星のある部屋
大惨事苦労
星のある部屋
これは去年の夏の出来事だ。
Y市M区のアパートの101号室で一人暮らしをしていた私は、担当していた案件が一区切り終えたこともあり、溜まっていた代休を消化していたところだった。
裁量労働権を伴わない裁量労働制のまかり通る、完全に真っ黒な会社なのだが、代休取得に関してだけは有情だ。
ようやくの休日。有効に活用しない手はない。
私は劣悪な労働環境からの脱出を図ろうと、様々な企業の情報収集、経歴書の作成、志望動機のでっち上げに、この大型連休を費やそうと考えていた。
だが、まあ。
最初の一日ぐらいは、遊んだっていいじゃない。
仕事用のPCを投げ捨て、ゲーム機と接続された大型モニターを代わりにセットアップ。
電源よし。ゲームディスクよし。ネットワークコネクション、オールグリーン。システムアップデート、コンプリート……。
夕飯を適当に済ませた私は、自然な流れで宴に突入した。
午前2時を過ぎた頃。
プレイしていた対戦ゲームでこっぴどくやられ、コントローラーを投げ捨てようとした瞬間、
コンッ
玄関の戸を、何かが一度だけ軽く叩いたような音がした。
私は、慌ててゲームの音量を下げ、暫し逡巡する。灯りに惹かれたカナブンが扉をノックすることも珍しいことではないからだ。
ゲームの音量に対する苦情だろうか。ならば、もう一度ノックされるか、インターホンを使うだろう――
私は、息をひそめて扉を凝視し、もし苦情であったならすぐに飛び出していけるよう、上着の位置を確認する。
深夜の来訪者は果たして、カナブンか、苦情を言いに来た隣人か。
だが、もしも――
もし、どちらでもなかったなら……――
少し待った。
だが、扉の向こう側からは虫の羽音ひとつ聞こえてこない。
“風”とか、”気圧の変化”ということもあるか――
そう判断した私は、恐る恐る扉に近づき、覗き窓から外の様子を伺うことにしたのだが、やはり異変は見当たらない。
私はほっと胸を撫で下ろし、ゲームを再開しようとして、
ガチャリ
何者かがドアノブを捻った。
隣室でも、上階でもない。間違いなく、私の部屋のドアノブ。
先ほどまで思い浮かべていた第一、第二の可能性は頭の中から吹き飛び、あってはならぬ第三の可能性が膨れ上がって思考を埋め尽くしていた。
「どなたァ!?」
たっぷり裏返った声で叫びながら扉へと駆け寄ったが、反応はない。
確実に存在する深夜の来訪者――
私は、なけなしの勇気を振り絞り、覗き窓から外を伺おうとして。
ふと、視線を感じた。
いや、もしかすると、無意識のうちに視界の端で”それ”を捉えていたのかもしれない。
すぐ左側の小窓。その向こう側。
肌色の影が、べったりとそこにへばりついていた。
すりガラス越しなので、互いに”人影”という形でしか認識できなかったことだろう。
だが、その時、たしかに感じた。
その息遣いを、その視線を、たしかに。
私は叫び、手に持っていたゲーム機のコントローラーを咄嗟に小窓へ投げつけていた。
もし割ってしまっていたらと思うとゾッとするが……さすがに驚いたのだろう。
人影はサッと小窓から遠ざかっていった。
私はというと、遠ざかってゆく足音が聞こえなくなるまで身を硬くしていることしか出来なかった。
通報後、僅か数分後には警官2名が駆けつけてくれた。アパートの付近に交番があるお陰だろう。
聴取はだいたい15分程度。
ひとまず重点的に見回りを行い、付近のパトロールを強化するということで警官たちは立ち去ろうとしたのだが、すぐにまた別の警官が現れた。
ひそひそと短くやりとりした後、彼らのうちの一人が私に向き直り、
「なんか、その人見つかったっぽいよ」
だが、どうやらまともに会話出来るような状態ではないらしい。
状況は明日以降、電話で伝えるということで、警官たちは足早に去っていった。
翌日、警察から謎の来訪者の素性について電話があった。
僅か数十メートル先にある公園で職質された男が、住居侵入の容疑を認めているらしい。
名前や年齢を聞かされたが、知らない名前の男だった。
だが、驚くことに、私と彼との間には、ちょっとした接点があるらしい。
『彼、以前その部屋に入居していたみたいで……』
警官によると、彼は仕事で精神を病んでしまい、家賃を何か月も滞納した結果、強制退去を言い渡されていたようだ。
今も情緒が不安定らしく、
『聴取には素直に応じていましたよ。ただ……』
『”星を数えないと”って、少しでも会話が途切れると、うわごとのように繰り返すんですよね……』
結局、それ以上は何もわからず、私の出る幕もなかった。
警察とのやりとりはアパートの管理者が全て行い、男は厳重注意と罰金刑を受けた上で、地方に住む男の親族に引き取られたらしい。
“星を数えないと”
一応の解決。
だが、男がぼやいていたという言葉を妙に薄気味悪く感じてしまった私は、すぐに引っ越しを決意した。
結局、”星”とは何のことだったのか。
彼は、この何の変哲もない居室の天井に、星空を見出したとでもいうのだろうか――
そんなことを考えながら、部屋の掃除を進めていた時のことだ。
入居した時から置かれていた丸時計も綺麗にしておこうと、壁から取り外した私は、
「あっ……」
思わず声を上げていた。
"星"だ。
時計の裏側に、ひとつだけ。
手のひら程度の大きさの五芒星が、黒いインクで描かれている。
数えていたというのなら、ひとつではあるまい。
そう考えた私はすぐに、部屋中を隅々までひっくり返して"星"を探したのだが、結局のところ”星”はあれ以外ひとつも見つからず、私は漠然とした疑念を抱えたまま、新居へ移ることとなった。
“星を数えないと”
心を病んだ男の言葉や思考について、推測したところで無意味だろうか。
だが、どうしても。
新居に移った後も、あの時に見た五芒星が、不自然なまでの明瞭さで頭の中に焼き付いて離れない。
ああ、星を数えないと。
……などという気分には、流石にならないが。
後日、何故かご立腹の大家から電話があった。
壁に穴が空いているので、修繕費を請求したいというのだが、まるで覚えがない。
『床に置かれたままの時計……あれを外す時、変に引っ張ったでしょ』
『壁がえぐりとられているのよ』
星のある部屋 大惨事苦労 @Daisanji_Kuro
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