豚殺しの冒険

@isako

第1話

「君の仕事は、処刑された者の身体を焼いて灰にする仕事だ」

 ハンチング帽を被った男が僕に言った。

「もう少し、いい仕事がしたいです」僕がそう言うと、ハンチング帽は眉をひそめた。

「なら、生きてる豚を殺して、食べられる部分と食べられない部分に分ける仕事はどうだ?豚肉が、給与とは別に支給される。わたしは昔この仕事をしていたが、そんなに悪くない」

 僕はやはり、そんな仕事は嫌だったので、他にないかハンチング帽に尋ねた。

「あと君に任せられそうな仕事となると………」ハンチング帽は手元の書類をぱらぱらとめくる。僕はそれをじっと見つめていた。

「やっぱりないね。君にできる仕事は、罪人専門の火葬管理人か、屠殺場の職員くらいだ」

「なぜ、僕の仕事はそんな死にまつわるものばかりなんですか?」

「嫌かね?」ハンチング帽は言った。

「嫌ですよ。楽なものがいいとは言いませんが、もっと、人に胸を張って説明できる仕事がいい」

「何を言うんだ。どちらも大切な仕事だ。この町でなくてはならない仕事だよ。処刑された者の肉体が残ったままでは、悪魔が憑りつくかもしれないし、豚を殺して解体してくれる者がいなければ、人々は肉を食べることができない。それにこの町の人間は職業で人を差別したりはしない」

「確かにそうかもしれないけど、それは僕がしなくたっていい仕事でしょう。他の人間がやればいい」

「君と他の人間との違いなんてどこにあるんだ?他の人はみんな自分の仕事で忙しいんだ。そして君には君の仕事がある。この町で生きていきたいなら、君は罪人を焼くか、豚を殺すしかないんだ。君がそのどちらをも拒むなら、わたしは君の人差し指を切り落として、君に落伍者のをつけなければいけない。それは、わたしの望むところではない」

 そう言って、ハンチング帽は大きなナイフを机の上に乗せた。ごとん、と重い音がした。

 ナイフはとても錆びていた。これで何かを切るとなると、それは切断というよりか、圧し潰すことになるだろう。僕は自分の人差し指がこのナイフで押し潰されるのを想像して、ぞっとした。

「わかりました。豚を殺す方の仕事に就かせてください。豚肉が貰えるんですよね?」

「そうだ。殺したての新鮮な豚肉が君に与えられる。給与とは別に」

 そうして僕は『豚殺し』になった。


 この町では、人々は仕事の名前で呼ばれることになる。だから僕は、多くの人から『豚殺し』と呼ばれた。

 毎日、『豚殺し』と呼ばれるので、僕は自分の本当の名前を忘れそうになる。だから、自分の部屋のドアの、部屋側に大きく名前を彫っておいた。こうすれば、毎日屠殺場に行く前に自分の本当の名前を見ることになるので、忘れずに済むと考えたわけだ。

 僕は今日も、自分の名前が彫られたドアを眺めてから、屠殺場に向かう。町に来てから、ずっと曇り空を見ているような気がする。


 夜が明けて少し経ったところで、『らっぱ吹き』がらっぱを吹く。その音が起床の合図になる。『らっぱ吹き』は一日に五回、等間隔にらっぱを吹く。僕は二回目のらっぱが鳴り終わる前に、屠殺場ですべての準備を済ませなければいけない。汚れてもいいように、ブルーの作業着に着替えて、屠殺用のナイフと、解体用のナイフをそれぞれ研いで用意する。それから、『豚飼い』が来るまでしばらく待つ。やって来た『豚飼い』が連れてきた豚を、四回目のらっぱが鳴るまで殺して、解体する。解体し終わった豚肉の食べられる部分を『肉運び』に渡して、そのとき『肉運び』の目の前で自分の取り分を選んで袋に詰める。その内の少しを『肉運び』に分けてやると、『肉運び』はお礼に、酒か、たばこか、ポルノのピンナップをくれる。僕は酒もたばこもしないので、ポルノをもらう。

 ポルノはこの町のどこにも置いていないのに、『肉運び』はなぜかポルノを持っている。

 彼は僕にいつもポルノを分けてくれるが、その出どころは決して教えてはくれない。そして、他の人間にはポルノのことを秘密にしろと言う。もしそれがハンチング帽子の男に知られることになったら、大変なことになるんだ。そう彼は言った。

 その日の仕事が終わると、僕は財布の中にポルノを入れて、あと豚肉の袋を抱えて家に帰る。

 夕食に豚肉をフライパンで焼いてから、塩をかけて食べる。僕は豚を焼いて食べる度に、『豚飼い』が豚肉を食べられないことを思い出す。彼女は牛も鶏も食べるけど、豚だけは食べない。彼女は僕に豚たちを送り出す時には寂しそうな顔をする。でも泣きはしない。その寂しそうな顔を思い出しながら、僕は豚を食べる。

 夕食を食べ終えると、僕はその日貰ったポルノをしばらく眺める。ポルノは見るしか使いようがないけど、僕はなぜかこれが大事な物に思える。金色の髪の女がこちらを見ているポルノだった。こんな人間がこの世界のどこかにいるのだろうか。少なくとも、この町にはいない。

