第3話その参《悠祈 誠那》

 数十分、或いは数分かもしれない。汽車は鈍い音を伴って動きを止める。窓の向こうに見えるのは、遥か地平線まで続く壮大な蒼だった。


「到着いたしました。では行きま――」

「――」


 私は山猫が言い終わるのを待たずに立ち上がった。視界に入ったものに引き寄せらるように歩き出す。


 切り立った崖に、その存在感を示し直立する墓石。


 私は山猫に何も返さず汽車から飛び降りる。

 転びそうになるのを懸命に堪えて、私はひたすらに走る。


 さざなみが崖にぶつかり飛沫しぶきを散らす。その音が、私の心の乱れにも聞こえて、酷く焦燥に駆られた。


 目の前には名前の彫られていない墓石。

 誰のものかなんて、ここに誰が埋められているかなんて、わからない。分からない、はずなのに――


「――っ、あれ……? おかしいな、なんで、どうして――」


 目から涙が溢れて止まない。

 拭っても拭っても、視界が歪み、目から雫が零れ落ちる。


 この涙の理由は分からない。知らない。おかしい。どうしてこんなにも胸が苦しいのだろうか。どうしてこんなに息が詰まるのだろうか。


 そこで私は気づく。供えられた花の許に紙が――おそらくは手紙があることに。

 私は申し訳ないと思いながらもその手紙を手に取った。


「――っ!?」


 宛名を見て私は思わず息を呑む。


『五月雨安様へ――』


 そう、書かれていた。

 私は食い入るようにその手紙を読み始める――









 6/6


 銃声が鳴り響く。鼓膜を裂くような炸裂音に曝され続けて、頭がおかしくなりそうだ。

 僕が今正気を保てているのはキミのおかげだ。キミが帰りを待っている。それだけが僕の全てだ。

 心配をかけてごめん。必ず帰るから。

 でも、本当についてない。ドイツ留学と開戦が重なるなんて。

 ドイツ軍は奮闘を続けているから問題ない。絶対無事にキミの許へ帰るから。どうか待っていてほしい。


 留学の方は凄く良かった。来てよかった、そう思えたよ。日本ひのもとにいたら学べなかっただろうことをたくさん学べた。

 新しい発見がたくさんあって、とてもいい刺激になった。


 キミは元気にやってますか?

 僕がいないから、生活に苦しんでいるかもしれない。本当に申し訳なく思う。でも、僕を笑顔で送り出してくれたことが、僕はとても嬉しかった。あの時の笑顔を忘れやしない。

 キミにはいつも迷惑をかける。本当にごめん。そして、ありがとう。

 すぐに帰るから。どうか待っていてください。











 6/10


 ごめん。暫く帰れそうにない。本当にごめん。乗る予定だった船が連合軍によって沈められてしまったんだ。

 日本まで帰る船がなくなってしまった。だから、暫く帰れそうにない。この手紙が届くのも、もっと後になっているかもしれない。

 心配をかけてごめん。でも、必ず帰るから。


 戦は順調みたいだ。ドイツ軍は強いから、心配ないよ。日本の同盟国だ。負けるはずがない。でも、ずっと銃声が響いて止まないんだ。その音があまりにも近い気がして、少し不安だ。

 ごめん。こんなこと言ったら余計キミを不安にさせてしまうね。


 こっちの空は、日本と何も変わらない。澄んだ蒼がどこまでも続いている。そう言えばこの間、生まれて初めて金床雲を見た。夕日に照らされてとても綺麗だった。キミにも見せたかったな。


 ――キミに会いたい。











 6/28


 シェルブールが陥落したらしい。僕のいるところの近隣だ。どうしよう。僕はまだ死にたくない。死にたくない。もう一度キミに会いたい。キミの笑顔を見たい。キミの温もりを感じたい。

 大好きだ。愛してる。会いたい。キミに会いたい。


 銃声がどんどん近くなっているんだ。一昨日よりも昨日。昨日よりも今日。どんどん大きく、激しくなっていく。すぐそこにチェコの針鼠が見えるんだ。こんなところまで、ドイツ軍は後退してるんだ。

 どうして僕はここにいなければならないのだろう。日本から来ているだけだ。もっと安全な場所へ避難させてくれてもいいじゃないか。でも、言っても聞き届けられなかった。

 僕はここで死ぬのだろうか。


 嫌だ。死にたくない。











 7/8


 シェルブールまで陥落した。もう終わりだ。勝ち目があるとは思えない。こんなことを書いているのをドイツ軍にばれたら、即処刑だろう。でも、構わない。どうせここで死ぬんだから。生きて帰れるわけがない。

 ごめんよ。生きて、もう一度キミに会いたかった。キミを幸せにするって誓ったのに、守れそうにないよ。ごめん。絶対にキミのことは忘れない。死んでも忘れない。生まれ変わって、またキミに会いに行く。

 キミに出会えて、本当に幸せだった。ありがとう。さようなら。











 最後の一枚は写真だった。その写真に写っていたのは一人の男性と、一人の女性。

 そこに写る人物を見て、私の思考は停止した。何故なら――


 ――汽車に乗ってきた女性だったから


 何故? どうしてあの女性が写っている?


「途中で汽車に乗ってきた女性は、五月雨安様です」

「えっ?」


 振り返るとそこには山猫がいた。山猫は少しずつ墓石に近寄りながら続けた。


「その手紙は、安様の夫が、ノルマンディーで書かれたものです。ノルマンディー上陸作戦に巻き込まれ、その命を散らすまで。彼が安様を想い、書いたものです」

「……どうして、私はここにいるの?」

「安様だからです。彼女も、あなたも、同一人物だからです」

「……?」

「世界とは不思議なものです。生まれ変わってなお、同じ名前を与えられる」

「――っ!?」

「あなたは、そこに写る五月雨安の生まれ変わりなのです。そして、彼もまた……。小生の言葉を覚えておいでですか?」

「……?」


 それだけではどの言葉を指しているのか、分からない。私は山猫の言葉を待つ。


「『お客様のご要望を叶える手伝いを、できる限り致します』小生はそう言いました。叶えるとは言っておりません」

「ええ。そうですね」

「安様が、彼に会うために、前世の記憶は不可欠なもの。人間は生まれ変わりながら成長するものであります故」


 でも、私には今何処に彼がいるのか分からない。だから、会いたいと願ったのに――。


「違いますよ、安様。女性から会いに行っては、男の立つ瀬がありません。彼が、安様に会いに来てくれる。だから、安様はあの思い出の場所で待っていればよいのです。彼の帰りを。前世の安様たちが叶えられなかった逢瀬を」


 私は手に持っていた手紙を、そっと、丁寧に元に戻す。いろいろ思うところはあるけれど。今はそんなのどうでもいい。


「帰るには、どうしたらいいですか?」

「空に向かって、願ってください」


 何を、と山猫は言わなかった。でも、私は何を願えばいいのか、すぐに分かった。

 空を見上げ、瞼を下ろし、空に願う――




目を開けると、私はベッドに仰向けに寝ていた。顔を傾けると、机の上にはパソコンと、それに繋がれたヘッドフォン。その向かいにはぎっしりと本の詰まった本棚。枕元には呑みかけのお茶。窓の外には見慣れた配線と、二羽の雀。ここは間違いなく私の部屋だった。



 私は立ち上がり、財布を手に取る。そのまま部屋を出て、階段を駆け下りる。玄関で靴を履き、家を飛び出す。









 なぁに。目指すべきは決まってる――

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リレー小説 小雪杏 @koyuki-anzu

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