように勝負事で決着をつくんだったら、諦めることもできる。勝ちさえすれば、どんな形であれ生き延びることが保証されるかもしれないんだ。失うものはなにもない。試してみる価値はある。
男は木の幹にしがみついたまま、顔を逸し、辺りの深い霧を見回した。太陽の光が空気中の水蒸気によって拡散しきらめいていた。男は死神を探した。背後をみると、己の影がキリのスクリーンに長々と伸びていて、その周囲を七色の金環が取り囲んでいた。死神は影の中に潜んでいたのだと男は気がついた。
男は死神に呼びかけた。勝負をしよう、勝ったら、俺を生き延びさせてくれ。負けたらいますぐに俺の命を奪ってくれ。死神は返事をしなかった。ただ男を見つめていた。
男は続けた。ここにはチェス盤もない。ビリヤード台もなければトランプもない。どうだ、ひとつジャンケンで決めようじゃないか。俺は右手で出すからお前も出してくれ。
返事はなかった。沈黙は肯定としてみなして、男はジャンケンを行った。死神はそっくり同じように、同じタイミングで、男の行動に応答した。
ジャンケン、ポン!
判別しづらかったが、あいこだった。
ジャンケン、ポン!
あいこだった。
ジャンケン、ポン!
あいこだった。
ジャンケン、ポン!
あいこだった。
ジャンケン、ポン…………
チクショウ! 男は叫んだ。どうしても俺を殺そうってのか。俺がなにをしたっていうんだ。どうして俺をすぐ殺さなかった。俺を苦しめて楽しんでいるのか、ええ、どうなんだ。なんとか言ってみろ、人間ごときの減らず口には返す言葉もございませんってか、お高く留まりやがって、たかが死神じゃねえか、動物でもできることをやっていい気になるんじゃねえまったく。そんなやつにどうして俺が苦しめられなきゃならねえんだッ。
いっそ身を投げてしまおうか。男は眼下の波に目を向けた。わざと海水を飲めばいい。それなら、どうせ死ぬ前に海中行けるところまで行ってみようか、深く潜り続けるのだ。きっと見たことのない、素晴らしい景色が広がっているに違いない。色とりどりの魚、見たことのない海中植物、途方もない大きさのクジラたち……男はそれらを思い描いた。しかし突然、空想の中にサメが登場した。男はパニックになって腕を振り、運悪く岩か何かにぶつけて肘を切ってしまう。するとサメが獲物と思ってよってくる。逃げるすべはない……生きたまま貪られることもありえる……
男は顔を振った。全身が寒かった。しっとり濡れていて、太陽の光を浴びているときの生暖かさなどはなかったが、男は孤独感を紛らわせたくてぎゅっと抱きしめた。硬い感触が虚しかった。
脳裏に父親が、男が子供のころから繰り返してきた言葉がよみがえった。
我々は神ではない。この生きものが存在する宇宙の様々な法則に無知だ。だから先のことがわからなければ、人の心もわからないし、時には自分のこともよくわからない。人間が一世紀を費やしても、明らかになることなど少ない。
だが人間の歴史を見ていれば、少なくとも一つだけ明らかな法則が発見できる。……因果応報だ……あらゆる結果には対応する原因がある。蝶の羽ばたきがハリケーンを呼ぶことだってあるんだ。我々はあまりに無知だから、それを偶然とか奇跡だとか呼んでいるに過ぎないんだよ。……
男は多くの子供達と同様に、肉親の言葉を大して重視せず、一人息子の素行への不満を婉曲に表現しているものだとばかり考えた。真面目に受け止めたことなどなかった。しかし今になって突然、頭の片隅に残っていた言葉が、黄金の輝きを放つように思われた。
なにがいけなかったのだろう。男は自分の人生を振り返り始めた。俺の苦しみには原因があるはずだ。いま苦しんでいることは、俺がこうして漂流しているからだ。漂流しているのは、ヤシの木が津波に奇跡的に耐えたからだ──きっとなにかの意志が働いていると父なら言うだろう──流されなさそうなヤシの木を選んで登ったのがそもそもの発端だろうか。いや、違う。津波があの街に来たからだ。……しかしそれは漂流の直接の原因のさらに手前であるような気がする。……
そうだ、俺は緊急地震警報を、たいしたことないものだと思って無視して、友達と遊び続けていたんだっけ……それで逃げるのが遅れたんだ。俺にはハーレー・ダビッドソンがついていた。逃げようと思えば逃げられたんだ。それを俺は、パニックになって無様に走り回り、そうだ、何かあったらヤシの木の上に避難しようと子供の頃に考えていたんだ……その考えどおりに逃げた。
忘却の彼方から過去が舞い戻り、それまでの人生、ただ起こる事態を受け止めるだけだった、散発的な、場当たり的な人生が急に有機的なつながりを獲得していった。男の中で、現在と過去が直接繋がった。因果応報を男は再発見した。
