第十四章 星降る夜と光願う空

 ガラス越しに落ちる日差しが今日も絨毯を照らしている。

 暖房を使うようになって久しいけれど、駅からの道もそれほど寒くはなかった。天気予報も、もう12月に入ったというのに雪だるまの気配がない。それどころかこうして、柔らかな太陽のあたたかさを浴びていると、もうラジオの時間でもないのにうとうとと眠気がやってくる。

 いつもの書斎、いつものように水曜日。今日もサリエリ先生と一緒にクラシック番組を聴いて、日が暮れるまではのんびり時間を過ごしている。週に一度程度の習慣だとしてももう半年の時が経っていた。おかげで当初の『音楽の成績』どころか学校に通う意欲まで取り戻したのだから、機会をくれたおじいちゃんとおばあちゃんにはちゃんとお礼をしないといけない。そういえば二人はこの年末年始には帰ってくるのかな。絵葉書が届いたのは十月の終わりが最後。奏くんには連絡が来ているのかもしれないけれど。


「そうだ、今日は相談に来たんですよ」

 カバンの一番上に入れておいた大判の紙を、教科書やノートを掻き分けてテーブルの上に広げる。BGM代わりに流していたクラシックCDから意識を離して、先生が私の元にやってくる。たちまち目の輝きが変わった。漢字や英語がいまいちでも、散りばめられた写真を見れば何か分かったらしい。

「これはまさか」

「近所の洋菓子店のクリスマスのチラシです。どれがいいですか?」

 クリスマスのときに買ってくるので選んでくださいね、と勧めれば、予想通り目移りしながら、

「うわぁ迷うなあ。これはブッシュ・ド・ノエルだね、こっちはシュトーレン?」

「イチゴの大きなクリスマス限定ケーキもありますよ。あ、でも、どれかひとつにしてくださいね?」

「それはまあ、仕方ないだろう。なにせ僕はご馳走になる側だからね、贅沢は言えない」


 そう頷きながらも、どうも一つに絞り切れない様子でうんうんと唸っている。

 でもこればかりは仕方ない。そうでなくても実際に食べるのは私だ、二つ買ったとしても全部食べ切れないだろうから、量の面でもひとつに絞るしかない。

「あとは、いつもお世話になっているから奏くんにお裾分けしないと」

「そうか、それだ。カナデも巻きこも、呼ぼうじゃないか。それで、彼にもひとつ買ってきてもらうというのは」

「私はいいですけど、説得は先生が頑張ってくださいね」

 あまりの迫力に思わず苦笑する。ますます真剣になる眼差しと、任せなさい、と力強く頷く横顔。

 これでまた、少し先の楽しみがひとつ増えた。これを支えにしてまた一週間、次の水曜日までの原動力にすることができる。


 結局その夜に携帯電話にメールが来て、私はシュトーレン、奏くんはクグロフで持ち回りは決定したと分かった。

 きっと、この二つに絞るにもだいぶ時間を費やしたんだろうと思うとまたほほえましい気持ちになった。



 それから二週間と五日。

 十二月二十四日、月曜日、午後二時。学校はお休みだから堂々と尋ねた祖父の家。到着すれば既に書斎は暖房が入っていて、無理を言って飾ったクリスマスツリーと、どうやら出してくれていたらしいお茶の一式。階段の踊り場の時点から大喜びで出迎えてくれたサリエリ先生、賑やかな様子に聞きつけて部屋に入ってくる奏くん。これでささやかなクリスマスパーティーの準備が全て揃ったことになる。


「二人とも、いらっしゃい。Buon natale」

「お招きいただきありがとうございまーす」

 なんて、わざと陽気な口振りで椅子に座る奏くん。先生にせがまれていた通りに洋菓子店のケーキの箱を開きながら、

「いやあホントに。幸いにもフリーだもんでね、プレゼントを送る必要のある相手がいなくて助かった助かった」

 笑いながらどこか遠い目をしている気がするのは、触れないほうがいいんだろう、きっと。

「でも俺、夕方からはバイトだからそれまでだよ。杏奈ちゃんも駅まで送るからね」

「ありがとう」


 12月にもなれば日没は早い。一年で一番夜が長いという冬至は過ぎたばかり。時間は同じでも車道と歩道の境目が分からなくなるし、何より陽が落ちたあとは気温もぐんと下がってしまう。そうなるとあまり長く居られなくなるので、少し残念ではある。