 ポルノを見ることに満足したら、僕はそれを文机の引き出しの中にしまって、部屋の電気を消す。

 一日最後のらっぱが聞こえる。僕はベッドに潜り込んで眠る。


 僕が最初に殺した豚の、その孫くらいの代の豚を殺した日、新しい住人が町にやって来た。彼女は僕とほとんど変わらない年頃だった。

 彼女は処刑された罪人の死体を焼く仕事に就いた。もとは僕がハンチング帽の男に勧められた仕事だったけど、結局僕ではなく、彼女がすることになった。

 他の人がすればいいと言った僕の言葉は、やはり間違いではなかったのだと僕は思った。でもその頃には、僕は、『豚殺し』の仕事ではない他の仕事をしたい、とは思わなくなっていた。とにかく、彼女は『体焼き』という名前を手に入れることになった。


 僕は、『体焼き』のことが気になっていた。純粋に、新入りのことが知りたいという意味で、彼女への興味があった。だが、町の人々はそうではなかった。誰も彼女にあまり興味がないようだった。『豚飼い』は同じ女性だから、話を聞いてみようとしたが、彼女はそもそも、僕のことをあまりよく思っていなかったので、まともな対応をしてはくれなかった。

 僕は『肉運び』に『体焼き』について尋ねてみた。

「人の頭の中身についてはとやかくいうモンじゃない、というのが俺の信条だが、この町ではそうもいかない。これは警告だと思って聞け。あまり他の人間に興味を示すのはやめたほうがいい。ハンチング帽の男に目を付けられると大変なんだ」

 彼は声をひそめて言った。僕はそれがなぜなのか尋ねた。

「俺にも分からない。でも、ハンチング帽はなぜかそういうことを嫌う。特に、男と女が仲良くなることを嫌うんだ。なぜ男と女の関係を嫌うのか、それも分からない。分からないことだらけだが、とにかく。大人しくしていれば、俺たちは新鮮な豚肉と、ポルノが楽しめる。お前が望むなら、酒とたばこもあるぜ」彼は笑った。少しひきつった感じの笑い方だった。僕は、彼の言うとおりにして、あまり『体焼き』について考えないようにした。そのうち、興味を薄れていって、僕は豚を解体することとポルノについて考えるだけの日々に戻っていった。


 とある日のことだった。今朝はらっぱが鳴らなかった。『らっぱ吹き』がらっぱを吹かなかったのだろうか。もしくは吹けなかったのかもしれない。僕は不思議に思いながら、それでもいつも通りに屠殺場に向かった。らっぱによる時刻のしらせはなかったけど、太陽の傾き具合から、普段の生活の何ら変わりない時間で行動できていることが分かった。多分他のみんなも、今日はそうやって過ごしているんだろう。

 大きさの違うナイフを二本、豚の血で汚れたテーブルの上に準備して、僕はその前に座る。コーヒーを淹れて、それを飲みながら『豚飼い』を待つ。やがて屠殺場の玄関のドアがノックされた。

 僕が出ると、そこにはやはり『豚飼い』がいた。でも彼女は、普段のような刺す視線ではなく、どこかぎこちない、不安げな表情を浮かべていた。いつも連れている数頭の豚が今日はいない。僕が事情を尋ねる前に、彼女は切りだした。

「『らっぱ吹き』が亡くなりました。今日は町中で喪に服するので、すべての仕事はお休みです」

 僕は少し驚いて、それから訊いた、「なぜ、彼は死んだの?」

「私は知りません」彼女はそう言って、僕に背を向け、早歩きで帰ってしまった。

 僕は『肉運び』が言っていたことを思い出した。他人に興味を持たない方がいい。特に男女の間の関係を、ハンチング帽子の男は好ましく思わない。

 『らっぱ吹き』とは全く面識がなかったけど、彼の死についてはなぜか興味があった。それは『肉運び』の忠告を無下にしてしまうくらいに、強い衝動だった。

 僕は二本のナイフをしまってから、ハンチング帽が暮らしている小屋へと向かった。


「豚を殺して分ける仕事と、『らっぱ吹き』の個人的な事情との間に何か関係があるのかな。わたしには分からないが、君がやって来るという事だから、何かの意味があるんだろう?ぜひ教えてくれ」ハンチング帽はそんなことを言った。

「関係はないけど、今日は暇だから、なんだか気になって聞きに来たんです」

「君は、もうこの町に来てそろそろ経つだろう。いつまでそんなことを言っているんだ?ここで暮らしていれば、分かって来るはずだ。他人との距離感や、自分のすべきことが。『らっぱ吹き』の死について詮索することは果たして君の使命だろうか。わたしはそうは思わない。君の使命は、豚が必要最低限の苦しみで済むように速やかに屠殺を終え、そしてできる限りたくさんの豚肉を切り分けて町の皆に提供することだ。わたしも週に三度、君の豚肉を食べている。悪くない。だがもっと向上できるはずだ。君には素質がある。おいしい豚肉こそ、君が追求すべきことだ。そのための努力ならばわたしは拒みはしない。質のいいナイフや砥石を分けてやることもできる。必要なら、他の道具も貸すことが出来る。この町で暮らすというのはそういうことだ。明日から、問題なくは吹かれることになる。君は明日も、豚を速やかに殺して、骨と内臓を取り除くんだ」