男は掌を重ね合わせ指を絡めた。そして額を木に押し当てるようにしながら目をつぶり、懺悔しはじめた。
私はこれまでひどい人生を送ってきました。若い頃は親に感謝せず遊び呆けました。悪いこともたくさんしました。犬もいじめました。子供もいじめました。犯罪だけはしませんでしたが、それに準ずることの多くはやってしまいました。年をとってからは周りに命じられるまま、人を苦しめることを行いました。……この苦しみは反省を促す試練なのでしょうか……どうか私に、試練を乗り越える力をお与えください……私は死にたくないのです。死にたくない……どうか助けをよこしてください。神様、どうかお願いします。
懺悔は途中から懇願へ変わった。かつてなら情けなさを味わったかもしれないが、もはや男にそんな心の余裕はなかった。男は背中にピッタリ取り憑いた死の冷たさにふるえていた。男はブツブツと口の中でお願いしますと繰り返し続けた。
そのうち瞼の裏でも感じられた光が失われた。空腹を我慢できなくなって目を開けた。すっかり陽は落ちていた。霧が晴れていた。背中の冷たさは薄れていた。男は重たい体に鞭打って木に登り、また一つヤシの実を落とした。慎重に行なったおかげで、わずかな大地の上に落とすことができた。今度も割れ目ができていた。昨日そうしたようにベルトのバックルで抉り、汁を啜った。渇きと空腹が癒やされた。皮を砕く元気はなかった。男は実を放り投げる目を閉じた。あっという間に、泥のように眠った。
翌朝の空はひどく曇っていて朝日も見えなかった。雨が降るかもしれなかった。そうなれば一巻の終わりだった。おそらく足場は崩れてしまうだろう。ヤシの木ひとつで何日も生存し続けられるとは思えない。男は憂鬱な気持ちのまま目をつむり、神に祈った。どうか私をお救いください。
もはや希望はなかったが、着火剤を作ろうと思い立った。男は木を見上げた。枝の付け根にはあと二つしか実が残っていなかった。もう少しあった気がしたが、寝ている間に風で落ちたりしたのかもしれない。そんなことなら昨日捨てるんじゃなかった。後の祭りだった。男はのそのそと木を登り、実を一つ落として砕いた。コツがつかめたおかげで、今日も汁をすすれそうだった。この日一日の食料としてチビチビ飲もうと男は決めた。男は神に感謝して、体感時間で数十分おきに一口のんだ。男はじっと助けを待った。
ほんの一時間がまるで何時間のように感じられた。一日は何世紀ものように長く感じられた。
漂流する孤島はその面積を日に日に減らしていき、いまや立つことがやっとだった。男はポケットを確かめた。ヤシの汁が終わったら、水を少しずつ飲まないといけない。それだけでも何日も生きられると聞く。我慢あるのみだ。高波さえ出なければ、お腹を壊さなければ、……神に祈りが通じれば、そのとき俺は。……
大好きだったハンバーガーの味が口いっぱいに広がった。化学調味料の豪快な味付けがたまらなく恋しくなった。男は歯を食いしばって欲望に耐えた。敗北は死に直結する。抗いがたい欲求に耐えるために、男は自分の太腿をつねった。それで耐えられなくなると殴った。何発も殴った。呻き声が絶えず口から漏れた。よだれのせいで水分を失い、結局、ヤシの汁をあっという間に飲み干してしまった。男は泣きそうになりながら、実を砕いて、内側のドロドロとした部分を舐めた。こんなもので命をつながなくてはいけない境遇がひどく苦しかった。着火剤を作ることは忘れてしまっていた。男はヤシの実の殻を海に放り捨ててしまった。どうしようもない絶望の中、あっという間に一日が過ぎていった。
眠れず、男はずっと目を開けたままでいた。夜の空は星に満ち溢れ、まるで七色に輝いているようにも思えた。この世のものとは思えない美しさだった。街にいる間は見れない風景だ。どうして俺はこれを見ているのだろう。男は考えた。これにもなにか理由があるはずだ。俺が無知なだけに気付いていないだけで、もしかしたらとんでもなく重要なものが隠れているのかもしれない。男は無数の星々が、いくつあるか一つ一つ数え上げた。そうすれば集中度が高まって観察できると思ったからだった。が、気がついたら男は眠りから目覚めていて、空は散り散りの雲があるだけだった。なにも覚えていなかった。男はなにか大切な発見を忘れたのではないかという、強迫観念じみた恐れを抱いた。