 けれど、冬は嫌いじゃなかった。しんと静まった冬の空気も、冷たい風も、なによりたどり着いた部屋のあたたかさが好き。

 それに、こうしてクリスマスのお菓子に囲まれるのも。


「そういえばさっき言ってたのって、どういう意味ですか。ボン、なんとかって」

 書斎に入ったときの、先生が口にした挨拶を初めて聞いた気がしたので尋ねてみる。

「Buon nataleかな? あれは僕の国の言葉で、良い降誕祭を過ごしてねって意味だよ。この国ではnataleのことを英語でクリスマスと言うんだね」

「ということは、メリークリスマスと同じ感じかな」

「そうだ、そういえばじいちゃんたちからクリスマスカードが届いてたよ」

 奏くんがテーブルの上に封筒を出した。中から出てきたのはメッセージカードと写真が一枚。

「へえ、今はウィーンか。向こうは寒いだろうね」

「ウィーンは、先生が暮らしていた街ですね」

 先生に話を振ればその正面で奏くんが、なるほどねぇと頷いた。

「だいぶ詳しくなったね、杏奈ちゃん」

「そう、かな」

「確かに、ここに通うようになった頃は全然だったからね」

「お菓子のことだって結構詳しいんですよ。例えば、このシュトーレンもクグロフもドイツで親しまれているクリスマスの食べ物で、特にクグロフはフランス王妃マリー・アントワネットが好きだったとか」

「ああ、なるほど、それでこのチョイスだったの、サリー先生?」

「いやそれは、純粋に美味しそうだったから……」

 言わなくても分かっているだろうと言わんばかりに、何気なく目をそらしている。

 重度の甘いもの好きなのはこの半年でいやというほど知ったので、今更先生の行動原理が甘味と音楽で構成されていることを疑問に思うことはない。これは推測だけれど、好きなもの以外を考えずに済むようになった今だからこそ加速しているのかもしれない。


 ラジオから流れるクリスマス企画の音楽番組を聴きながら、シュトーレンは日に日に果物やナッツの味が浸透していくのが美味しいとか、この曲は今の日本でも親しまれているんだねとか、先生の過去の話も今の話も、それこそシュトーレンのように馴染んで味わって、少しずつ日が暮れていく。

 クリスマスだからといってとりたてて何をするでもない、ただのんびりとした時間。けれどこれが降誕祭の正しい過ごし方なのだと先生が笑った。

「今となっては、アンナとカナデが僕の家族のようなものだからね」

「あれ、同居人の俺より杏奈ちゃんのほうが順位は上なの?」

「君はもう少し生活を規則的に整える所から始めた方がいいと思うぞ」

 お陰でアンナのほうが顔を合わせている時間が長い、と何度も頷いている。

「それに丁度、いい頃合いだろう」

「あれ、もうこんな時間」

 薄く引いたレースカーテンの向こうに目をやれば、もう薄暗がりの中に輪郭を馴染ませようとしていた。

 やっぱり日没が早く、夜が長い。名残惜しいのは仕方ないけれど、お行儀よく席を立つことにする。


「今夜はちゃんとあったかくして寝るんだよ」

「はい。残りのシュトーレンは今度の水曜日に食べましょう」

「いいね、楽しみがひとつ増えるようだ」

 そう言って嬉しそうに笑う、幽霊だなんて忘れてしまいそうな穏やかな笑顔。

 コートを来てマフラーを巻いて玄関に下りる。書斎を見上げれば目が合って、先生が手を振ってくれる。

 それにすこし声を張って、

「じゃあまた水曜日に……じゃなくて」

 しんとした空気の上に、柔らかく白い息がふわふわと拡がった。

 屋根越しに強く一番星が輝いていた。

「ヴォン・ナターレ!」

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はじめに音楽、次にお菓子 朝斗 @Asatoiro

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