 ハンチング帽はポケットからぴかぴかのパイプを取り出して、そこに缶からつまみだしたたばこの葉を詰めてゆく。それからマッチを使って器用に火をつけた。彼の口から白い煙が吐き出される。

「それと、どうやら『体焼き』のことも嗅ぎまわっていたらしいな」

 ハンチング帽は僕を睨んだ。僕は「もうしていません」と言った。

「それでいい。君の仕事は豚を殺すことだけだ」そう言って彼は戸棚から小さな木箱を取り出した。それを僕に渡す。

「わたしの使い古しだが、綺麗に洗ってあるし、問題なく使えるものだ。心を落ち着かせてくれる。君に譲るよ」

 木箱の中には小さなパイプが入っていた。何に使うのか分からないが、更に小さな付属品もいくつか収まっていた。ハンチング帽は新しいたばこ葉の缶を僕に一つ渡した。

「僕はたばこはやりません」

「パイプと紙巻きは別物だ。一度、試してみるといい」

 そう言って、彼は僕を小屋から追い返すように立ち上がった。

「数少ない休みの日に家から出て、人を訪ねるなんて。これからは私のもとに来るのも控えなさい。他の人間のところに行くなんてもっての他だ。わかるね?」

「ええ」

「では、帰りなさい。家で大人しく身体を休ませることだ。それがまともな人間の休日の過ごし方というものだ」


 僕は家に帰った。そしてパイプの入った小箱とたばこ缶を置いて、代わりに燻製をした豚肉を持って火葬場へと向かった。

 豚肉に燻製をお土産に、僕は『体焼き』を訪ねることにしたのだ。

「入って」

 僕が火葬場に行くと、『体焼き』は短くそう言って、僕を火葬場の事務所に招いた。ちょうど湯を沸かしていたところらしく、彼女はコーヒーを一杯、僕に差し出してくれた。

 僕が礼を言ってそれに口をつけると、彼女は新しいコーヒー豆を小さなミルで挽きはじめた。一杯ずつ豆を挽いているらしい。

『体焼き』は、彼女が初めてこの町に来た時と比べて、随分と印象が変わっていた。僕は彼女がハンチング帽に連れられて来るところを一目見ただけだったが、その時に彼女から感じていた輝きのようなものは、今の彼女からは感じられなかった。見た目の変化は一切なかった。大きな眼はそのままだったし、賢そうな耳は彼女のショートヘアから時折その姿を見せていた。しかし一切の輝きは失われていた。僕は少し不思議に思った。

「あなた誰? 私知らないわ」『体焼き』は言った。そのあいだもごりごりとミルは動く。

「僕は――。」―――ぶたごろし。そう言おうとすると、なぜか引っかかりを感じた。確かに間違いなく僕は『豚殺し』であるはずなのに、どうにも腑に落ちない。何か忘れているような気がする。

「僕は『豚殺し』。豚を殺して、食べられる部分と食べられない部分に分ける仕事をしてる」

「私は『体焼き』。亡くなった人の身体を焼いて、その灰を捨てる仕事をしているの。ちなみにあなたが殺して、切り分けた豚の骨や内臓も私が焼いてるのよ」

 僕はそれを知らなかった。豚を殺して余る部位は、すべてごみ専用のコンテナに入れていた。誰かがそれをどこかに運び出して、中身が空のコンテナと交換してくれていることは気づいていたが、あのごみがここで焼かれていることは知らなかった。

 『体焼き』は自分のコーヒーを淹れて、それをもって僕の前に座った。僕は紙袋に入れておいた燻製を彼女に渡した。彼女はそれを喜んでくれた。そうして、僕は彼女に切り出した。

「『らっぱ吹き』がなぜ死んだのか君には分かる?」

「それは『らっぱ吹き』がこの町にふさわしくなかったからよ」

 彼女は当たり前のことを言うように教えてくれた。でもその説明では、僕は納得できなかった。

「具体的には、どう死んだのか知ってるかな」

「『ハンチング帽子』が殺したのよ」

 僕の胸がぐっと熱くなった。喉が強く締まって、気づいたときには涙が出ていた。僕にはそれを止められなかった。

 僕は涙を流しながら、『体焼き』に尋ねた。

「ハンチング帽は、なぜ、『らっぱ吹き』を殺したんだろうか」

「さぁ。それは私は知らないわ。でも、『ハンチング帽子』が住人を処刑するのは、その住人が町にふさわしくないからよ。彼は、町にふさわしくない人間を見つけると、その人の人差し指を切り落とす。それから、ここに連れてきて、『体焼き』と、『たばこつみ』と『酒造り』の目の前で、殺すの。私たち三人が、処刑を見守るのよ」

 彼女が教えてくれたことは、そのほとんど僕が全く知らなかったことだった。たくさんのことが気になったけど、僕は一番気になっていたことを彼女に尋ねた。

「君は、『らっぱ吹き』の処刑を、目の前で、見ていたんだね?」僕の声はしゃくりあげている。

「そうよ」彼女は短く答えた。

「なぜ君は、ハンチング帽を止めなかった?」

「なぜ? だって、『らっぱ吹き』は処刑されるような人だったのよ。ハンチング帽子がそう決めたのだし、それに彼って、殺されるその時までずっとへらへら笑ってたのよ。人差し指だって、もう切り落とされた後なのに。気持ち悪い人だったわ。頭のどこかがおかしかったのよ」彼女は顔をしかめてそう言った。