その日もまた、男は思索と探求に費やした。三日目、四日目と、男は木に凭れかかって、微動だにせず、ただ辺りの景色の変化に集中し続けた。なにも摂らなかった。波の高さの変化や潮騒の音程差、水平線付近であっても動くものがあったりしないか、周囲を漂う死体の数はどうか……目に見える世界は驚くほど密度の高い情報構造物だった。どれだけ五感を鋭敏にしようとも全体を一度に把握することなんてできなかった。スマートフォンの画面の向こうには広大な世界が存在していて、だからあっという間に時間がすぎるのだと思っていたが、現実は比べ物にならないほど広大で深遠だったのだ。男はこの事に気づかせてくれたのも神の思し召しだと考え、四日目の夜、感謝の祈りを捧げて眠りについた。神はまだ助けの遣いをよこさなかった。
五日目になった。空腹が耐え難く、ついに男は最後のヤシの実を食べることにした。男は敗北感に全身を浸しながら、彼は最後となる、つまらない食事を終えた。暖かい毛のごわごわした感触も、どろどろした食感も、舌先に感じた味気ない繊維質も、なにもかもが不愉快だった。そのすべてが欲望への敗北の味だった。……
幸運なことに、海は驚くほど穏やかな様子を保っていた。だから男の足場の侵食もほとんど起きていなかった。しかしそれは、救助船が一隻たりとも通らなかったことを意味していた。水だけで凌がなければいけないこれからを思い憂鬱になった。全身の不快感に襲われた。
男は海水で体を洗った。服をうまく木にかけて、自分は一旦海の中に身を浸した。冷たくもなく、暖かくもない水温のおかげで、体調を崩すことはないだろうと思われた。男は体の隅々を手で擦った。ぼうぼうに伸びた体毛に汗と老廃物が溜まっていた。男は顔を洗った。髭はもさもさして、毛の塊を触っているようだった。男は入念に洗った。心が入れ替わる気がした。
男の周囲を死体が漂っていた。数はいまや片手で数えられるほどになっていた。その状態はまちまちだった。あるものはほとんど白骨化していた。あるものは仰向けのままで、カラカラに乾いて、ミイラめいた様相をしていた。あるものはところどころが腐っていて、赤やピンク色の内臓や筋肉が晒されていた。ところどころぬらぬらしていた。しかしあるものは、ほとんど完璧な死体だった。死後そのまま、欠損がなかった。それはうつ伏せだったため、背面しか確認できなかったが、おそらく前面もそうだろうと男は理由もなく推測した。彼らは自然の成り行きに身を任せていた。物質の循環の中に、彼らは組み込まれている。男には無縁の世界に彼らはいた。
男は背を向け、戻ろうとした。ヤシの木は遠くに流れていこうとしていた。まだ距離はそう離れていなかった。男はゆっくり平泳ぎして近づいた。水の抵抗がほとんど感じられなかった。奇妙だった。男はひどく安心している自分を発見した。まるで無数に腕に包まれているような……男は心地よい引力を感じて、ハッと我に返った。島がまた遠くなっていた。
ヤシの木に掴まっていなければいけない。男はクロールして近づき、勢いをつけて島に上がった。いまやこの大地が命を保っていると男は気付いた。気化熱とは違う冷たさに、体をなんどもさすった。ボロ布同然のTシャツで全身を拭いて絞る。真っ赤な水が海へ落ちていった。男は驚いて顔を拭った。海は赤かった。しかも自分が通ってきた軌跡をなぞるようにして、赤く変色していた。花のような美しさと対照的な仄暗い紅色だった。
また幻覚を見ているのだ。男はきつくまぶたを閉じて、深呼吸を繰り返した。そして神に祈った。悪魔を我もとから去らせてください。私は生きていたいのです、神様……
生への執着の一方で、男は直感的に今日も救助は来ないだろうと考えた。果たしてその通りになった。
何世紀とも思える時間が彼の上を通り過ぎた。その時間の内部にいる間、男はこれが永続するように思えた。日は昇り、沈み、また昇った。海は全く変化がなかった。ずっと穏やかで、風がビュウと吹くこともなければ、鳥や魚が漂う死体をついばみに来ることもなかった。死体は片手で数えられるだけになった。かつての故郷の痕跡であった瓦礫はいつの間にか一つも見えなくなっていた。そして男はまた、多くの記憶を失った。海面を見なければ自分の顔すら思い出せなくなった。男は過去を完全に失ったのだと思った。
いま俺は、孤立した時間で、ただ一人生きている。なにともつながっていない。だれも俺が生きていることを知らない。死体や海は絶対的な法則の領域に属していて、生きものの世界には、ただ俺と、神だけがある。この恐ろしい沈黙こそが神の声なのだ。であれば、こんなにも海が穏やかであり続けるはずがなく、死体が腐らないまま何日も保たれることはない。男は残りわずかとなった水に口をつけながら、そう考えた。
