第2話その弐《小雪 杏》
どうか、私をあの人が居る場所に連れてって――。
目を閉じ、あの人の柔らかな音を想う。
空に華が咲いたあの日、どうしても伝えたい想いがあった。
時を止めたような映像が脳裏を過る。汽車の騒音が空の華と混じり合い、滲むように溶け込んでいく。
嗚呼、時間よ止まらないで。消えていかないで……。
私の想い浮かべる映像はいつも止まっている。いつも、崩れて終わる。
汽車は竹やぶ道を進む。登る。遥か彼方へ飛んでいく。
――ガシャガシャガシャ
と鈍い金属音が、水蒸気の力で歪みを生んでいく。蒸気の匂い、木の匂い、古い座席の匂い……。どれもこれもが私と一緒に空に溶け込む。
さっきまでいた竹やぶが遠のく。街灯が細やかになり、星になって散ってゆく。
アイスが溶けるように夢は終わる。それは、甘くて冷たくて、本当にアイスのような夢。
いつまで経ってもこの夢は、夢だけは、しっかり動いてくれる。味を伝えてくれる。匂いを届けてくれる。
幼い頃のある夏の日。私たちは近所のコンビニにアイスを買いに走っていた。
「コンビニまで競争ね」
「またかよ、いっつもそーじゃん」
いつものように二人で遊ぶ。やんちゃな私は、腕や足と至るところに擦りむいた傷ができている。
彼にも傷が多い。でも、彼は私と違ってやんちゃというわけじゃない。
その傷は、彼がわたしを守ってくれた証だ。木から落ちそうになった時も、自転車で転けそうになったときも、彼が守ってくれた。
いつも迷惑をかけてばっかだ。でも、なんかそれがいい。迷惑とわかっていても、嫌な顔をしていても、いつも傷だらけな彼は傍に居てくれた。
溶けて滲んでいく紅に、私たちは笑い合った。いつだって笑い合った。
走馬灯のように映像がコマ送りになっていく。その都度、彼の身体の傷は増えてゆく。
時が経ち、滲んだ紅が消えても、私の胸の想いは色褪せてなどいなかった。
雫が頬を伝う感覚に、目が覚める。
汽車は何処かわからない草原を走っていた。
どうやら、眠ってしまっていたらしい。
不意に違和感を覚える。
「静か……」
窓から外を見下ろせば、汽車が走っているのは間違いない。だけど、まったく音が聞こえない。
窓を開け、吹き込む風にレースが翻る。それでも音は聞こえない。
「どうしたんだろう……」
――時が死んだかのような静謐。
――雲のない空。
「まだ、夢から覚めてないの……?」
そう思った矢先、床を鳴らす音が近づいて来た。
さっきの山猫かな?
違った。立て付けの良くない木製の引き戸を開け、こちらを伺ったのは、ケープコートを羽織り、レトロなトランクを提げた女性であった。
「ご一緒してもよろしくて?」
そう言う女性に会釈を返し、前の席を促す。
女性のファションは少し昔を連想させる。
少し昔と言っても、おそらく1900年初頭くらいだろう。そんな感じの雰囲気だ。
そして、どことなく畳のような包のある匂いが漂ってくる。
どうしてだろう。その女性を見ていると和室に居るような気分になってくる。
そんなことを思っていると、女性が声をかけてきた。
「あなたはどちらまで?」
開口一番その言葉が出てくるということは、この状況を私より理解しているようだ。
「わからないです……ただ、会いたい人がいるんです」
「そうですか。お疲れではありませんか?」
女性はそう言い、ケープのポケットに手を入れた。
「よろしければ、どうぞ」
「チョコレート、ですか?」
差し出された掌の上には、二つのチョコレートがあった。
「甘いものは心を落ち着かせますので」
受け取る義理もなければ、断る義理もない、どうしたものかと考え、女性の顔を伺う。
前髪から除く色素の薄い瞳は、純粋に私を見つめていた。
悪い人ではなさそうだ。
「いただきます……」
「どうぞ」
私は外の景色を眺める。暫しの間、静寂が場を満たす。それは決して不快ではなかった。
「実は私、ある人に会いに行くのです」
「えっ」
その静寂を破って、窓から差し込む日輪に照らされた唇は、そう囁いた。
「会いたい人がいるんです」
「……?」
女性の口元だけが見える。それだけで解った。
女性は外の景色をぼんやりと見つめ、黄昏れる。
「夫です。……戦争で亡くなったのです」
戦争? どうやら、この世界は私の思っている以上に不可思議な場所ならしい。
「そう、なんですか」
「ええ。夫はノルマンディーの方で亡くなったのです」
おそらくノルマンディー上陸作戦の事だろう。多くの若者が徴兵され亡くなったそうだ。何も知らないのに、この場でお悔やみ申し上げてもいいのか分からず、私は閉口する。
「…………」
「夫は優しい人でした。困っている人や落ち込んでいる人を見つけると、直ぐに駆け寄って助けるような正義感の強い人でした。私もそんなあの人に、いつも助けられてばかりで――喧嘩も多くしましたが、いつも傍に居てくれて……。やんちゃだった私は、いつもどこかに擦り傷をつくり、その度に、あのひとにおこられて……」
だんだんと女性の声が潤っていく。
「気づけば、あのひとは私よりもきずだらけで…………」
顎の先を伝う雫は、どことなく私のと同じ匂いがした。
ああ、きっとこの人も私と一緒なんだ。私と同じ過去を、同じ後悔を背負っているんだ……。
女性は湿ったシルクを再度目尻に当て儚げに微笑む。
「どうやら私は、ここまでみたいですね」
「えっ」
女性がそう言うと、汽車は揺れ、蒸気を吐き出す。
「結局また、最後まで行けませんでしたね……」
また……?
「それでは、私はここで失礼させて貰います」
そう言って立ち上がった女性は、トランクと畳の匂いを連れて出ていった。
外は草原。
不意に覚えた違和感。それのとき既に、私は客室を飛び出し乗降口に走っていた。緑の絨毯の広がる景色、そこには先の女性と山猫がいた。
女性を見上げる山猫。
風になびく女性の髪。
「それでは、私はこれで」
「いいのですか? ほんとうに」
「またいつか、私が思い出した時に呼んでくださいね」
「私共はそれで良いのですが、このような事を繰り返していたら、貴方はいつか――」
「いいんです。……それでは失礼しますね」
風が吹き荒ぶ草原を、トランクを提げた女性が丘の向こうへと消えてゆく。
「本当に良かったのでしょうか、――っ! 聞いてらしたんですか?」
「あの女性は何回もここへ?」
「……ええ。それは数え切れない程に……」
「どうして?」
「それは、私めにもわかりません……あの女性曰く、記憶が失くなっていくのが怖いと、以前仰っていました」
「私もいつかはああなるの?」
「それはわかりませんし、教える事もできません。
あの日の記憶も、いつかは消えてしまうのだろうか……。そうなった時、私はあの女性みたいに、同じ時間を巡り続けるのだろうか……。
「さて、そろそろ出発ですよ! お席にお付きになって下さい」
そう言い、跳ねるように先頭車両に走っていく。
私は客室に戻り鎮座した。すると、蒸気が金属に歪みを与え、擦り合わす騒音とともにゆっくりと動き始める
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