「『らっぱ吹き』は怖かったんだ」僕は呟いた。

「え?」彼女は聞き返した。

「彼は、怯えていたんだ。自分がこれから、殺されることを予感して、怖くて、たまらなくて、どうしようもないほどに。心が壊れないように、必死で恐怖を笑い飛ばそうとしたんだ。彼は死ぬその時まで立ち向かったんだ」

 僕がそこまで言ったときには、『体焼き』はもうテーブルからは離れていて、僕から距離を取っていた。彼女は強く言った。「あなたおかしいわ」

 僕も椅子から立って言った。

「今日はありがとう」

 彼女の返事を待たずに、僕は火葬場を去った。


 夜明けと同時に目が覚めた。

 顔を洗ってから、朝食の為の湯を沸かし始めた。沸き立つころに、らっぱの音が聞こえ始めた。いびつな音だった。死んだ『らっぱ吹き』はもっと上手に吹いていた。それでも、音はちゃんと町中に響き渡ってはいた。必要十分ならそれでいいだろう、と突っぱねるような響きだった。僕はその音を聞いて、ハンチング帽が吹いているのだろうなと思った。

 朝食を食べてから屠殺場へと向かった。いつも通りの準備をしてから、いつも通りに『豚飼い』を待った。

 やはりいつも通りに『豚飼い』やってきて僕を睨みながら豚を引き渡す。

「今日の豚は五匹です」彼女はつっけんどんに言った。

 僕はなんだかそれが辛かった。昨日知ったことは確かに僕の心をある程度疲弊させたが、それと『豚飼い』の態度とは何の関係もない。そのはずなのに、僕は、奇妙な苦痛を感じていた。それで、僕は彼女に言った。

「だったら、今日はもういいんじゃないかな」

 大切に育てていた豚をあっさりと殺される苦しみに、顔を俯かせていた『豚飼い』がはっと顔を上げた。不思議なものを見るかのように、僕を見つめていた。

 彼女は僕の言葉を待っていた。説明を求めていた。僕の突飛な提案のせいで彼女は混乱していた。

 僕は彼女を見ながら言った。「今日は休むよ」

「でもそれじゃ、今日の分の豚肉が町に届かない」彼女は泣きそうな声で言った。

「それで君は困るの? 僕は困らないよ。豚肉が食べられなくて困る人は、この町にはいないんじゃないかな」

「でも、ハンチング帽子は、きっとあなたを許さない」

 彼女はちゃんと僕がやろうとしていることの意味を分かっていた。

「だろうね。もし彼が君を追及するようなことがあったら、僕のせいだと言ってくれていい。というか、僕が豚を捌かない限り、豚の精肉ラインはストップしてしまうわけだから、そもそも君には何の責任もないんだけどね」

僕は続けた。

「君は豚を届けに来た。でも僕が豚を受け取らなかった。仕方なく君は豚舎に豚を戻した。これから起きるのはそれだけのことだよ」

 しばらく迷ったような顔をしてから、彼女は言った。

「ありがとう」

「君が礼をいうことではないんだよ」

『豚飼い』は今日殺されるはずだった豚たちを連れて帰って行った。

 僕は二本のナイフをしまって、新しいコーヒーをもう一杯飲んでから、屠殺場を後にした。

 僕が仕事を放棄したことをハンチング帽が知ったら、きっと彼は僕を処刑するだろう。その未来について怯えがないと言えば嘘になるが、僕は少しばかり清々しい気分にもなっていた。ハンチング帽は事を知ってから、しばらくの間、僕を探すためにこの町中を駆け回る必要があるのだ。その間彼は、眉間にしわを寄せて、不愉快な感情に満たされることになる。   

 これは幼稚な反逆だった。駄々をこねて父親を怒らせる子どもとしていることは変わりない。それでも、僕の心は、この町に来てからは味わうことが出来なかった気持ちに震えていた。

 僕に残された時間は多分そんなに多くはない。おそらく明日には処刑は終了するだろう。それまでずっと自分の家でコーヒーを飲みながらポルノを眺めるのも悪くないが、僕は数少ない友人に会いに行きたくなった。


 『肉運び』は僕が訪れると、とても驚いていた。それでも、すぐに笑って僕を彼の家に招いてくれた。

 僕らは『肉運び』の家の大きなソファに隣合わせに腰かけた。

「仕事はどうした?」彼は概ねの事情を推測しているはずだが、あくまで僕に尋ねてきた。

「放棄したんだ。今日から僕は『豚殺し』じゃない」僕は彼にそう言った。

 彼は意地悪そうに笑うと、じゃあお前はなんなんだ。と僕に言った。

 僕はそれに答えようとした。しかし、ここにやって来る前からの名前を思い出すことはできなかった。どこかに忘れないようメモしたはずだったのだが、その場所も、内容も忘れていた。

 名前を忘れてしまっていることに気が付いて、僕は怖くなった。今しがた、『豚殺し』としての自分を言葉にして否定してしまっただけに、自分が今何者であるのかが、さっぱり分からなくなってしまった。