神はいったい何を語ろうとしているのだろう。彼の問いかけに答えなければ、たとえ無事生き延びたところで、俺は満足な生を得られないだろう。男の心に、純粋な信仰心が芽生えていた。ただ生きていたいとだけ願っていた男に、崇高な使命感、神の与えた試練に応える”美しい”生き方を追い求める欲求が沸き起こっていた。飢えも渇きも、すべてが魂の欠乏に起因しているのだ。……
それが朦朧とした意識の誤認に基づく発想なのか、それとも本心から神を信じはじめるようになったことで生じた感覚なのか男にはわからなかった。とにかく応えなければならないと男は考えた。男は目をひらき、耳を澄まし、ときおり鼻を鳴らして辺りの匂いを嗅いだりした。男は海水に指で触れることもしてみた。脈絡もなく大声を上げて、それで海がどう応えるかも試してみた。すべてが流れ行く時間の中溶けていった。彼の行動の痕跡は今や彼が存在を確信した神だけが目撃していた。神は男が虚無感と無力感にとらわれることも目撃していただろう。そして自分は助かりっこない、たとえ助かったとしても死人のように生き続けることだろうと考えるように成っていることも知っていただろう。だが神はなにも応えなかった。
なんの変化も起こさないまま、漂う死体は男の旅路についてきた。みな海の静寂に流されていった。どこまでも続く青色……大地の影も見えない。雲ひとつない晴天が続いた。世界が静止したかのようにも思われた。もはや空も海も区別がつかなかった。波がなければ、漂流の事実すら忘れてしまいそうだった。
死んだあと、俺はどこに行くのだろう。男は自分の行き先を考えた。消えてしまうのだろうか。男は無を想像した。あらゆるものが存在しない次元、そこには俺という存在も消えてしまうだろう。では、死後も俺という存在が続くとしたらどうだろう。男は肉体から脱皮するようにして自己を認識するなにか、俺というものが抜け出す様子を想像した。これが魂だとしたら、神様に導かれて天国へ行くのだろうか。あっという間に着くだろうか。それとも長い旅を経て天国へたどり着くのだろうか。……
いつまでたっても答えは出なかった。
救助船がこないまま、ついに水が尽きた。それからさらに二日が過ぎ、ついに男の意識は限界を迎えようとしていた。
もはや立っていなくては意識を失いそうだった。だが立っているだけでも倒れてしまいそうだった。意識を保つだけで精一杯だった。
太陽にさらされつづけた肌はあちこちで火膨れが起こり、耐え難い痛みを男に与え続けていた。そして長く真水を得られなかったヤシの木も、男の生命力の減衰に足並みをそろえるように、日に日に力を失っていった。ぴんと張っていたヤシの枝は垂れ下がり、幹のうろこは渇いてひび割れた。多少動いてもびくともしなかった大地は、穏やかな海面の上下にあわせて振動した。そのたびにパラパラと土が剥がれて海に落ちた。死がこの島に訪れようとしていた。島にはもう、男が立てるだけの土地しか残されていない。
男は、今日が最後の日になると覚悟した。ひどく虚しかった。目の前に死が迫っているというのに、疲弊した心は恐れることも怯えることもできなかった。だが最後だと思うと、破れかぶれながら、足掻いてみたいと思えた。男は膨大な時間の中から、自分の誤りを見つけ出そうとした。
無知が真実への盲目を導いている。
男は今まで目を向けてこなかったことはなにか考えた。漂流してきた、あまりにも長い時間のすべてを思い出すことは不可能だった。だが断片的な記憶、そのときの自分の思考、着目点をひとつひとつ確認していった末、頭の中にはないと悟った。
男は瞬きして、ぼやけた世界に目を凝らした。視界の中にあった死体が、突然、単なる物質ではなくなった。男はそれらに意味を見出した。死の領域、絶対的な世界に属していたものが変動する生の世界に接近した。
彼らの魂は救われただろうか。男はいままで自分のためだけに祈り、他人のために祈らなかったことに気づき、恥じた。生きることばかりを考えて、死を悼むことや、死に向き合うことをしてこなかった。死とは自分だけのものではない。男は実感できていなかった。個別の死は死の一側面にすぎない。他人の死、無関係な無数の死も、自分に密接に関係しているのだ。
男は自分が拒絶した、先祖や家族を乗せた船のことを思い出した。いつの間にか消えていった無数の死体を思い出した。死体を貪った鳥や魚を思い出した。彼の故郷で、路上に溢れかえった野犬や猫、牛のこと、森の奥で暮らす象や猿のことを思い出した。彼らすべてが生きていた。そして死を迎える。彼ら皆が循環に組み込まれる。
生きるためには死に向き合わないといけない。死んだもの、死のうとするもののために祈らなければいけない。そのためには死者をよく知らなければならない。
男は考えた。彼らを俺と隔てるものはなんだろう?