「僕は何者でもない」震えた声で僕はそう言った。

「そりゃ素敵だな」彼は笑った。

 僕は頭を抱えた。

 僕はこの町に来てから、豚を殺すことで存在していたのだ。いや、豚を殺すに存在していた。そんな僕が豚を殺さなくなったら、果たしていったい、それは何なのだろうか。

 名前もなければ、仕事もない。存在する自我だけが宙ぶらりんになっていて、そして怯えている。

「僕はどうしたらいいんだろうか」

「そんなこと俺は知らないね」『肉運び』はやはり笑った。

「待ってくれ、僕の家のどこかに、名前を書いたメモかなにかがあるはずなんだ。この町に来る前の僕の名前を書いたメモがあるんだよ。それを今から、取って来る」

「名前なんて記号だよ。だからこそこの町の住人は名前を持たないんだ。みんな仕事の内容に沿った呼び名で呼ばれるだろ。『豚殺し』じゃなくなったお前はいったい何者なんだ?」 

 彼はくくく、と喉を鳴らした。

「分からない。僕には分からないよ」僕は懇願するように言った。そして例外に思い当たる。

「いや、彼はどうなんだ? ハンチング帽子の男だ。町にそぐわない人間を処刑する彼は、『処刑人』とは呼ばれない。そこにおいて、彼は僕たちとは違う。彼は何者なんだ?」

『肉運び』は僕の疑問にある種の満足を得たような顔で微笑んだ。それだよ、と彼は言った。

「ハンチング帽のヤツ、あいつだけは何かが違う。この町は実質あの男に支配されている。だが、奴は取り仕切るだけで、自分自身の生活をよくしようとか、そういうことを一切考えない。奴が手に入れているものは皆、俺たち他の住民だって望めば手に入るものばかりなんだ。あの男はただこの町の変化を拒む。住民たちの繋がりも嫌悪するし、新たな住人がやって来た時は、そいつが町にうまくことが出来るようにいろいろと苦心する。この間、新しくやって来た『体焼き』。あいつは初めの頃、死体を焼くのを拒んだんだ。そんな残酷なことはしたくないと言った。彼女はかなり激しく拒んだ。何人かの住人がたまたまその状況に出くわしたんだ。俺の他には、『牛飼い』や『たばこつみ』もいた。そこにハンチング帽がやって来た。あいつは『体焼き』の家に彼女と二人で入って行って、それから一晩経ったところで出てきた。中で何があったのか誰も知らない。ただ、出てきたときには、もう『体焼き』は仕事をしたくないとは言わなくなっていた。人が変わったように、大人しく死体や、生ごみの類を焼却炉に放り込むことに努め始めた。は今まで何度もあった。与えられた仕事に馴染めない住人を上手くやりこめてきたんだよ。あいつは。俺はあの男のそんな様子を見る度になんだか恐ろしくなる」

 僕はより一層、ハンチング帽の男が恐ろしくなった。

「もう仕事をしないんなら、『豚』のお前に一つ頼みがあるんだが」

『肉運び』は変な冗談で僕を名付けてから、笑った。

「なんだろう。簡単なことなら、手伝えるかもしれない」

 彼は文机の引き出しにしまってあったコンパスと地図を取り出して、僕の前に広げて見せた。

「ここが俺の家だよ。そしてここがお前の家」そう言って、彼は赤鉛筆でしるしを二つ、地図に書き込んだ。それから、今僕らがいるところの北西にある、だだっ広い土地を示した。

「ここに行ってきて欲しいんだ」

 地図を見る限り、そこまで遠くはない。ここまで歩いてこれたのと同じように歩いて行けそうな場所だった。

「そこはどういうところなんだろう」僕は尋ねた。

「墓場だよ」彼は答えた。「ハンチング帽の言葉を借りるなら、『罪人』の墓場だ。正式な方式で葬られずに、ただ身体を燃やされて、残った灰が、動物の死骸を燃やした後の灰なんかと一緒にここに捨てられるんだよ」

 僕は『肉運び』の顔を見つめた。少し悲し気に見えた気がした。

「『らっぱ吹き』のことかな?」

「そうだ。あいつもここに棄てられたんだ」

 彼は僕に頼んだ。

「『らっぱ』を供養して来てくれ。俺にはあそこまで行くことはできない」

 僕は頷いた。


 『肉運び』の家から三十分ほど歩いたところにそれはあった。広大な土地に大きく穴が掘ってあって、そこはたくさんの灰で満たされていた。古くなった灰と、穴に注がれたばかりの灰とでは、色が違った。もちろん、どの灰がかつて『らっぱ吹き』の肉体を構成していたものなのかは僕には分からなかった。

 僕は懐から、ポルノを一枚取り出した。僕のお気に入りのやつだった。太った女が一人、何も身につけないでこちらに背を向けて立っている。彼女の身体には、ありとあらゆるところに脂肪がついていたが、僕はこの女の裸体が、他のどんなポルノのよりも美しく感じられていた。

 穴の中にそのポルノを放り込んだ。灰の山の上に、太った女のポルノが乗った。女の姿を上にして、写真が見える向きに落ちた。

「いいポルノだね」

 声が聞こえた。振り向くと男がいた。痩せていて、そしてとても背が高い。彼の小さくて黒い眼は濡れていた。

「この町でポルノを扱うのは『肉運び』だけだ。僕もよく彼のポルノを分けてもらっていたよ。君は誰なんだい?」

 彼は静かに尋ねた。穏やかに微笑んでいる。僕は一度考えてから答えた。

「僕は『豚殺さず』っていうんだ」

「へぇ。『殺さず』かい? いいね。この町で『しない』ことを名前にするのは難しいことだ。気に入った。僕は『らっぱ吹き』だよ。厳密に言えば、『元らっぱ吹き』だけどね」

 『らっぱ吹き』は大穴のふちに腰かけた。落ちると危ないよ、そう言おうと思ったが、もう彼にとってそういう事は重要じゃないのだと気が付いた。

「それで『豚殺さず』くんは何をしにここに来たんだい? そんな名前を名乗っている以上、他にすべきことがあるような気がするけどね」

「『肉運び』に頼まれて君を供養しに来たんだ。あのポルノは君にあげるよ」

 彼は嬉しそうに笑った。

「本当かい? いや、ポルノの方じゃなくて、『肉運び』が僕を? 嬉しいな。この町じゃ、死んだ人間はすぐに忘れられちゃうんだ。代わりがすぐにやってくるからね。そうか、彼はまだ僕を覚えていてくれてるんだね」

「君が死んだのは昨日だろう? そんなにすぐには忘れないよ」

「いいや、普通はすぐに忘れるものなんだ。本当にすぐに。死んだという事実を知って、それについてなんの感想も抱かないなら、その場で記憶は消え去る。でも『肉運び』は憶えていてくれたんだ。彼にとって、僕はそれなりに大切な人間だったんだね。僕はそれが嬉しい」

 彼は落ち着きなく、足をばたつかせた。僕を見つめて本当に嬉しそうににこにこと笑っている。子どものように無邪気な笑顔だった。

「君はずいぶんと……明るいね。この町のどんな人よりも感情的だ」

「ああ、僕はもうこの町の住人じゃないからね。この町の空気を吸ってない。これが本来の僕なのさ。そのかわり僕はもうこの町を出られない。この町で死ぬってことは、そういうことなのさ。ハンチング帽の彼の支配を見届けることにするよ」

「君はなぜ、処刑されたんだ? 君が町にそぐわないというのはどういう意味なんだろう?」

「君と同じさ。この町の空気に合わせられない人間はがたまにやって来るんだ。僕もそうだった。君もそうらしい。ハンチング帽の言うことに初めは従っていても、そのうち嫌になって、すべてを投げ出してしまう。まぁ。たまには彼と戦おうとする人もいるけど、彼はまず勝てない。僕はこの町を出たいとハンチング帽に言ったんだ。ばか正直にね。そして適切に処理された。この墓場に魂は閉じ込められた。君は僕と波長があうんだろうね。だから死んだ僕とも話ができる。でも他の人間はできない。『肉運び』もきっとそうだろう。彼はそれが分かっていたから、ここに来なかったんじゃないかな。と僕は思う。なんにせよ、死んだ後もこうやって誰かと話ができるのは素晴らしいことだ。時間が許す限り、君と話をしていたいけど、そういうわけにはいかないね」

「僕はこれからどうすればいいんだろう」

「それを決めるのは僕じゃない。でも助言をしてあげることならできる。もし君がこのまま逃げ続けたなら、いつかはハンチング帽が君を捕まえて処刑する。これは今から彼に謝りに行っても同じことだから、『豚殺し』に戻ろうとするのもやめた方がいい。処刑されたあとは、僕みたいにここで魂が消滅するまで待つことになる」

「だろうね。それは僕にも想像がつくよ」

「さてどうしたものかな。僕はのんびりここから見守らせてもらうよ」彼は大きく笑って言った。

「助けてくれよ」僕は言った。

「おいおい。僕はただの幽霊だぜ。なんにもできないさ。こうして君みたいなひねくれ者と話すことしかできない。それに今更泣き言を言うくらいなら、君は豚を殺し続けるべきだったな。それに尽きる」そして、彼はさらに続けた。

「きっとハンチング帽は『肉運び』を脅しに行くだろう。そして言うんだ。君の行く先を言わなきゃ、お前も同罪だとかね。僕は『肉運び』との付き合いが長いからわかる。彼はちゃんと君を売る。彼はいいやつだけど、それでも、世界と自分との関係をわきまえてる人間なんだ。この町でやっていくと決めた人間なのさ。ハンチング帽を憎んで、恐れているけど、彼に反抗するほど愚かじゃない」

「そうかい」僕はここを去ろうとした。ハンチング帽が僕を追い続けるのなら、僕は逃げ続けなければいけない。さよなら。と彼に声をかけて、背を向けたその時、『らっぱ吹き』は僕を呼び止めた。

「一つだけ、君が処刑されずに済む方法がある」

 彼は穴の中の灰を見つめている。あの灰のプールの中には、間違いなく彼の身体も含まれているのだ。彼はどんな気持ちでいるのだろう。

「ハンチング帽は、この町にふさわしくない者を処刑するんだ。つまり、邪魔者を排除する。この町の均衡や停滞を破壊しかねない因子には容赦ない。ある意味、彼はこの町を守っているという言い方もできるわけだね。では、どうすれば君は彼に処刑されずに済むのか」