男は足元の大地を見た。無名の大地──あらゆるものから切り離されたものは、はたして生の領土と言えるだろうか。生き物の世界は循環の法則によって無数のつながりにがんじがらめにされている。だがこの大地は違う。流れ、漂ってきた。つながりを持たないまま、それ一つで存在している。世界はここで完結している。そして特定の位置に定まることがない。位置を指定されず、かつ、循環の法則もない。……だがここは死の領土とも言えない。これはヤシの根に絡みついてきた土塊である。無数の微生物、昆虫の死骸をその内に発見することもできるだろう。だが意味を完全に失っていない。これがなくては男は立っていられなかったし、ヤシの木はもっとはやく倒れてしまっていた。この大地が生を保っていた。ここは生と死の領土が混濁している。
俺は自分の名前を思い出せない。男は自分の身を振り返った。俺を世界に指定する座標は、かすかな記憶だけだ。その記憶も抽象的だ──男は父親の名前も、母親の名前も思い出せなかった──男は自分の肉体を見た。俺はこの肉体だけで存在している。だが生きている。生きるためにヤシの実を食べた。この土の上で生きた。俺もまた、死と生の混濁物だ。……
男は漂う死体を見た。偶然、次のような順番で視界に入った。欠損のない死体、肉をついばまれた死体、乾いて骨と皮だけになった死体、肉体をほとんど失い骨だけになった死体──男は五番目の死体を発見した。それは目に見えなかった。完璧な死体だった。すべてが原子や分子……純粋な物質に還元されていた。肉体はこのようにして滅びる。
それらがすべて、同一人物の死体であることに、男は突然気がついた。天啓が降りた。
彼は自分が死んだことにすら気づかなかった。神はそれを憐れんだ。その死体は死について、生きることについて、なにも考えないままに人生を終えてしまったからだ。だから猶予を与えたのだ。苦しみは彼の刹那的な、思考停止した生き方の報いだった。……
男は自分の体に視線を戻した。あらゆる傷、怪我のたぐいがその肌の上から消え去っていた。しかし男はそれがただの皮であり、肉であり、骨であり、物質が結合したものにすぎず、執着する価値もないものだと感じた。男は、これが肉体なのだと悟った。人は死を経て生者の世界から死者の世界へと足を踏み入れる。だがそれは単純な変形を意味するだけだ。無ではない──存在は連続する。生も死も表裏一体なのだ。生は肉体という船で行う、不完全な死体から完全な死体に変形するまでの旅だ。それが終われば、不完全な死者から完全な死者に変化する旅が始まる。死は始まりだ。きっとその先にも異なる旅が始まるだろう。そのたびに自己は変形する。
果てはあるかもしれないし、ないかもしれない。純粋ななにかへと変形したら、天国の門をくぐり抜けるのかもしれない。もしかしたら始まりが忘却されて、影が対象なくして存在できないように、終わりも忘却されてしまうかもしれない。そして果てしない循環の要素となるかもしれない。――だがどちらにせよ、永遠が訪れるだろう。
男から、死への不安や恐れが消え去った。男はスッキリした気分で、確信を得た。
俺はもう、とっくに死んでいたのだ。
男は死を受け入れた。男は空を見上げた。静かに燃える太陽の、生成と消滅を思った。男は神に祈り始めた。自分のために、自分に接続したすべての死者のために祈り始めた。
音もなく、男の足元の大地が崩れた。ヤシの木が倒れていった。男は海の中へ沈んでいった。冷たくもなく、暖かくもなく、穏やかな海へ──彼を無数の手が迎えた。彼の先祖や家族、恋人もそこにいた。男は祈り続けた。
男は、完全な死者へと変形した。そして海に、穏やかな海──太陽が昇り、沈み、また昇る、無限大の循環に、男は溶け去っていった。そして安らかな永遠が残された。
存在と永遠 犬井作 @TsukuruInui
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