 もう彼は笑っていなかった。なんといっても、彼は幽霊なのだ。

「君が『墓守』になれば、ハンチング帽は君を殺さないだろう」

「『墓守』?」

「そう『墓守』だよ。この町の隠れた仕事の一つさ。普段は、ハンチング帽が町の管理と兼任して行っている。彼の住まいの近くに、地下墓地があるんだ。不思議な場所だ。僕のような罪人は魂の消滅を待つだけだが、この町で死んだ者は、そこに葬られることになる。彼はそこの掃除と警備をしているんだよ。いやいやにね」

「……つまり、ハンチング帽が好まない仕事を買って出ることで、僕には彼にとっての存在価値が生まれて、殺すわけにはいかなくなるということ?」

「そうだね。まさにその通りだ」

「でも、本当にその程度のことで助かるのか? 彼は反乱分子を許さない。そうだろ? 僕を生かしておくことは、彼にとって拭い去れない不都合であるはずだ」

「うん。でも君を殺すこと以上に、『墓守』の任務から抜け出せることは、ハンチング帽にとって、価値のあることなんだ。ハンチング帽にとって、『墓守』は苦痛なんだ。彼は死を嫌悪している。怖いんだよ。死者の霊魂というものは、自分に害をなすものだと思い込んでいる」

「だったら、彼は『墓守』の仕事を他の人間に頼めばいいじゃないか。彼に従順な人間はこの町にはたくさんいる。そうだろ?」

「ところがそうはいかない。なぜなら、まず『墓守』の仕事の存在を知っている人間がほとんどいない。多分、君と僕と、ハンチング帽。あと『たばこつみ』くらいしか知らないと思う。もしかしたら『体焼き』の彼女は知っているかもね。そして次に、ハンチング帽は自分から『墓守』の仕事について誰かに教えることができないんだ。だから、住人たちは、自分の知らない仕事について関与することができない」

「なぜ、ハンチング帽は『墓守』のことを誰にも教えられないんだろう?」

「それは僕にも分からない。ただ『たばこつみ』は、この町が出来たときからの『約束』だと言っていた」

「約束? 誰との?」

「さあね。それはハンチング帽に聞いた方が早いだろう」

「……彼が『墓守』について誰にも口を開けないなら、君はどうやって『墓守』のことを知ったんだい?」

「それは僕が『らっぱ吹き』だったからさ。あの仕事は、高いところで、町中を見下ろしながらやるから、色んな人の行動が見て取れるんだ。僕はそれで、ハンチング帽が、毎日一番明るい時間に地下墓地に向かっているのを見ている。入っていくときはとても憂鬱な感じで、出ていくときはとてもくたびれている。年老いた野良犬みたいに。『墓守』というのも、僕がそう呼んでいるだけだ。ハンチング帽は別の呼び方をしているかもしれない。だがとにかく、彼はあの仕事を嫌がっているはずだ。君が申し出れば彼はその責務から逃れられる。彼にとって千載一遇の機会なんだ。決して逃しはしないだろう。誰かが申し出ない限り、彼はあの仕事をし続けなければいけないからね。」

 そして僕は思い当たった。

「君はどうして、『墓守』の仕事を受けずに処刑されたんだい? 君が墓守になっていれば、君は死なずに済んだはずだ」

「……僕は、この町から逃げ出したかったんだ。この町は静かだけど、沈んでいて暗い。みんながなにかを棄てていて、それを義務にしているような場所だ。君にもなんとなく、わかるだろうね。この町で一度仕事を得たならば、あとは死ぬか、それとも町で生き続けるしかない。僕は町で生き続けるのは嫌だったから、処刑されるのを選んだ。『墓守』として生きていくやり方はあったかもしれないけど、それもやはり、この町のシステムとして生き続けることと同じだからね。それは御免だった」

 彼はまた笑っていた。自虐的な微笑みだった。彼はこうして、この廃棄場の淵で永遠に佇みつづける。誰かが会いに来ることは決してない。定期的に捨てられて溜まっていく灰を眺めるだけの存在になる。もう死んでいるから、終りはない。町のシステムから逃げ出した彼は、今度こそ無限の時間を町で過ごすことになる。誰にも影響を与えることはない。存在を認知しているのは僕くらいしかない。果たして彼は本当にシステムから逃げだせたのだろうか。僕は疑問に思ったが、口には出さなかった。


 『らっぱ吹き』の亡霊に別れを告げて、僕は廃棄場を去った。僕はまだ、自分の命のために『墓守』の業務を名乗り出るかどうかというところを決めかねていた。命惜しさに『墓守』になった僕の人生はどんなものになるだろう。そんなに楽しそうなものじゃない。きっと何らかの制約をハンチング帽に課せられるはずだ。きっとポルノも拝めない。それに、僕が、『豚殺し』を放棄したって、新しい『豚殺し』が町にやって来るだけなんだろう。僕という個人は、この町において著しく無力だった。

 僕は自分の部屋に戻った。アパルトマンの入り口にはひげを生やした背の低い男が立っていた。僕を見つけると、彼は雄たけびをあげて飛び上がった。

「『豚殺し』! 見つけたぞぉ。お前は処刑だ!」

 ひげの男はだるまにそのまま手足が生えたような体型だった。まるまると太った腹には、ワインか何かの染みがこびりついていて、それはどこかの地図みたいに見えた。

「あなたは?」

「わしは『たばこつみ』だ! あの高名な『たばこつみ』様だ! この町のたばこは全てわしの農場で作られたものだ! 『ごみあつめ』から『ハンチング帽』まで、皆がわしのたばこをふかす! わしはハンチング帽の命令でお前を探しておったのだ! 往生するんだな。わしの雄たけびを聞いたハンチング帽が、今にここにやってくるぞ!」

 僕は『たばこつみ』に言った。

「僕はもうじき処刑されます。最後に、あなたの素晴らしいたばこを吸っておきたい。僕の部屋に、パイプがあります。ハンチング帽が来る前に、一服する時間をいただけませんか」

 僕がそういうと、『たばこつみ』は大仰に頷いて高笑いをした。

「よろしい! わしは厳格だが、同時に情け深い人間なのだ。最後だからわしのすばらしいたばこを吸わせてやる! パイプはあるのだな? お前は運がいい。わしはいつでも最高級のたばこ缶を携帯している。これをやろう。ハンチング帽でも、月に一度しか吸えない代物だ!」

 彼は小さな缶を僕に渡した。僕は深々と頭を下げて、自分の部屋に向かった。彼の満足そうな高笑いが聞こえていた。

 『たばこつみ』がくれた高級たばこの缶をくず入れに投げて、僕はベッドの上に腰かけた。もうじきハンチング帽がやってくるのだろう。僕はそれまでに心を決めなくてはいけない。『墓守』になる決心が必要だ。今までに『肉運び』にもらったポルノ・ピンナップを眺めた。一つを『らっぱ吹き』に譲って、僕の手持ちは全部で十二枚だった。その中でもう一度ベストのものを選んだ。僕が選んだのは女の真っ赤な唇がアップで映し出されたものだった。濡れた唇の奥に、真っ白な歯とピンクの舌が覗いていた。『らっぱ吹き』にあげたものには敵わないが、これもいいポルノだ。

 今朝淹れたコーヒーの残りを温め直していると、エントランスが騒がしくなってきていた。ハンチング帽が来たのだろう。僕はポルノを全てズボンのポケットの中に入れた。マグの中にコーヒーを注ぎ始めたところで、僕の部屋のドアが強く叩かれた。「わたしだ」ハンチング帽の声がした。

 音に反応して、ドアの方を向いたとき、僕はそれを目にした。

 ドアに人の名前が彫られていた。誰の名前だろう。しばらく見つめていてようやく思い出した。あれは僕の名前だった。僕の名前はやはり『豚殺し』ではない。僕はやっと自分の名前を思い出した。

そしてドアが開いた。


 その日も曇りだった。『肉運び』が遠目に僕を見ていた。僕が手を振っても、彼は応じてくれない。もう彼からポルノを貰うことはできない。でも挨拶を返してもらえないことはそれ以上に悲しいことだった。彼だって好きで僕を無視してるんじゃないと思い込むことにした。彼との友情は僕のポケットの中の十二枚のポルノがその存在を証明してくれている。

 地下墓地の入り口の傍に立てたテントで僕は生活していた。ハンチング帽が住んでいる小屋の方をみた。彼もまた、窓から僕のことを睨んでいた。魔法瓶に熱いコーヒーが入っている。僕は荷物をもって地下墓地に潜り込んだ。

 手早く掃除を済ませて、僕はコーヒーを飲んで一息つく。地下墓地の中はかび臭いけど、慣れれば平気だった。その湿っぽくてひんやりした空気を、僕は受け入れることができた。

 僕はノートと鉛筆を取り出して、彼らを待った。彼らもまた僕を待っていた。僕が話を聞く準備を整えると、それとほぼ同時に彼らはやってくる。

 僕は日々、彼らの言葉を書き留めていた。それは意味を持たない音声のときもあれば、生前の記憶の断片であることもあったし、この世界の話ではないような荒唐無稽のものもあった。僕は少なくとも文章として記録できるものだけを書き留めた。ハンチング帽は僕の仕事に口出しはできない。彼は地下墓地を恐れるのと同様に僕のことも恐れるようになっていた。コーヒーを飲み切るとだいたいそれが終業の時間と同じくらいになる。ある種のルーティンが出来ていた。僕は地下墓地をでる。外の空気を吸う。夜の湿った空気は、同じ湿気でも地下墓地のそれとはやはり違う。テントに潜り込もうとしたとき、声が掛けられた。

「こんばんは!」

 女の子がいた。僕と同じくらいの年頃だった。この町の住人にしては、声や顔色が活発すぎる。新入りだろう。彼女の後ろ、遠くからハンチング帽が必死の形相で駆け寄ってきていた。彼女を僕と接触させたくないらしい。

「はじめまして。私は、『豚殺し』って言います! 昨日ここに来たばかりで。あなたは?」

 ハンチング帽がここに来るまで、まだ少しかかりそうだった。

「はじめまして。僕は――」

 僕は名乗った。

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豚殺しの冒険 @isako

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